文京区 本郷について

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【本郷】(ほんごう)1~7丁目                昭和40年4月1日
 湯島本郷・本郷村。いつごろ町となったかのは判らないが、寛文の頃には1~6丁目に分かれた
ようだ。そのときから本郷町ではなく本郷だった。明治2~5年に周辺武家地や寺地を併合、同1
1年「郡区町村編制法」により本郷区に所属。昭和22年文京区所属、同40年新住居表示により
本郷1~6丁目・元町1~2丁目・弓町1~2丁目・真砂町・本富士町・菊坂町・春木町1~3丁
目・金助町・台町・湯島6丁目の全部に、湯島5丁目と森川町のほぼ全部・春日町2丁目・田町・
龍岡町・湯島両門町の各一部をあわせた町域を1~7丁目に分けて現行の「本郷」とした。
 2丁目の水道局内に「水道歴史館」、3丁目に「日本サッカーミュージアム」、4丁目に「文京
ふるさと歴史館」がある。なおセンチュリータワーの「センチュリーミュージアム」は平成18年
に鎌倉に移転するため展示休止。

   本郷に脛吹かれゐる野分(台風)かな(沢本欣一)
   本郷は切通し上吹雪かな(久保田万太郎)
   金借りて冬本郷の坂下る(佐藤鬼房)
   本郷も変わりしといい新茶買ふ(細見綾子)

 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『文京区史』『文京の歴史』など。

 本郷の由来
 湯島郷の中心地の意。
 


■東京市立 → 東京都立 → 文京区立元町公園
 本郷1丁目1番1号にある区立公園。北側の元町小学校と一体計画で建設され、それが唯一残って
いる貴重な文化財。それが人口減少で、元町小学校が統廃合で廃校になったことにより。区はすかさ
ず公園と小学校の両方をぶっ壊し、公園跡地に高層ビルをおっ建てて中に区立体育館を造り、小学校
跡地は公園にするとの計画をぶちまげたからさぁ大変、囂囂たる反対運動が巻き起こった。計画は小
役人の発想らしい軽薄なものだから、「公園を残せ」の声は区外からも押し寄せた。それで一頓挫状
態。しかし結局は破壊してしまうだろう。
 現在、破壊か保存か継続審議中・・・・
 公園は入口から見ると正面階段の突き当たりにアーチ模様の壁泉があり左右二つの階段に振り分
けられ、それぞれが小広場に通じている。この公園は左右対称の露檀(テラス)やカスケードなど、
設置当時の原型を留めていることが分かる。こうした造園手法は傾斜地に試みられた、中世ヨーロッ
パのイタリアルネッサンス式庭園の流れを汲んでいる。上の広場からは木の間隠れに水道橋や神田川
方面の景色が眺められる。本郷台地から神田川へと下る崖線の地形を巧みに活かし見事にデザインさ
れた緑の空間は、カスケードやテラス状の広場パーゴラなど大正・昭和初期モダニズムの造形美に溢
れている。この公園の様式は、日本では明治から昭和の初期にかけて造られた幾つかの公園に取り入
れられている。
 元町小学校の校舎も貴重なもので昭和3年の鉄筋コンクリート造りの3階建てのビル。港区の旧陸
軍の歩兵第三聯隊兵舎も破壊されてしまった現在、この校舎は貴重なのだが・・・
 公園は昭和5年に東京市立公園として完成、震災復興公園の一つとして設置された。震災の死者の
大半は火災による死亡だが、樹木の多い庭園や丘に逃げ込んだ人たちは大木に守られて生き延びるこ
とができた。これを教訓に52の震災公園が作られることになった。同18年10月1日都立公園、
同25年10月1日に区に移管され区立公園となった。
 公園の立地は昔から富士山を遠望する視界の開けた場所であり、近年の高層ビルで眺めはさえぎら
れてしまったが、広重の江戸名所百景中の『水道橋、駿河台』は元町公園の位置からの展望だ。この
公園を作ったのは東京市の景観設計園芸技師の井下清。彼は東京の緑化に職業上の人生を捧げた人で、
彼の名は井の頭公園、安田庭園、清澄庭園、六義園、小石川後楽園など都内の主要庭園の保存維持に
関してしばしば言及され、多磨霊園の創設者でもあり、また都の街路樹の植栽も推進した。

 
カスケード
 段をなして落ちる人工の流れ。水階段。これは西欧の庭園、特にイタリア・ルネサンス式庭園に優
れた作品が多く見られる。一口にカスケードといっても全長、幅、段差そして階段の数など区々だ。
自然の滝に匹敵する雄大なものもあれば小規模で可愛らしいものもある。また階段の周辺に彫刻を施
したり、植込みをあしらったりすることで趣も変わる。


 保存運動
 平成18年9月1日、元町公園で保存派の市民、景観設計者、都市計画者など、約80人が4時間
の決起集会を開いた。校舎と公園の価値を深く認識する専門家が、井下の地味だが重要な業績につい
て講演し、その他のイベントも行われた。11時58分にはそぼ降る雨の中一同起立して関東大震災
の犠牲者のため1分間の黙祷を捧げた。参加諸団体や個人は、公園が総ての人々に必要、不可欠な価
値をもつとは認識せず、単なる空き地としか考えない政治的権力と対決して、全東京的運動を展開し
ている。煙山区長宛ての要望書を次々と提出して、元町公園と元町小学校の保存と活用を訴えた。日
本内外の公園保存派団体や市民と情報を共有しつつ、声をあげて、都市の諸問題を解決するとの理由
で公園体系をめちゃめちゃにするな、文京区は区立学校の問題解決のためだとして、東京の歴史文化
遺産である元町公園を勝手に処分するな、と呼びかけている。

  元町公園は東京のクォリティ・オブ・ライフの維持、向上に絶対必要なのです


 とは地元の悲痛な叫びだ。
 権力者は、往々にして歴史を破壊しバビロンの塔を建設したがるものなのだ。
 保存を求める団体は、日本造園学会・建築史学会・日本建築学会・日本建築家協会・土木学会。

 あれから早もう10年、問題は解決されず、保存されていると云えば保存されている。
 


■お茶の水坂

 本郷1丁目1番先、外堀通りを東に上がっていく坂道。

   お茶の水坂
   この神田川の外堀工事は元和年間(1615~1626)に行われた。それ以前に、ここ
   にあった高林寺(向丘2丁目に移転)の境内に湧き水があり、〝お茶の水〟として将軍に
   献上したことから、「お茶の水」の地名がおこった。
   『御政府備考』によれば「御茶之水は聖堂の西にあり、この井名水にして御茶の水に召し
   上げられしと・・・」とある。
   この坂は神田川(仙台堀)に沿って、お茶の水の上の坂で「お茶の水坂」という。坂の下
   の神田川に、かって神田上水の大樋(水道橋)が懸けられていたが、明治34年に取りは
   ずされた。

   
お茶の水橋低きに見ゆる水の色 寒む夜は更けて吾は行くなり(島木赤彦)

   平成9年3月                          文京区教育委員会
 


■建部坂

 本郷1丁目1番と2丁目3番の間、お茶の水坂上から北に上がる坂道。

   建部坂(初音坂)
   『新撰東京名所図会』に「富士見坂の西にある坂を建部坂といふ。幕士建部氏の邸地あり
   因って此名に呼び做せり」とある。嘉永三年(1850)の『江戸切絵図』で近江屋版を
   見ると、建部坂の上り口西側一帯(現在の元町公園)に建部氏の屋敷が見える。直参千四
   百石で、八百八十坪(約2900㎡)であった。
   『御府内備考』に次のような記事がある。建部六右衛門様御屋舗は、河岸通りまであり、
   河岸の方はがけになっている。がけ上は庭で土地が高く、見晴らしが良い。がけ一帯にや
   ぶが茂り、年々鶯の初音早く、年によっては12月のうちでも鳴くので、自然と初音の森
   といわれるようになった。明和9年(1772)丸山菊坂より出火の節、やぶが焼けてし
   まったが、今でも初音の森といっている。初音の森の近くで、一名初音坂ともいわれた。
                文京区教育委員会 平成14年3月
  


■元町小学校 廃校
 本郷1丁目1番19号にあった区立校。明治44年11月設立認可。同45年1月三河神社前、本
郷元町49・50・61番地に校地を取得。6月末校舎完成。7月1日「東京市元町尋常小学校」と
して開校。児童は当時壱岐坂にあった私立学校「習性」から5~600名が移籍、湯島、真砂の両校
から300名ほどが転入して919名でスタートした。校名の元町は、江戸時代から新住居表示まで
あった町名で、本郷で最初に町割りしたことによる。同44年までは本郷を冠していた。校名はその
地名に従った。
 大正12年関東大震災で類焼。12月仮校舎完成。同13年9月仮校舎焼失。同15年鉄筋コンク
リート造り3階建て校舎着工。昭和2年校舎落成。同7年創立20周年記念式典・プール設置。同1
6年国民学校令により「東京府東京市元町国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都制施行に
より「東京都元町国民学校」と改称。同19年栃木県黒羽町・川西町・金田村に学童集団疎開。高射
砲隊、水道局、本郷商業学校などが同居。同20年日本は、アメリカの軍門に降り敗戦。以後その属
国とされ、唯々諾々といいなりになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。
 同21年3月疎開解除により学童が帰京。都立豊島中学校(文京高校)が一部使用。同22年アメ
リカの強制による学制改革改革により「東京都文京区元町小学校」と解消。5月区立四中の設立に伴
い、校舎の一部使用。同23年文京四中が湯島小学校に移転。同27年文京高校転出。その後文京二
中・文京六中が一時使用したことがある。同37年創立50周年記念式典・視聴覚教室完成。
 平成10年少子化により真砂小学校と統合して本郷小学校となる。

 跡地利用
 同11~14年本郷小学校の仮校舎として使用。同14~16年桜蔭学園に貸し出し。同16~1
8年田中千代服飾専門学校に貸し出し。同9年から6年間順天堂大学に貸し出し。
 跡地は、校舎を取り壊して新しい元町公園となる予定を立てたが、元町公園がそんじょそこいらの
公園とは違う価値ある公園だったため、住民が猛反対、それが世間に知れて、そこいら中から反対の
嵐、区はその勢いに飲まれて計画は頓挫、熱りの冷めるのを待っている。
 機能的で美的センスにすぐれ、素晴らしい空間感覚をかもしだす造園は、景観設計者や都市計画者
に高く評価されており、昭和60年に区が修復工事をした際、当時の区は公園の文化財としての価値
を認識して、十分な時間と費用をかけて最善の復元と保存につとめた。


■昭和一高学園・昭和第一高等学校

 本郷1丁目2番15号にある私立校。昭和4年昭和第一商業学校創立。同16年12月日米開戦。
同20年日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦、以後属国となる。唯々諾々としていいな
りになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。同22年アメリカの強制によ
る学制改革により昭和第一中学校を設立。同23年昭和第一高等学校設立。同41年特別教育活動や
特別学習指導の場として、山梨県の名勝・昇仙峡に昇仙峡校舎を開設。同43年第1回ホンコン・マ
カオ海外研修旅行を実施。同54年創立50周年記念式典(九段会館)。アイオワ州ブエナヴィスタ
大学と提携し、第1回米国語学研修旅行とホームスティ・プログラム実施。同55年学校法人昭和第
一学園を昭和一高学園と変更。同61年スポーツとセミナーの場として千葉県袖ヶ浦ロッジングハウ
スを開設。同63年米国ロサンゼルス市に、SDH昭和第一高等学校事務所を開設。平成元年米国サ
ンディエゴ市、フランシス・W・パーカー校と姉妹校を結び、留学や語学研修の場として提携。同4
年オーストラリア・シドニー郊外のマッカーサー・アングリカン高校と提携し、ホームステイをしな
がら語学研修を実施。同7年長野菅平に研修センターを開設。学習・スポーツなどのセミナーを実施。
学校経営も大変だわ。生徒が飽きないように倦まぬようにしなくちゃならないから。少子化を睨み、
同17年度より男女共学に踏み切る。
 


■忠弥坂
 本郷1丁目2番と6番の間の坂道、と区の説明板には書いてあるが、実際は3番と5番の間。説明
板も桜蔭学園と宝生能楽堂の間のところに建ててある。


■工芸高等学校

 本郷1丁目3番9号、外堀端に面してあるガラス張りの巨大なビルの都立校。明治40年「東京府
立工芸学校」として京橋区築地3丁目15番地に開校。大正12年関東大震災のため校舎全焼。10
月15日東京府立第六中学校を間借りする形で授業を再開。翌13年には旧校舎が焼失した跡地に仮
校舎を建設し授業を続けた。昭和2年本郷区元町1丁目1番地の現在地に新校舎落成転入。同18年
の東京都都制実施の際に「東京都立工芸学校」と改称。さらに同23年のアメリカの強制による学制
改革で「東京都立工芸新制高等学校」となり、同25年「東京都立工芸高等学校」と改称。同時に各
科の名称も改称された。新科名は「金属工芸課程」「機械工作課程」「木材工芸課程」「印刷工芸課
程」および前年増設された「図案課程(全日制のみ)」となった。それまで併設していた「実業夜間
学校普通部」を廃止。現在の定時制の前身である「第二本科(夜間高小卒4年制)」を設置。
 この頃本校の卒業生であり教員でもあった、日本を代表するグラフィックデザイナー原弘が注目さ
れ始める。パッケージ、ポスターのデザインや装丁などを数多く手がけた原は、ライプチヒ国際ブッ
クデザイン展金賞、東京ADC賞銀賞など数々の賞を受賞した。
 同37年この年の第一期改修工事(校舎屋上の防水工事)を皮切りに、およそ10年11期に及ぶ
改修工事がスタート。校舎壁面、教室、中庭などの改修の外、同44年には写真実習室、同47年に
は食堂を増築。同48年に本館南側の改修などを行なった第11期改修工事をもって、大規模な一連
の改修工事が終了した。同62年創立80周年記念式典。平成5年4月からスタートした3期に亘る
改修工事を経て、創立90周年を迎えた同9年地上9階・地下2階の新校舎が落成した。同18年創
立100周年を迎え、翌19年記念式典。


   学校のコメント
   都立工芸高校はこの100年間、大震災、世界大戦といった苦難の時期を乗り越え、数多
   くの職人、クリエイター、エンジニアを輩出してきた。多くの卒業生は今なお日本の「も
   のづくり」を支え続け、在校生たちは明日のクリエイターを目指して切磋琢磨する。
   この工芸高校の伝統は、次の100年間も確実に受け継がれていくだろう。


 
つかのまの憩

 水道橋交差点側の角の植栽にある高田洋一作のオブジェ。

 卒業生にはこんな人が!
 
児玉清(俳優)、原田美枝子(女優 代々木高校に転校)


■神田上水跡碑

 本郷1丁目3番先、水道橋交差点から東へ約30mの神田川沿い歩道脇にある。

   神田上水跡碑
   神田上水は、井の頭池の湧水を水源とする江戸時代初期につくられた日本最古の都市水道
   です。文京区関口に堰を設けて上水を取り入れ、小日向台下の裾を通り、小石川後楽園の
   中を抜け、水道橋の東側で神田川を掛樋(かけひ)で渡し、神田・日本橋方面に給水され
   ていました。                       文京区土木部公園緑地課
  


■お茶の水分水路碑

 本郷1丁目3番先、水道橋交差点から東へ約80mの神田川沿い歩道脇にある。分水路とは、洪水
を本川と併行に流し、水害を軽減させるために道路下に造る川のバイパスのことだ。お茶の水分水路
は土被りや埋設物等の状況を考慮して、開削工法とトンネル工法の2工法により施工され、トンネル
部は泥水加圧式シールド工法で掘進した。水道橋から昌平橋までの延長1300m、神田川と平行に
走る外堀通りの地下で、洪水防止に貢献する。他に
水道橋分水路、江戸川橋分水路、高田の馬場分水
路がある。
 


■神田上水懸樋碑

 本郷1丁目3番先神田川沿い歩道の脇、お茶の水分水路碑の東30mにある。神田上水は、井の頭
・善福寺・妙正寺池を水源として小石川の大洗堰で分水、水戸藩邸内を経てこの位置で神田川を掛樋
で渡り、江戸北東部の市街地に給水した。人口の密集する江戸の下町は、埋立地が多く、井戸を掘っ
ても良質な水を得られなかった。徳川家康は、江戸入府に先立ち家臣の大久保藤五郎(主水)に命じ
て水道の開発にあたらせ、これが神田上水の基になった。

   神田上水懸樋
   江戸時代、神田川に木製の樋を架け神田上水の水を通し、神田、日本橋方面に給水してい
   ました。明治34年まで、江戸・東京市民に飲み水を供給し続け、日本最古の都市水道と
   して、大きな役割を果たしました。
   この樋は、懸樋(掛樋)と呼ばれ、この辺りに架けられていました。
   この絵は、江戸時代に描かれたもので、この辺りののどかな風情が感じられます。
   平成8年3月                            東京都文京区


■忠弥坂

 本郷1丁目3番工芸高校と5番宝生能楽堂の間の坂道。区の説明板が桜蔭学園の角の辺りに建てて
ある。不思議なことに「本郷1丁目2番と6番の間」と書いてある。そこはもう坂上だ。

   
忠弥坂                        本郷1丁目2番と6番の間
   
坂の上あたりに丸橋忠弥の槍の道場があって、忠弥が慶安事件で捕えられた場所にも近い
   ということで、この名がつけられた。道場のあった場所については諸説ある。
   〝慶安事件〟は、忠弥が由井正雪とともに、慶安四年(1651)江戸幕府の転覆を企て
   て失敗におわった当時の一大事件であった。
   忠弥の名は、浄瑠璃や歌舞伎の登場人物としても有名である。
               文京区教育委員会 平成元年3月
  


■宝生能楽堂

 本郷1丁目5番9号にある。奈良時代に中国より「散楽」が輸入され、やがて「猿楽」となる。鎌
倉時代に「座」と呼ばれる集団が形成され、寺社との結び付きを深めていく。室町時代の初め、観阿
弥・世阿弥が登場。足利義満の保護を受け、能を形成した。その中期~後期、大和四座と呼ばれる外
山座(とびざ、後の宝生流)・結崎座(ゆうさきざ、後の観世流)・坂戸座(さかどざ、後の金剛流)
・円満井座(えんまいざ、後の金春流)が生まれ、「能」が大成される。江戸初期~中期、加賀前田
藩が代々宝生を嗜み、「加賀宝生」という言葉も生まれる。他に「南部宝生」「佐渡宝生」「会津宝
生」「久留米宝生」など各地に宝生流が盛んになる。江戸後期11代将軍家斉に特に愛好される。弘
化5年江戸期最大といわれる宝生勧進能が神田筋違橋御門外にて15日間張行。明治時代、武家階級
の滅亡と同時に、能役者も扶持をはなれ苦難の時代を迎える。その後、徳川慶喜に従い静岡へ移住し
ていた松本金太郎が神田猿楽町へ戻り、ささやかな宝生会の礎を築くことになる。

 
明治18年16世宗家宝生九郎知栄の片腕とよばれた松本金太郎が、神田猿楽町にささやかな稽古
舞台を造る。同19年「温故会」と命名、発足。同20年「松本稽古会」と改名、宗家も出演するよ
うになる。同26年舞台の改築を機に「宝生会」と改称し「宝生会」が誕生。同45年社団法人とし
て登記。
 大正2年当時としては東京一を誇る絢爛な「宝生能楽堂」神田猿楽町に完成。同12年関東大震災
により能楽堂・宗家邸宅焼失。同13年松平頼寿邸跡地(現在地)が提供される。
 昭和3年前田利為候爵・松平頼寿伯爵をはじめ、安田・三輪の財閥の協力を得、この地に「宝生会
館能楽堂」が完成。5流を網羅できる代表的な能楽堂として、その豪華さも語り草となる。4月1日
より宗家の「翁」を皮切りに舞台披き盛大に催行。
同20年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆
により、再び焼失。
 同21年月並能が復活し「五雲会」創始。同25年1年半に亘り、全国の流友に流債を募り、宗家
父子も全職分協力して舞台再建。「水道橋能楽堂」と呼ばれた。同54年能楽堂建替え落成。
 


■讃岐金刀比羅宮・東京分社

 本郷1丁目5番11号にある「水道橋の金毘羅さん」と呼ばれる讃岐金刀比羅宮の直轄境外末社。
深川にあった金刀比羅宮の境外末社と高松藩松平家上屋敷の邸内社を起源とする水道橋金刀比羅神社
を合祀している。深川の金刀比羅宮末社は、文政二年(1819)下板橋宿の板橋市左衛門が所有地
内に金毘羅大権現を勧請したことに始まる。その後、周囲の人々の信仰を集め、明治13年無格社金
刀比羅神社として公認された。同17年板橋宿の大火により社殿焼失。同21年神田和泉町に遷座し
て金刀比羅宮の境外末社となり、同26年深川区古市場に移転、同34年正遷座祭が執り行われた。
しかし大正12年関東大震災により社殿が焼失。昭和5年再建されたが、同20年愚かなアメリカ軍
の非人道的無差別の東京大空襲によって再び焼失し、神霊は讃岐の本宮境内・旭社に仮奉安された。
 昭和30年代になり、崇敬者の要望により、松平頼明から寄進された現社地に再興することになっ
た。この辺りは高松藩松平家の下屋敷跡で、社地は松平家ゆかりの水道橋金刀比羅神社があったとこ
ろだ。
 水道橋金刀比羅神社は、寛政五年(1793)高松藩上屋敷(現在の飯田橋辺り)の邸内社として
勧請された。明治4年本郷元町の下屋敷に遷座したが(現在の都立工芸高校の辺り)、大正12年関
東大震災で社殿が焼失したため、昭和5年現在の場所に社殿を再建した。しかし昭和20年愚かなア
メリカ軍の非人道的無差別の東京大空襲によって再び焼失し、神霊は巣鴨の松平邸内に奉安されてい
た。昭和33年仮殿を造営して松平邸内の神霊を遷座。さらに同39年現在の社殿が竣工、本宮旭社
に奉安していた御神霊を遷し、両社を合わせ祀って正遷座祭が執り行われた。


 水道橋稲荷神社
 金刀比羅宮の境内にある。

 
松平頼重候下屋敷

 境内に説明板がある。社殿裏手の崖上に立派な石灯籠がある。松平時代のものだろうか。

   この地一帯(東京都立工芸高校 宝生能楽堂 金刀比羅宮東京分社)は高松松平家下屋敷
   のあったところである。高松松平家は松平頼重を藩祖とし徳川光圀とは兄弟の関係にあっ
   た。爾来現13代の頼明に至るまで松平家は、四国にあって教育と経済の振興に力を尽し
   てきた。特筆すべきは12代頼寿で、頼寿は貴族院議長として名声を博し、わが国の議会
   政治史上に一点を留め、他方大正大震災の後、旧本郷区の要請で本郷学園を創設し、わが
   国教育面に大いなる貢献をした。
   昭和60年6月             文京歴史研究会
                       近藤英明 松本弁吉 褒章英雄 浪越徳治郎
                       久留島正 小川光二 荒川忠親 田中行成
                       田代喜一郎 及川省吾 石坂岩雄 岡崎道彦
                       茅島敬史 成沢偉三郎


桜蔭学園 中学校・高等学校
 本郷1丁目5番25号にある私立校。大正元年東京府知事より「桜蔭女学校」設立許可。東京女子
高等師範学校(お茶の水女子大学)同窓会・社団法人「桜蔭会」の創立になる。桜蔭会は、同12年
の関東大震災後の女子教育機関の不足を整備し、合わせて社会報恩の理念の下に本学園を設立した。
後閑キクノが初代校長に就任。第1学年100名2学級にて授業開始。同15年5年制高等女学校設
置認可され「桜蔭高等女学校」と改称。
 昭和3年生徒数500名10学級となる。同5年財団法人桜蔭高等女学校設立。同12月生徒定数
750名15学級認可。同6年3月校歌制定。

 校歌「心の花の」 作詞・吉岡郷甫  作曲・信時潔。
  1.心の花の長閑に咲きて
    我が家に匂ひ この世に薫る
    ああ美し いざ挿頭さむ
    桜の蔭を 名に負ふ庭に
    学ぶ我が友 いざ挿頭さむ
  2.愛の泉の豊かに湧きて
    我が家に溢れ この世を浸す
    ああ麗し いざ掬ばむ
    聖の渓の ゆかりの庭に
    遊ぶ我が友 いざ掬ばむ


 同9年創立10周年記念式典。同15年生徒定員1000名20学級。同20年愚かなアメリカ軍
の非人道的無差別空爆により、校舎の4分の3を焼失。8月日本はアメリカの軍門に降り敗戦。以後
属国とされ、唯々諾々といいなりになる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。
日本はアメリカの属国なんだよ。肝に銘じて忘れるな!
 同22年桜蔭高等女学校専攻科(国・英)設置認可。アメリカの強制による学制改革により「桜蔭
中学校」450名9学級設置認可。同23年「桜蔭高等学校」普通科600名設置認可。同24年創
立25周年記念式典挙行。同25年桜蔭高等学校専攻科廃止。同26年学校法人桜蔭学園設立。同2
9年創立30周年記念式典。同34年群馬県北軽井沢に浅間山荘落成。保谷市にひばりが丘運動場完
成。同35年中学校生徒定員600名に増員。同37年4号館新築落成。同39年創立40周年記念
式典。同45年5号館新築落成(体育館・温水プール等)。同46年中学校生徒定員を750名に増
員。同48年ひばりが丘運動場更衣棟新築。同49年高等学校の生徒定員750名に増加。創立50
周年記念式典。同54年3号館改築(第二体育館・普通教室等)。同58年ひばりが丘運動場隣接地
購入。同59年創立60周年記念式典挙行。同63年桜蔭学園隣接地に新講堂新築落成。
 平成5年浅間山荘新棟落成。同6年創立70周年記念式典。同7年5号館改築並びに特別教室棟竣
工。同9年ひばりが丘運動場管理棟新築。同11年コンピュータ教室完成。創立75周年記念式典。
同14年新校舎建設のため文京区立旧元町小学校を借用。同15年新校舎西館竣工。5号館を東館と
改称。旧元町小学校より学園に戻る。同16年東館の隣接地に別館新築。

 女子御三家 女子最難関校
 東大合格者数の多い3つの女子高の意。桜蔭・女子学院・四谷雙葉の3校をいう。昭和40年代ま
では一般的な中堅私立女子校だったが、学習指導に力を入れ始めてから急速に進学実績を伸ばしてき
た。
大体240名の卒業生の内、70名弱が東大へ進学。東大合格率30%と脅威の実績を誇る。生
徒によると、カリキュラムの進度は非常に速いという。当然女子校だからといって理系科目に手抜き
はない。そんな高速カリキュラムでも、元来賢く真面目な生徒が多いため、それほど苦労することな
く落伍者はない。施設面では、都内にあるということもあり、校庭がないのはスポーツをしたい子に
はマイナスかな。従って部活はどうしても体育館種目が中心となる。ひばりが丘グラウンドまで行っ
てられねえわさ。況や女の子は馬鹿な男子とは違うからね。
 校風は大人の付き合いというイメージらしい。気の合う人とつるみ、それ以外の人とは深く関わり
を持たない。同学年でお互いに知らないということも多く見受けられるとか。学校全体で一体感を持
つということはなく、「私は私、あなたはあなた」という過ごし方。学問に打ち込む子もいれば、流
行のファッションをして遊ぶ子もいて「これが桜蔭」というスタイルはない。こういう校風は、思い
思いに過ごすには快適だろうが、熱い青春を過ごしたい人にはやや物足りないという評論もある。

 
制服

 
基本は丸襟の白ブラウスに紺色のジャンパースカート。腰には紺色の腰紐を絞める。
 夏は半袖ブラウスに、スカートは素材が薄くなり、色もやや薄くなる。ジャンパースカートのみの
着用の際には左胸に校章をつける。
 また冬はスカートの上に学校指定のoinという赤い刺繍入りのセーターや、ブレザーを着る。ブ
レザー着用の場合はブレザーの左胸にあるポケットに校章をつける。様々な正式な式典の際には正装
として校章のついたブレザーの着用と黒長靴下(黒タイツ)をはくことが義務づけられている。男の
子の評判は「ダサイ」とか。コスプレじゃあるまいし、勉強するのに制服が地味だろうが、ダサかろ
うが、ソンナノカンケイネー!

 
卒業生にはこんな人が!
 
 
北原怜子(アリの町のマリア)・東郷晴子(女優)・水森亜土(漫画家・歌手)・猪口邦子(上智
大学教授・小泉チルドレン)・水島弘子(衆院議員・民主党)・響奈美(京大‐AV女優)・菊川怜
(東大‐タレント)・楠城華子(東大‐タレント・旧称六條華)・白石みゆき(AV女優‐防衛医大
‐産業医大)・八田亜矢子(東大留年組 タレント)などなど多士済々。
 堅苦しい見てくれ真面目な学校かと思ったら、学者・政治家からAV女優まで、この幅の広さは、
却って学校の自由さ、大きさを感じる。結局「いい学校」なんだろう。頭のいい女の子も〝普通の女
の子〟ってことだよ。だからこその女子御三家なのかな!
 


医歯薬出版株式会社
 本郷1丁目7番10号は、大正10年に創業を開始した日本の出版社で、医学、歯学などの医療系
分野を専門とする大手出版社だ。出版物の多くは、歯学系の模擬試験問題や歯科医師のための月刊誌
で、売り上げの大部分を占める。月刊誌としては、リハビリテーション、医学系出版社としては、希
有な介護(高齢者ケア)のジャンルが目を引くが、「医学のあゆみ」、「さかえ」(平成12年より
日本糖尿病協会が発売)、「PRACTICE」などの医療に通じた雑誌も長年継続して発行されて
いる。  


嶺松山弘願院昌清寺
 本郷1丁目8番3号にある浄土宗の寺。詳細不明。

   松平忠長と昌清寺
   寺は浄土宗嶺松山弘願院昌清寺と称され、元和元年(1615)の創建である。開基は朝
   倉きよ(お清の方)、駿河大納言忠長(家光の弟)の乳母である。父2代将軍秀忠と母江
   与は忠長を寵愛し、忠長に次期将軍職を譲ろうと考えた。併し兄家光の乳母春日局が家康
   に直訴するに及んで、将軍は家光に決まった。忠長は駿府城主となったが、なお大坂城主
   を要請したため家光の怒りに触れ、領地は没収され、高崎城に幽閉され自害した。寛永十
   年(1633)忠長28歳であった。忠長死後、忠長夫人お昌の方(信長の曾孫)は剃髪
   松孝院と号した。乳母のお清も剃髪し、お昌の一字を貰い、昌清尼と称した。松孝院は忠
   長の菩提を弔うに当たり公儀に配慮し、自分に代わって乳母お清に昌清寺で忠長の供養を
   させた。
   平成17年3月                         文京区教育委員会
 


■興安寺
 本郷1丁目8番18号にある浄土真宗大谷派の寺。詳細不明。 


■壱岐坂
 本郷1丁目の白山通りから20番と22番の間を通り、新本郷通りを越え、東洋女子短期大学の北
を本郷2丁目に達するまでの坂道。正しくは壱岐殿坂、いきどん坂と呼んだりもする。268m。高
低差13.35m。

   壱岐坂
   「壱岐坂は、御弓町へのぼる坂なり。 彦坂壱岐守屋敷ありしゆへの名なりといふ。 按に
   元和年中(1615~1623) の本郷の図を見るに、此坂の右の方に小笠原壱岐守下屋
   敷ありて吉祥寺に隣れり。 おそらくは此小笠原よりおこりし名なるべし」(改撰江戸志)
   御弓町については 「慶長・元和の頃御弓同心組屋敷となる」とある。(旧事茗話)
   昭和48年3月                         文京区教育委員会


 壱岐坂の碑(壱岐殿坂の碑)
 本郷1丁目18番5号先の角地、新本郷通りに面してある。銅像は女性のセクシーポーズ。とって
もいい女、失礼、女性だ。


   江戸時代には、社寺や大名屋敷は、ほとんど移転することもなかったので交通の重要な目
   印となっていました。この坂は昔、この地にあった小笠原壱岐守の下屋敷にちなんで壱岐
   殿坂と呼ばれていました。
   当時、小笠原家は、九州佐賀県唐津六万石の大名でした。壱岐坂は、白山通り(本郷1丁
   目20・22の間)から上り、東洋女子短大の所で通称大横町へ至る細い坂道です。
 


■新壱岐坂
 本郷1丁目の白山通りの壱岐坂下交差点から、本郷2丁目の壱岐坂上歩道橋のところに上がる新本
郷通りの坂道。

   新壱岐坂
   新壱岐坂は、現在区内の幹線道路として知られていますが、元となった壱岐殿坂の名や場
   所は、次第に忘れられようとしています。大正12年の関東大震災の復興計画に基づき、
   本郷2丁目から現在の東京ドームに向かって新しく開かれた坂道です。標識の説明による
   と、坂の中ほどにある東洋女子短期大学の脇で、この坂と斜めに交差している細い坂道が
   あり、「壱岐(殿)坂」と云います。壱岐坂の水道橋寄りに。小笠原壱岐守の下屋敷があっ
   たので、この名がついたといわれています。壱岐坂は、江戸時代からあった古い坂です。
   長い歴史のある壱岐(殿)坂の名を採って〝新壱岐坂〟としました。
                                   文京区教育委員会

   
新壱岐坂(しんいきざか)                  本郷1‐22と23の間
   大正12年の関東大震災の復興計画によって、新しく開かれた昭和の坂である。この坂の
   中程にある東洋女子短期大学の脇で、この坂と斜めに交差している細い坂道がある。「壱
   岐(殿)坂」という。壱岐坂の水道橋寄りに小笠原壱岐守の下屋敷があったので、この名
   が付いたといわれる。江戸時代からあった古い坂である。永い歴史のある壱岐(殿)坂の
   名をとって、この坂を〝新壱岐坂〟とした。現在は、区内の幹線道路として広く知られて
   いるが、元になった壱岐(殿)坂の名は忘れられようとしている。
              東京都文京区教育委員会 平成元年3月


新坂(外記坂)

 本郷1丁目25番と33番の間の雁木坂(階段)。

   新坂外記坂 げきさか
   区内には、新坂と呼ばれる坂が6つある。『東京案内』に、「壱岐坂の北にありて小石川
   春日町に下るを新坂といふ」とある。『江戸切絵図』(嘉永六年尾張屋清七版)によると
   坂上北側に内藤外記という旗本の大きな屋敷があり、ゲキサカとある。新坂というが、江
   戸時代からあった古い坂である。
   この坂の一帯は、もと御弓町、その後、弓町と呼ばれ、慶長・元和の頃(1600年頃)
   御弓組の与力同心六組の屋敷がおかれ、的場で弓の稽古が行われた。明治の頃、石川啄木
   斉藤緑雨、内藤鳴雪などの文人が住んだ。
              東京都文京区教育委員会 昭和63年3月
 


東洋女子歯科医学専門学校 
閉校
 本郷1丁目26番1号にあった私立校。大正6年「明華女子歯科医学講習所」開校。同7年「明華
女子
歯科医学校」に改組。同10年専門学校令による「明華女子歯科医学専門学校」に改組(女子初
の専門学校)。同15年「東洋女子歯科医学専門学校」を文部大臣指定校(女子初)として創立。
 昭和3年ドイツ近代復興様式の校舎・寮落成。同16年全て女性による歯科医学学術大会を挙行。
12月日米開戦。同20年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校舎焼失。同21年千葉県
津田沼町(習志野市)の仮校舎に移転。同22年4月第1回歯科医師国家試験、合格率全国2位の成
績。5月アメリカの強制学制改革により女子歯科医専の廃止決定。9月旧制・東洋高等学校(理科乙
類=医学部予科)開校。同23年本郷校舎復旧。同25年東洋女子歯科医専第25回生、東洋高等学
校第1回生卒業(最終)。閉校。跡地は東洋女子短期大学となる。


東洋女子短期大学 
閉学
 本郷1丁目26番1号にあった私立校。昭和25年新制・東洋女子短期大学(英語科)開学。英語
科教員養成を開始。同36年本郷旧1~3号館第1期工事竣工。建築家・今井兼次による「フェニッ
クス・モザイク」完成。同39年コース制を設定、LL施設本格稼動開始。同42年千葉県流山市に
流山キャンパス開設。同48年学科名称を英文科に変更、専攻科を設置。同53年学科名称を英語英
文科に変更。同57年流山キャンパスに英米総合研究を骨子とする欧米文化学科を開設。
 平成16年3月短期大学閉校決定募集終了。同18年第55回生卒業(最終)を以て閉学。
 


東洋学園大学
 本郷1丁目26番3号にある私立大学。平成4年東洋学園大学(人文学部英米地域研究学科。英米
言語学科)開学。同7年短大専攻科。学位授与機構認定となる。同12年大学人文学部コミュニケー
ション学科開設。同14年大学人文学部人間科学科、現代経営学部現代経営学科開設。同16年3月
短期大学募集停止。4月大学人文学部の既存3学科を再編し国際コミュニケーション学科開設。同1
8年短期大学最終卒業(55回生)を以て閉校。同19年本郷新1号館落成。同20年大学院現代経
営研究科現代経営専学攻開設。同25年人文学部を再編し、グローバル・コミュニケーション学部を
開設、人間科学部が学部に昇格。同26年キャンパスを再編。グローバル・コミュニケーション学部
と現代経営学部が本郷キャンパス、人間科学部が流山キャンパスへ。同26年国際キャリアプログラ
ム(ICP:International Career Program)がスタート。

 
壁画 フェニックス・モザイク「岩間がくれの菫花」

   フェニックス・モザイク「岩間がくれの菫花」
   
デザイン 今井兼次 建築家 早稲田大学名誉教授 日本芸術協会
   
壁画は、昭和36年東洋女子短期大学の新校舎建設の際して制作された。イギリスの詩人
   
W・WordworthによるLucy詩篇の一節、「岩間がくれの菫花」をモチーフ
   
した作品であり、素材には主材料のタイルの他に、学生、卒業生、教職員の持ち寄った陶
   
窯の破片が用いられている。
   
平成19年東洋学園大学の新校舎建設に当たり、学園のシンボルとして原形のまま保存す
   
ることとした。
   
平成19年                             東洋学園大学
 


■東洋女子歯科医学専門学校発祥の地
 本郷1丁目27番、東洋学園大学の本郷キャンパスの新壱岐坂に面してある植込みの中にある。碑
には学校の沿革など詳しい説明は書かれていない。東洋学園大学のHPによると、「東洋女子歯科医
学専門学校」は大正15年にこの地に開設されたが、昭和25年に英語科の短期大学を開設すると同
時に東洋女子歯科医学専門学校は閉鎖された。医科系の学校が文科系に転換して医科系の学科がなく
なってしまうのは 珍しい。碑面には、

   
東洋女子歯科医学専門学校
   発祥の地
   平成8年11月4日
   東洋紫苑会建碑


 とあるだけだ。
 


■尚美学園バリオホール

 本郷1丁目28番4号にある。出来たばかりでデータ非公開。
 


■楠の木
(区内最大の木)

 本郷1丁目28番32号にある。

   文京区で一番大きな樹木
   樹種 
クスノキ
   指定番号 2‐13
   指定年月日 昭和54年10月1日
   所有者(管理者) パークハウス楠郷臺管理組合
   文京区みどりの保護条例に基づいて、保護指定をしている樹木です。このクスノキは、地
   上1.5mにおける幹廻りが8.5mあり、文京区内で一番大きな樹木です。クスノキの若
   葉は、赤みがかった色から鮮やかな緑へとかわります。
   5~6月にクリーム色の小さな花が咲き、秋に黒い実をつけます。       文京区
 


■春日園児童遊園
 本郷1丁目33番17号にある区立公園。昭和28年3月18日開園。

 
春日局出世稲荷神社
 園内にある。稲荷の境内を児童遊園に利用したというのが正しいところか。春日局の屋敷跡に鎮座
する神社。寛永七年(1630)に春日局がこの地を拝領した際に、その鎮守神として祀られたのが
始まりと伝わる。春日局の出世に肖り、「出世稲荷」と呼ばれるようになったという。享保二年(1
717)の火事で町が焼失し、京都稲荷山の千年杉で御神体を作り奉ったのが始まりとも伝わり、本
当のところは判らない。

   出世稲荷神社
   「この辺昔、春日局宅地なりし時、鎮守のため勧請なり。春日局・・・出世ありしゆえ当
   社の神徳を崇め、出世稲荷と崇め奉るなり。」『旧事名話』
   春日局は本名「ふく」父は明智光秀の重臣斎藤内蔵助利三である。戦いに敗れ、逆賊の家
   族として苦しい生活をした。後、徳川三代将軍家光の乳母となり、江戸城大奥にて大きな
   力をもつに至った。
   このあたりの片側を将軍から拝領し、町屋をつくった『御府内備考』によれば神社の土地
   は拝領地28坪、外に27坪、小栗猶之丞より借地とある。享保二年(1717)焼失した
   ので京都稲荷山の千年杉で御神体を作り祭った。春日町起源のゆかりのある場所である。
              文京区教育委員会 昭和60年3月


■旧東富坂
 本郷1丁目34番と35番の間、地下鉄丸ノ内線の直南の坂道。江戸時代の東富坂だが、地下鉄丸
の内線の敷設により当時の道は失われてしまい、現在の坂道は一部だ。

   旧東富坂
   昔、文京区役所がある辺りの低地を二ヶ谷といい、この谷をはさんで、東西に2つの急な
   坂道があった。東の坂は木が生い繁り、鳶がたくさん集ってくるので「鳶坂」といい、い
   つの頃からか、「富坂」と呼ぶようになった(『御府内備考』)。富む坂、庶民の願いが
   うかがえる呼び名である。
   また二ヶ谷を飛び越えて向き合っている坂ということから「飛び坂」ともいわれた。明治
   41年本郷3丁目から伝通院まで開通した路面電車の通り道として、現在の東富坂(真砂
   坂)が開かれた。それまでは、区内通行の大切な道路の一つであった。
            東京都文京区教育委員会  昭和63年3月 
 


■東富坂(真砂坂)
 本郷1丁目と4丁目の間、春日通りにある坂道。

   東富坂(真砂坂)
   本来の「東富坂」は、この坂の南を通る地下鉄丸ノ内線に沿った狭い急坂である。現在は
 、 「旧東富坂」と呼んでいる。もともとの坂は江戸の頃、木が生い繁り、鳶がたくさん集っ
   てっくることから「鳶坂」といい、いつの頃からか「富坂」とよぶようになったという。
   現在の東富坂は、本郷3丁目から伝通院まで、路面電車(市電)を通すにあたり、旧東富
   坂上から春日町交差点まで新しく開いた緩やかな坂道である。この市電は、明治41年4
   月11日に開通した。現在、文京区役所を挟んで反対側にある坂を、「富坂(西富坂)」
   と呼び区別している。
               文京区教育委員会 平成8年3月


順天堂
 本郷2丁目1番1号にある医科大学。天保九年(1838)佐藤泰然が、薬研堀(東日本橋)に蘭
方医学の「和田塾」を開き。これを順天堂の創始とする。同十四年(1843)佐倉藩から招かれ佐
倉順天堂を創設。安政六年(1859)泰然は隠居(明治5年逝去)、養子尚中(初代佐藤舜海)が
家督を継ぎ2代目となる。文久三年(1863)泰然の次男松本良順(泰然の友人松本良甫の養子)
幕府医学所第3代頭取となる。慶応二年(1866)高和東之助は尚中の養子となり佐藤進と改める。
同4年(1868)良順は頭取の立場で幕府軍陣に赴き、尚中と進は官軍の命令でその軍陣に赴いて
医療活動、心ならずも同じ佐藤一門が敵味方に分かれたが、当時の医学界は「西の長崎、東の佐倉」
といわれるほどであり、それは已むを得ぬことだった。
 やがて明治維新、尚中は明治政府の医学政策に尽くし東大医学部の基礎を作るなどし、進は明治2
年ドイツに留学した。良順は捕らえられ投獄されていたが、明治4年召還されて、兵部省軍医寮初代
綜理に任命され、同6年陸軍軍医初代総監となった。同じ年尚中は前年の養父泰然の死を受けて官を
辞し、下谷練塀町に「順天堂医院」を開くと、佐倉順天堂は養子の岡本道庵(2代目佐藤舜海)に譲
り渡した。この順天堂は、終戦後一時閉鎖されたが、現在は順天堂記念館の隣の順天堂医院に引き継
がれている。
 同8年尚中は肺炎に罹り、佐倉の岡本が治療に当たった。ベルリン大学を優秀な成績で卒業しウィ
ーン大学で研究生活に入っていた進は、
「義父危篤」知らせを受けて急遽帰国したが、尚中は回復し
医療活動に戻ったので、進は塾で後進の指導に当たった。この年順天堂は湯島に移転した。
 同10年西南戦争勃発、進は軍医総監である義叔父良順の要請により陸軍軍医監となり、大阪城に
赴き西南戦争の負傷者の治療に当たった。半年の激務のため肋膜炎に罹ったが、軍の強い要請で軍職
を退くことができず、陸軍本病院々長を拝命し、同15年尚中が没するまで勤務した。進は、順天堂
医院の院長として経営に専念するため、陸軍軍医監・陸軍本病院長の職を辞したが、同17年東京大
学医学部に迎えられて講義をするようになり、やがて大学総長と同じ待遇を受けた。そして付属第1
および第2医院院長を兼ねたが、明治19年に帝国大学令が公布され、東京大学は東京帝国大学とな
り、医学部が医科大学となったのを機会に退職し、明治21年日本で学位令が実施された最初の年に
医学博士の学位を授与され、翌22年に陸軍の方は漸く予備役となった。だが早稲田大学を拵えた大
隈重信(当時外務大臣)が暴漢に襲われるというテロ事件が惹起し、手術の第一人者として進が呼び
つけられ、大腿部を切断するという大手術を40分という速さで成し遂げ大隈の一命を救った。大隈
は遭難記念日に必ず主賓として進を招待したという。

 同28年日清戦争が始まると軍に呼び戻され、同27年10月軍医監に復し、広島への出張を命ぜ
られ広島予備病院長となった。翌年2月には叔父良順の跡を受けて軍医総監になったが、予備病院長
も相変わらず兼ねていた。やがて戦争も終わり、講和条約となって下関に清国全権大使李鴻章がやっ
てきた。話し合いが終わり、宿舎への帰り道で凶変は起きた。李鴻章が日本人の暴漢にピストルで狙
撃されたのだ。軍は直ちに進を下関に派遣、進の治療で命を取り止め、大事に至らなかった。進はこ
の頃最も有名な医師として番付に載ったほどだ。李鴻章は半月ほどで全快、再び交渉に戻って講和条
約を締結、無事帰国した。このことは清国を大いに喜ばせ、皇帝から勲章が贈られ、大使からは数々
の贈り物があった。その後も2人は文通を続け、李は明治34年に亡くなるまで、進に毎年謝礼金を
贈り続けたといわれている。進の同胞愛の治療は、国境を越えた人間愛の治療にまで広く大きくなっ
た。
 その後は順天堂の経営に専念するが、同37年日露戦争勃発、進は直ちに巻軸包帯3000本、脱
脂綿沙600反を陸軍に献納、そして5月には陸軍軍医監の現役勤務に復し、大本営付を仰せつけら
れ、広島予備病院御用掛兼務を命ぜられた。同38年2月松山(愛媛県)の俘虜収容所病室御用掛を
仰せつけられました。日清戦争の時より戦傷病者がずっと多く、9月だけで2万9千余人も収容され
た。進は、院務は院長に任せ、自ら本院と第7まである分院を毎日巡回し、治療の監督に当たり、時
には自ら執刀もした。それは日曜日も休まないで活動するほどの忙しさだったという。同38年2月
松山(愛媛県)の俘虜収容所病室御用掛を仰せつけられ、ロシア人将兵が収容されていた松山には数
回出張して負傷病者の面倒を見た。その数は凡そ700人で、治療の成績も良く、ロシア兵は日本の
医術を信頼するようになっりたという。また5月27日の日本海海戦で、日本は圧勝した。31日島
根県浜田にロシア海軍軍人230余人が漂着したという情報に接した進は、その時いた山口県三田尻
から人力車を雇い、中国山脈を越えて160㎞の道を駆けつけた。6月2日に直ちに海岸へ行き、負
傷病者200余人を診察し、将校20余人に面会して来意を告げたところ、彼らはいずれも出張治療
の厚意に深く感謝、ロシア側には医者らしい医者がいなかったので、必要な措置をし、海路下関を経
て広島へ帰ったた。進の人間愛は、こうしてロシアの陸海軍軍人にも浸透した。講和が成って進は、
同38年12月、1年7か月ぶりに東京の土を踏むことができた。そして明治天皇に拝謁してお褒め
をいただいた後、漸く軍務を解かれた。

 
順天堂は、明治8年新築移転してから30年近く経って古くなり、病室は学校の寄宿舎のようだと
噂されていたので根本的に改築して、近代的な大病院にすることに決めた。大阪や京都、広島や福岡
の新しい病院の視察をし、同35年に着工して、第1期工事は翌年に完成し患者を収容した。本館は
日露戦争中に取り掛かり、同39年にでき上がった。その後も病棟の増築をして、同43年に漸く総
てが完成した。総建坪9596㎡、病室152、ベッド数271を数える大病院となり、東洋一の模
範的病院であり、この一大私立病院があることは、東京市の誇りであるといわれたものだ。第2は病
院の内容の整備と充実だ。明治8年に順天堂が湯島に移った頃は、外来患者は1日50~60人、入
院患者は100人前後だったが、明治20年代に入ると外来は1日150~160人に増えて、入院
患者も120ベッドが満床になったこともあった。その頃は外科と内科だけであり、外科は産科・眼
科を含めて外科系総てを診察し、内科は、小児科・皮膚科を含むという状況だ。その後次第に分科独
立し、大正3年には、外科・内科・産科・婦人科・泌尿器科・皮膚科・小児科・耳鼻咽喉科などの各
科が置かれるようになった。そして各科毎に科長と医員がいた。医員は、各科合わせて60名、看護
婦294名、事務員その他45名という大勢の人がこの病院を支えたのだ。
 進の妻は志津といい、尚中の娘だ。その志津が、女子に芸術を教え、主として専門の技術者、教育
者を養成するために、明治33年横井玉子らによって設立された女子美術学校の経営が行きづまった
時、助けを求められた。進は初めはあまり賛成ではなかったが、志津の熱意にほだされて、同35年
から佐藤家が経営に関わるようになり、進もしだいに積極的に協力するようになった。志津は女子教
育功労者として、大正4年勲六等宝冠章に叙勲され、さらに大正7年帝国教育界の表彰を受けるが、
翌8年3月病魔に侵されて惜しくも亡くなってしまう。進は、妻の遺志を継いで同年5月、女子美術
学校の校長ともなるむ。しかし子供には恵まれず、一人っ子の息子昇は病弱で若死にしてしまう。進
は晩年を母の実家の茨城県麻生町と東京を行ったり来たりの生活を送るが、大正10年順天堂を養子
達次郎に任せると、脳溢血で倒れ、77歳を最後に西国へ旅立った。彼が学校を創始するのは達次郎
だ。

   順天堂大学
   順天堂は、天保九年(1838)江戸・薬研堀(東日本橋2‐6‐8)に医学者佐藤泰然
   が設立したオランダ医学塾に端を発し、いまに繋がる日本最古の西洋医学教育機関です。
   江戸時代後期、江戸より下総佐倉(千葉県佐倉市)に移った順天堂は、全国各地より百数
   十名を超える俊英が参集し、「日新の医学、佐倉の林中より生ず」といまに語り継がれる
   が如き、西洋医学研究・教育、そして臨床医学実践の場となりました。
   明治2年順天堂第二代堂主佐藤尚中は、明治政府の要請を受け、佐倉より多数の門下生を
   率いて上京し、宮内省「大典医」・文部省「大学大博士」を拝命し、大学東校(東京大学
   医学部の前身)の初代校長として近代医学教育確立に尽力し、西洋医学教育最高学府(東
   京帝国大学医学部)の礎を固めました。
   順天堂第三代堂主となる佐藤進は、明治2年明治政府発行の旅券第一号をもってドイツに
   留学し、明治7年アジア人として最初のベルリン大学医学部卒業生となりました。ドイツ
   より帰国した佐藤進は、明治8年順天堂病院長・第三代堂主となり、陸軍本病院長や日清
   ・日露両戦役の陸軍軍医総監も兼務し国難に対峙し、そして明治18年東京大学医学部附
   属第一医院及び第二医院の院長をも兼任するなど、日本におけるドイツ流医学教育普及の
   リーダーとなりました。

   順天堂病院は、明治6年下谷練塀町(JR秋葉原駅付近)に、そして明治8年湯島・本郷
   (現在地)に移転し現在に至っています。現在順天堂大学は4学部・3大学院・6医学部
   附属病院を擁する「健康総合大学」として、順天堂病院1020床、静岡病院552床、
   浦安病院653床、越谷病院226床、江東高齢者医療センター348床、練馬病院40
   000床からなる総病床数3,199床の日本でも有数の病院群を有しています。

   順天堂の「順天」は、中国の古典「易経」にある「順天応人」(天の意思に願い、人々の
   期待に応える)と、孟子の言葉の「順天者存。逆天者亡」(自然の摂理に順うものは存続
   して栄え、天の理法に逆らうものは亡びる)に由来します。
   学是は「仁」、理念は「不断前進」であり、校章は「仁」を意匠化したものです。
   平成13年5月15日(創立記念日) 学校法人 順天堂
 

順天堂大学
 順天堂では明治29年から看護婦の養成を始めていた(変遷を経て平成16年から大学医療看護学
部)。達次郎は大正7年東京医科専門学校(東京医科大学)の校長を兼任した経験から、昭和18年
順天堂医学専門学校を設立し、同21年順天堂医科大学と改称した。同26年体育学部を創設。同2
7年順天堂大学と改称、平成5年体育学部をスポーツ健康科学部に改称。同16年順天堂医療看護短
期大学を改め四年制の医療看護学部とする。医学部は本郷キャンパス、スポーツ健康科学部はさくら
キャンパス(千葉県印旛村)、医療看護学部は浦安キャンパスにある。

 校歌「光に映ゆる」 作詞・宮沢隆治  作曲・間紀徹
  1.光に映ゆる湯島の台地
    聖鐘爽やかにこだまするところ
    仁術の道護りてここに
    光栄ある歴史に輝く母校
    おゝその名 われらの順天堂
  2.雲湧き上がる習志野の原
    若き生命は誇りに燃えて
    朝に学び夕べに磨く
    誠と力に溢るる母校
    おゝその名 われらの順天堂
  3.希望の旗を掲げよ今ぞ
    人類福祉の誓いも新た
    行く手を築く若き国手の
    尊き使命に伸び行く母校
    おゝその名 われらの順天堂
 

 
史跡
 順天堂医院(発祥の地 秋葉原駅付近)・
大学東校(初代校長佐藤尚中 三井記念病院)・東京医
学専門学校(初代校長佐藤達次郎 東京医科大学)・女子美術学校(佐藤志津校長、佐藤進校長、佐
藤達次郎初代理事長校長 女子美術大学)・和田塾(順天堂発祥の地記念碑 薬研堀不動院)・佐藤
泰然の墓(谷中墓地甲新16号24側)・佐藤尚中の墓(谷中墓地甲9号1側)・佐藤尚中の顕彰碑
(甲4号7側)・松本良順邸跡(今戸神社)・博愛社(佐藤尚中が大学東校を辞し有志と共に開設 
日本橋本町2丁目)・済衆舎(佐藤尚中の門人渡辺泰造が尚中の意を受けて開設 浅草西鳥越町甲2
松平忠敬邸内、台東区鳥越2丁目)、済生学舎(佐藤尚中の高弟長谷川泰が尚中の意を受けて開設 
文京区本郷2丁目2番8号 順天堂センチュリータワー) 


■油坂
 本郷2丁目1番と2番の間の坂道。

   油坂(揚場坂)
   この坂は、油坂または揚場坂と呼ばれている。坂上の左側は本郷給水所公苑である。『油
   坂、元町1丁目と東竹町辺の間を南に下る坂あり、油坂と呼ぶ』(新撰東京名所図絵)と
   あるが、その名の起りは不明である。
   この坂は別名『揚場坂』といわれているが、その意味は、神田川の堀端に舟をつけて、荷
   物の揚げおろしをするため、町内地主方が、お上に願って場所を借りた荷あげ場だった。
   この荷揚場所に通ずる坂道を揚場坂道と呼んだのが後に『揚場坂』といわれるようになっ
   た。『揚場坂と申し、里俗に近辺には無御座候得共、町内、持場揚場御茶の水河岸内に有
   之候に付、右揚場坂道を他所の者、揚場坂と唱候儀も有之趣に御座候』(御府内備考より)
               文京区教育委員会 昭和62年3月
  


■センチュリー・ミュージアム
 本郷2丁目2番9号の、外堀通り沿いにある現代的な高層建築センチュリータワーの中にある美術
館。昭和57年新宿鶴巻町においてセンチュリー文化センターとして活動を展開。平成3年現在地に
移転し、センチュリーミュージアムと改称。故赤尾好夫蒐集の文字文化の資料を母体に、故守屋孝蔵
・旧蔵の古鏡コレクションを加え、所蔵品の充実をはかる。日本の上代から近世に及ぶ書跡の蒐集・
展示・研究を行い、仏教文化に縁の深い絵画・彫刻・工芸品などの収蔵に努めている。年5~6回の
企画展示を行っている。有料。日曜休館  03-5800-0077
 


■済生学舎
 文京区本郷2丁目7番8号順天堂センチュリータワーのところに、佐藤尚中の高弟長谷川泰が尚中
の意を受けて開設。
明治9から同36年まであった。
 長谷川泰は、新潟県長岡市福井町で長岡藩医漢方医長谷川宗斎(春)の2男1女の長男として生ま
れる。幼名は太一(多一)、長じて泰一郎、泰と称し、蘇山・蘇門同人・柳塘などの号を用いた。は
じめ、良寛と親交のあった鈴木文台が主宰する漢学塾長善館で漢学を、鵜殿春風に英学、父宗済の下
で漢方医学を弟子たちと共に学ぶ。文久二年(1862)江戸に出て坪井為春(芳州)に英語、西洋
医学を学ぶ。転じて佐倉藩の佐藤泰然の順天堂に入門して長崎でポンペから外科手術学を修得して帰
ってきた佐藤尚中に西洋医学を学び、特にフーフェランドの内科書Enchiridoin Med
icumの巻末にある「医学必携」に感銘し、「済生救民」思想を体得する。慶応二年(1868)
松本良順の幕府西洋医学所で外科手術を修め、同三年に句読師となる。同四年戊辰戦争の勃発により
北越戦争で河井継之助に3人扶持で雇われ長岡藩に藩医として従軍し、河井の最期を看取った。
 維新後、順天堂時代の先輩相良知安の弟で同窓でもある友人相良元貞の推薦で、明治2年大学東校
少助教、同3年大助教、同4年ミュルレル、ホフマンについてドイツ医学を学ぶ。次いで同5年9月
14日第一大学区医学校の校長に就任するも、10月8日先輩相良知安に席を譲り校長心得となる。
同7年8月27日長崎医学校校長に就任。征台の役に伴い長崎医学校が廃校となると、学生を東京医
学校に転学させた。同8年12月27日東京府知事から済生学舎開業願が許可され、同9年4月本郷
元町1丁目66番地に西洋医の早期育成のための私立医学校済生学舎(後の東京医学専門学校済生学
舎、日本医科大学)を開校する。
 一方で長谷川泰は、東京府病院長・東京癲狂院長・避病院院長・脚気病院事務長・警視庁医長など
多くの役職を兼任すると同時に、同23年に始まる第1回衆議院議員選挙から議員を3期、後藤新平
の後を受けて内務省衛生局長(明治31~35年)、日本薬局方調査会長(明治33年4月~35年
7月)等をも務める。

 
京都大学の生みの親
 また衆議院議員としては「関西にも大学を造るべし。東京大学一校のみでは競争が失われる」と、
明治24年から翌年にかけて

   帝國ノ高等教育即大学ヲ二ツ、東西両京ニ各大学二ツ、而シテ東西両京ニ大学予備門ヲ一
   ツ宛テ設ケルコトガ、此ノ日本ノ学問ノ進歩ヲ増シ、即学術ノ真理ヲ発見シテ、我ガ帝國
   の光ヲ外國ニ輝ス


 と予算委員会で提言し、政府は3年後その準備に着手し、明治30年京都帝國大学が設立される。
開会式で総長の木下広次は長谷川泰の功績を讃え、2年後の医学部開設に当って猪子止戈之助病院長
は予算不足を長谷川に訴え、長谷川は文部省に掛け合い、聖護院近くの二万坪を買収させ、医学部お
よび付属病院を造らせている。また同26年には北里柴三郎のために大日本私立衛生会付属伝染病研
究所設立の演説を度々行って実現させたり、下水道法制定などに尽力した。

 長州人山縣有朋の横暴により済生学舎廃校宣言
 長谷川泰による突然の済生学舎廃校宣言の理由は、従来文部省が済生学舎を私立大学として許可し
ない、今後官立府県立医学校が新設されるので医学専門学校として継続して行く必要は最早ないとい
う長谷川泰の判断と、済生学舎の建物・環境が粗末であったので医学専門学校として認められないか
らであると一般的には考えられている。しかし実際は以下に述べるように長州の非日本人山縣有朋の
私怨により長谷川が廃校宣言を決意せざるを得なかった経緯が存在している。
 同34年「薬律改正問題(医薬分業論)」が起り、長谷川泰は医師数が約32000人、薬剤師数が
2500人と絶対数が足りないので医薬分業は時期尚早である事を理由に反対すると、日本薬局方調
査会の丹波敬三、青山胤道、入沢達吉等の委員が総辞職し、長谷川は時の総務長官山縣に責任を取ら
され衛生局長職の辞表を提出させられ、衛生局長就任時の貴族院議員勅選の誓約も入沢達吉の叔父池
田謙斎に奪われて精神的失望感を味わう。しかも誓約の立会人芳川顕正逓信相は山縣の側近だ。山縣
は、北越戊辰戦争時新政府が組織する征東軍の北陸道鎮撫総督府(会津征討越後口総督府軍)参謀で
会津への途中長岡藩に2ヶ月半に及ぶ想わぬ抵抗に遭う。その時の長岡藩家老上席軍事総督が河井継
之助で、長谷川は河井に雇われた軍医であり、特に山縣は松下村塾での親友時山直八をこの戦いで失
っており、うじうじと泰に嫌悪感を抱いていた気の小さな男だったのだ。長州人の多くは、戦国大名
大内義隆の一族一門で、毛利氏に長門周防を奪われると、さっさと朝鮮に帰って行った。併しこの時
帰りそびれた者たちが毛利氏の軍門に下り、毛利軍団の最下層に組み込まれた。これが下忍層で、ユ
ダヤ人トーマス・グラバーに唆された倒幕末に倒幕派を形成した人びとである。吉田松陰然り、高杉
晋作然り、伊藤博文然りで、伊藤如きに至っては人斬りとして見込まれ、イギリスでロスチャイルド
に使嗾されて孝明天皇を弑逆したものである。何故長州藩が討幕軍になったのかは、日本に遺恨を持
つ非日本人たちだったからだ。伊藤が弑逆を呆気羅漢とやってのけたのも、日本人の魂を持たず、朝
鮮人としての恨み憎しみがあったからだ、蓋し山縣有朋も同じ穴の貉である。

 しかし、
 実際には済生学舎は既に明治17年東京医学専門学校として届け出て認められており、同20年に
は文部省令第五号による文部大臣守有礼の布達で済生学舎が官立府県立学校と同等であることが認め
られている。また同29年の卒業式において坪井次郎が済生学舎の顕微鏡実験室は設備完全にしてド
イツの大学よりも遥かに優れていると指摘している様に、設備・環境とも整っていたのである。そし
て直ちに勉学の道を失った学生達の中から有志が集り、その10日後に校長は変わったが同じ教師に
より同じ教科書を用いて旧済生学舎の生徒達へ「済生学舎同窓医学講習会」として授業が行われ、そ
れが「医学研究会」「日本医学校」の設立や「東京医学校」との合併などを経て今日の「日本医科大
学」に至っている。
 済生学舎に学んだ医師は、日本の開業医の半数以上を占め、全国の地方の医師会長の多くは済生学
舎の卒業生で占められ、その結果「東大赤門派閥」の医師の権力を揺さ振る迄に至り、恐怖感を与え
た。済生学舎が開校した当初は、教員5名、医学生28名だった。医学生は寄宿生と通学生に分かれ
医術開業試験のための講義の外に、英語・ドイツ語・ラテン語と数学の講義も行われ、入学には学歴
を必要とせず、何時でも入学できた。講義期間は原則6期制3年とし、医術開業試験に合格すれば直
ちに卒業とされた。明治15年1月には、学生数の増加に伴い校舎が手狭になり湯島4丁目8番地に
移転した。後期試験に実地試験が加わり、付属蘇門病院を設立して対応した。同16年には学生数も
484名と増加し、済生学舎は順調な発展を遂げ、同17年3月済生学舎は「東京医学専門学校済生
学舎」として届け出て認められており、同12月に初めて女子医学生の入学を許可し、高橋瑞子はそ
の第1号となり、17年余りの間に130余名が女医となった。また、同29年5月30日済生学舎
臨床講堂にてレントゲン博士がX線発見後7ヶ月にして、丸茂文良が日本初のX線実験・臨床講義を
行うなど実践的で最先端の充実した教育を実施した。 

 
済生学舎発祥の地の碑
 本郷2丁目7番1号の水道給水所公苑と順天堂大学の隣の高層ビルセンチュリータワーと挟まれる
道路にこの碑が建っている。明治初期に、西洋医学の医師になるには、大学の医学部を卒業する他に
「医術開業試験」を直接受験するという方法があった。済生学舎は、その試験を受験するための、い
わば予備校的な医学校だった。済生学舎は、明治9年に長谷川泰により設立され、その後30年間で
凡そ10000人の医師を送り出したと言われ、一説によると、この時代の医師の半数を養成したと
される。済生学舎に学んだ人には、野口英世・吉岡弥生・荻野吟子などの名が見られる。
 明治36年済生会は大学に昇格するべく申請したが果たさず、閉鎖された。現在の日本医科大学・
日本女子医科大学・東京医科大学などは、この済生学舎の流れを汲む。

   濟生學舎発祥の地
   明治9年(1876)4月9日、この地に医学者長谷川泰(1842~1912)によっ
   て、「濟生學舎」が開校した。濟生――「広く民衆の病苦を済(すく)う」、この願いを込
   めて、医術開業試験(当時)の予備教育を目ざして創立された学舎に、西洋医学を志す優
   れた学徒が数多く集まった。明治12年冬、火災により校舎を失い、学舎長の自宅 (現本
   郷2-7-8)とその隣地に移転、明治15年 現在の湯島2丁目(ガーデンパレスの地)に
   本格的校舎を建設し、附属蘇門(そもん)病院及び薬学部を付設して、「東京医学専門学
   校濟生學舎」と称した。
   かくして学舎は隆盛の一途を辿ったが、事情あって、明治36年(1903)8月31日
   創設者長谷川泰みずから廃校を布告して、28年間の歴史を閉じた。その間21000余
   の男女学生が学び、9600余の医師を輩出し、わが国黎明期の医学振興、地域医療に果
   たした役割は極めて大きい。
   「濟生學舎」の廃校直後から、これを惜しむ教師・学生達によって、いくつかの医学講習
   会が設けられたが、その一つを母体にして、明治37年4月「私立日本医学校」が設立さ
   れ、現在の「日本医科大学」(千駄木1丁目)へと発展し、濟生學舎教育の精神は受け継が
   れていった。また学舎ゆかりの「東京女子医科大学」「東京医科大学」も、それぞれの道
   を歩み発展していった。
   昭和63年3月                      東京都文京区教育委員会
 


■本郷給水所公苑

 本郷2丁目7番1号の水道局本郷庁舎屋上にある区立の庭園公園。昭和52年4月1日開園。人口
の地盤を緑地化して拵えてある珍しく新しいタイプの薔薇園だ。都心で花の女王を鑑賞できる注目の
スポット。隣接して江戸の上水の歴史を展示した「東京都水道歴史館」がある。以前は西新宿にあっ
た?

   見るうちに薔薇たわゝゝと散り積る(高浜虚子)
   手の薔薇に蜂来れば我王の如し(中村草田男)
   薔薇剪れば夕日と花と別れけり(加藤楸邨)
   隠れぬよ薔薇盗人のくろかみは(平畑静塔)
   雄蘂相逢ふいましスパルタのバラ(加藤郁乎)


 神田上水樋碑
 公園の端に復原されている。

   
神田上水石樋
   平成二年十月 東京都知事 鈴木俊一書

 神田上水由来碑
 公園の端にある。

   神田上水樋由来
   徳川家康が入府した天正十八年(1590)頃の江戸は、広大な武蔵野台地の東端に位置
   する小さな村落であったといわれている。
   神田上水は、家康の江戸入府にさいして、家臣大久保藤五郎忠行が開削した小石川上水が
   その起源といわれている。
   神田上水は、井の頭池の湧水を水源とする神田川に善福寺川、妙正寺川の水路を合わせ、
   目白台下野大洗堰に至り、水戸藩邸を通って神田川を懸樋で渡し、神田・日本橋方面の飲
   み水などに利用していた江戸時代から明治時代はじめの水道である。
   この石樋(石垣樋)は、昭和62年から平成元年にかけて発掘された神田上水幹線水路の
   一部を移築復原したものである。
   石樋の内部寸法は、上幅150cm、下幅120cm、石垣の高さ120~150cmで
  、長さ約180cm、幅60cm、厚さ30cm前後の蓋石が乗せられている。
   江戸水道から現在の東京水道に至る400年を記念し、また江戸時代遺跡の保存活用を図
   ることを目的としてここに移築復原したものである。
   平成2年10月                           東京都水道局

 白山神社旧地

 本郷2丁目7番の水道局敷地の西北角の辺りにあった。江戸時代の初期のことで、白山植物園のと
ころに移され、白山御殿建設のため現在地に移った。

 水道歴史館
 水道局本郷庁舎2号館にある。場所を現地で訪ねる場合は、「水道歴史館」といっ
ても、近所の人でも知らないので、「水道局」もしくは「給水所」で聞かないと「知らない」ってい
われるよ。水道局の建物の一部だから、外観で博物館ぽくないよ。江東区有明の「水の博物館」とは
訳が違うのさ。江戸の町の給水設備から現代に至る水道の資料が解りやすく展示してあり、町人長屋
の水道端などが復元されていて面白いぞ。屋外に本物の資材を使って神田上水の一部が復元されてい
るよ。開館は年末年始の休館日を除いた毎日の9:30~16:30 03-5802-9040。


薬王山三念寺

 本郷2丁目15番6番にある真言宗豊山派の小寺。鉄筋コンクリート造り2階建て、本堂は外階段
で、下は催し場か? 左に鉄筋コンクリート造り3階建てのビルがあり、これが庫裏。順天堂大学の
北側に本郷給水所公苑があり、その北側だ。
 


江戸稲荷信仰の発祥 三河稲荷神社
 本郷2丁目20番5号にある。三河国碧海郡上野庄(愛知県豊田市)稲荷山迎接院隣松寺に鎮座し
ていた時一向一揆と戦っていた徳川家康が、稲荷山のに陣を構えるとともに戦勝祈願をして勝利を得
ることができた。元々この稲荷は松平広忠が祈願して竹千代(家康)を授かっていた。天正十八年(1
590)の江戸入国に際して家康は、末社を吹上に造営奉遷したが、慶長十一年(1606)御弓組
が拝領の大縄地に移住した時、大縄地の氏神として1丁目8番の昌清寺に奉遷された。元禄七年(1
694)一帯が町地になると本郷元町と呼称し一丁目と二丁目の氏神として鎮座した。明治2年の神
仏混淆の禁令によって昌清寺を離れ、本郷元町2丁目3番地(本郷2丁目7番)に遷座した。明治2
6年そこに本郷給水所が設置されることになり現在地に換地した。大正12年大震災によって全焼し
たが、氏の篤い寄進によって、大正13年本殿・拝殿・神楽殿・社務所が完成した。この稲荷を家康
が勧請したことにより江戸に稲荷信仰が広まったといわれる。

   由緒
   当社は三州碧海郡上野庄稲荷山に鎮座して、徳川家康三州在城のみぎり崇敬浅からず、し
   ばしば奇瑞(めでたい事の前兆)ありて神徳を感じ、開運の後、神領として三十石に山林
   境内を寄進あり、天正十八年(1590)江戸入国に際し社を吹上に造営奉遷した。
   慶長十一年(1606)由緒ありて仲間小人拝領大縄地に移住の節、大縄地氏神として奉
   遷、元禄七年(1694)町地となるにおよび、本郷元町と改称、1丁目・2丁目の氏神
   として鎮座し、明治元年地続の浄土宗昌清寺囲内となるにおよび、元町1丁目3番地に2
   00余坪の敷地を購い遷座、のち明治26年3月本郷給油所設置により、現在の場所に遷
   座。大正12年9月の大震災により全焼、大正13年6月本殿・幣殿・神楽殿・社務所完
   成、社務所は昭和58年改築。現在に至る。
 


■本郷交流館横遊び場

 本郷2丁目21番6号にある区立公園。


■熊谷クリーニング本店
 本郷2丁目30番14号にある昭和5年の建築物。元々外壁はタイル張りだったが、現在は改装さ
れている。丸窓に雰囲気が感じられる。


■旧辻男爵邸

 本郷2丁目30番15号、熊谷本店の隣にある福士邸がそれだ。高い塀越しにヒマラヤ杉と洋館の
一部が望めるが明治5年頃に建てられた和館、その奥に明治6年頃建築と推定されるベランダのある
洋館、表側には明治41年に文部官僚辻新次が男爵位を賜った記念に建てたというドイツ風の洋館が
ある。因みに洋画家野口弥太郎は、辻新次の孫でこのお屋敷で生まれたそうだ。

 病理学者福士政一博士は、西片町に住んでいたが、当時の西片町は車の利用が不便なためいちいち
交番に届け出なければならなかった。そんな大正15年、関東大震災の被害で荒れ果てていたこの邸
宅のあるを知り、気に入って購入したとか。和館の玄関は西片町の家と同じものを、後からはめ込ん
だものだそうだ。

 福士邸の奥にある洋館は平成8年8月に一部解体され、部材は移築先が見つかるまで福士家で保
管しているという。解体に先立って行われた調査では、天井の下張りに明治初期の図面や明治6年の
日付のある大学南校(東大の前身)の便箋などが貼られていたそうだ。
 


■弓町本郷教会

 本郷2丁目35番14号にある日本基督教団の教会。熊本バンド、明治の伝道者として名高い髭の
海老名弾正の創設。「新人」でも有名だが。後に同志社総長も務めた。夫人の美屋は横井小楠の娘、
「新女界」に関わり、「矯風会」へと繋がって行った。
 プロテスタント教会で、大正時代に教会員の中村鎮によって設計され、震災後に建てた代物、壁の
厚さが30センチ以上あり、穴一つ開けるのも苦労するとか。田崎牧師時代の戦争中には、大勢の信
徒を始め、近所の焼け出された人を多数収容し、戦火から守ってくれた教会堂だ。当時は地下の斜め
に降りて曲がる幼稚園の倉庫や、暖房用コークス置き場の階段途中のロフトも利用して、大勢の人々
が一つの家族のように助け合って住んでいた。

 この教会の始まりは、明治19年海老名弾正が神田明神脇の旗本屋敷の一部を借りて「湯島の講義
所」を設け、そこを拠点に布教活動を開始したのを濫觴とする。しかしここは雨漏りが酷く、会員が
増えルニ従い手狭となったため、引越しを余儀なくされ、西片町の「木村熊二邸」で集会を持つよう
になったが、ここも手狭となって、同20年春には金助町→春木町→森川町と転々とした。
 しかしそれでも信仰の火は消えず、同年8月2代目横井時雄牧師が赴任してから待望の自前の会堂
を持つに至った。同24年4月25日のことだ。帝大(東京大学)教授辰野博士の設計により建てら
れた豪壮な煉瓦造2階ギャラリー付の大会堂だった。この東竹町の「本郷教会会堂」が「弓町本郷教
会」会堂の前身な訳。その後初代海老名弾正が戻って3代目となり、教会体制の建て直しを行ったも
のの、同31年の春、春木町2丁目より起こった火災で類焼、折角の会堂も瓦礫と化してしまった。
この火事は折悪しく別の火災で本郷消防署のポンブ隊が上野方面に出動していたことと、高台のため
に水の便が悪く十分な消火活動ができなかったことが原因で、1478戸を焼き尽くすという大火に
なった。この火事で会堂裏の海老名の自宅も焼けてしまった。

 火災後の本郷教会会堂は、渡辺裁縫女学校(東京家政大学)」の手に渡る。その時横井は自身所有
の邸宅を提供。火災にあった時、横井邸は幸いにして保険に入っていたものの、その資金は数ヶ月の
教会資金と消えてしまったとか。会堂は保険にはいってなかったので土地を売却し、その代金は大部
分壱岐殿坂新会堂の建設資金となった。さて壱岐殿坂の会堂が見つかるまでの流浪時期は、色んな場
所を借りて転々としたようだ。最初に真砂小学校裏、それから玉川一郎師の生家近く「菊坂道」の途
中の窪地などなど。

 信徒には初代小林富次郎をはじめ、歴代のライオン油脂関係者も多く、中央会堂にも負けないくら
い有為な人材を世に輩出している。また海老名美屋の葬儀には、矯風会の会頭だったガントレット恒
(山田耕筰の姉)が弔辞を述べた記録も残っている。

   教会の沿革
   明治19年10月10日、本郷湯島で海老名弾正牧師が伝道を開始したのが弓町本郷協会
   の揺籃である。海老名弾正は洗礼を熊本洋学校の友人と共に受け、設立間もない同志社に
   学んだ。のちに一時母校の同志社総長を務めた時もあるが、当教会牧師として26年間、名
   誉牧師として8年間在籍した。歴代主任牧師は海老なのほか横井時雄、野口末彦、額賀鹿
   之助、田崎健作、大倉幾代、定家修身が務め、平成15年4月以来は菅原力が務めている。
   会堂は明治24年本郷東竹町に建てるまでは、湯島、西片町、金助町、森川町、春木町な
   どで集会が持たれていた。本郷東竹町の「本郷会堂」を明治31年の本郷大火で焼失した
   ため、壱岐坂に新会堂を建設したが、関東大震災で再び焼失、大正15年教会員中村鎭の
   設計による現教会堂が落成した。

   
歴史的建造物
   現教会堂の本体部分は、昭和初期に数多く建てられた中村式鉄筋「コンクリートブロック」
   (鎭ブロック)造りの代表的な建造物である。設計者が用途と構造と美と経済との集中す
   る其一点に建築の礎を置くことを志して設計し、自分で説明文を「中央美術」に発表して
   いる希な建物である。
 


■石川啄木喜之床跡
 本郷2丁目38番9号の新井理髪店(→理容アライ)がそうだ。「喜多床」の職人だった新井喜之
助は、本郷弓町で「喜之床」を開業した。その後、改築した喜之床に、啄木一家が間借りした。喜之
床の建物は、昭和55年「明治村」に移築した。理容アライの壁に区の説明板が貼付してある。

   石川啄木ゆかりの喜之床旧跡
   石川啄木は、明治41年5月北海道の放浪生活を経て上京し、旧菊坂町82番地(本郷5
   ‐15 現オルガノ会社の敷地内)にあった赤心館に金田一京助を頼って同宿した。
   僅か4ヶ月で、近くの新坂上の蓋平館別荘(現太栄館)の3階3畳半の部屋に移った。や
   がて、朝日新聞社の校正係として定職を得て、ここにあった喜之床という新築間もない理
   髪店の2階2間を借り、久し振りに家族そろっての生活が始まった。それは、明治42年
   の6月だった。
   五人家族を支えるための生活との戦い、嫁姑の諍いに嘆き、疲れた心は望郷の歌となった。
   そして、大逆事件では社会に大きく目を開いていく。啄木の最もすぐれた作品が生まれた
   のは、この喜之床時代の特に後半の1年間といわれる。
   喜之床での生活は2年2ヶ月、明治44年の8月には母と妻の病気、啄木自身の病気で、
   終焉の地になる小石川5‐11‐7の宇津木家の貸家へと移っていく。そして8ヶ月後の
   明治45年4月13日26歳の若さでその生涯を閉じた。
   喜之床(新井理髪店)は、明治41年の新築以来、震災・戦災にも耐えて、東京で唯一の
   現存する啄木ゆかりの旧居であったが、春日通りの拡幅により、改築された。昭和53年
   5月啄木を愛する人々の哀惜のうちに解体され、70年の歴史を閉じた。旧家屋は、昭和
   55年「明治村」に移築され、往時の姿をとどめている。現当主の新井光雄氏の協力を得
   てこの地に標識を設置した。

   かにかくに渋民村は恋しかり
   おもいでの山
   おもいでの川(喜之床時代の作)

               文京区教育委員会 平成4年10月  


■第二中学校 廃校

 本郷2丁目38番23号にあった区立校。昭和22年5月戦勝国アメリカの強制による学制改革に
より都立工芸学校(工芸高校)内に開校。後援会創立。同24年弓町2丁目8番地(現在地)に校地
決定。翌25年木造新校舎落成・6教室。同26年校歌制定。
 同25年~31年まで4期に渡り木造校舎増築。同33年鉄筋コンクリート造り校舎4教室・4特
別教室。同37年体育館完成。同39年プール完成。同42年開校20周年記念式典。同44年給食
調理室完成。完全給食実施。同45年第一・第二校舎解体。区立社会開館併設。同46年第一校庭を
荒木田舗装。流水庭園完成。同47年開校25周年記念式典・第二運動場造成。同49年カイズカイ
ブキ植樹。同50年体育館ステージ完成。同51年第一校庭スプリンクラー設置。同52年開校30
周年記念式典。平成10年少子化による生徒減少のため第四中学校と統合して東京都立文京区立本郷
台中学校となる。


■本郷台中学校

 本郷2丁目38番23号、東大に一番近いところにある区立校。平成10年文京区立学校設置条例
に基づき、第二中学校と第四中学校が統合し、「東京都文京区立本郷台中学校」として開校。8学級
224名でスタート。同11年校歌・校章制定。


 校歌「
大空の彼方に」  作詞作曲・松井孝夫
  1.大空の彼方に私たちの
    希望にあふれる未来が見えてくる
    みんなでつくろう平和な世界
    新しい風に心をなびかせて
    さあ歩んでゆこう
    みんなで力を合わせ
    さあ進んでゆこう
    夢いだいて
    歴史刻んだこの町で
    仲間と共に生きよう
    若き輝き 明日へはばたく本郷台
  2.高台を行けば 私たちの
    すてきな町並み 緑が見えてくる
    みんなで咲かせよう友情の花
    私たちの手でこの地を守ろうよ
    さあ歩んでゆこう
    新たな絆を深め
    さあ進んでゆこう
    夢えがいて
    歴史刻んだこの町で
    仲間と共に生きよう
    若き輝き 明日へはばたく本郷台


 同12年新体育館完成。男女混合名簿を始める。朝礼隊形等を男女混合とする。同13年英語科少
人数授業開始。租税教育の推進により本郷税務署長より感謝状。校庭改修。同14年エヌ・アイ・サ
ービスによる給食開始。運動会を本校校庭にて実施。救命講習を積極的に促進し、救急行政の推進寄
与により東京消防庁本郷消防署長より感謝状。人間国宝、一龍斎貞永氏の講演会を行う。人権作文コ
ンテスト東京大会への協力により東京法務局長・東京都人権擁護委員会連合会長より感謝状。同15
年大学との連携による学習指導補助員制度開始。普通教室エアコン設置。同16年創立5周年記念式
典。数学・理科で少人数授業。東京都教育の日に授業参観とPTA主催ふれあいスポーツ大会開催。
同17年都立工芸高校との連携教育開始。同20年開校10周年記念式典。
 


■東京本郷
皿の美術館
 本郷2丁目38番13号にある。アンティーク小物から甲冑まで、洋の東西を問わず世界各国から
集められた骨董品が並ぶ難波美術道具店の2階から4階までの各階に、テーマ別に分けて、古伊万里
など珍しい図柄の大皿を中心に200点余が展示されている。
 


■エチソウビル

 本郷2丁目39番7号にある越前屋惣兵衛ビルディング。大正期の建物だそうで、平成になってリ
ニューアルした。現在の入居者は、グラフィックデザイン会社「クアトロプントス」(平成8年年入
居)・建築設計事務所「ファロ・デザイン」(平成14年入居)・JAVAプログラミング会社「イズ
ニーク」(平成15年入居)・「クアトロプントス」出身のデザイナー2人のシェアオフィスの4社。
最初に入居した「クアトロプントス」の主宰者出柄和伸(いずえかずのぶ)が、初めて物件を見た時
「建築の面白さやポテンシャルの高さなどより、荒廃した環境が嫌だった」ので、2カ月かけて自分
たちの手でリノベーションしたそうだ。リノベーションとは、既存建物を大規模改装し耐震性や省エ
ネなど、用途や機能を刷新・高度化し、建築物にに新しい価値を加えることだ。平成8年といえば、
やっと建築業界が「リフォーム」に目を向け始めたぐらいの時期で、その当時に「レトロビルをセル
フ・リノベーション」とは、さすが時代を先取りするデザイナーだけのことはある。「エチソウビル」
のコミュニティは、このリノベーションが契機となって形成された。全員集合の扉写真がイイ感じ!


■本郷三丁目駅

 本郷2丁目39番にある東京メトロ丸の内線の停車場。昭和29年1月20日丸ノ内線池袋~御茶
ノ水間開業と同時に設けられた。相対式2面2線構造で地下1階にある。改札階と結ぶエレベーター
は設置済み。改札口は地上で1ヶ所、出口は2ヶ所。都営大江戸線の本郷三丁目駅とは離れており繋
がっていない。したがって雨の日の乗り換えには傘が要るよ。

 ●缶破裂事故
 平成24年10月20日午前0時20分頃、停車中の電車内で缶のようなものが破裂したなどと1
19番通報があった。東京消防庁などによると、アルミ缶のようなものが破裂したとみられ、乗客の
男女14人がけがをした。命に別条はなく、大半は軽傷という。缶には洗剤のような液体が入ってい
たという。警視庁によると、缶は乗客の女性が知人から受け取った洗剤入りの缶のようなものを振っ
ていたら破裂したといい、事件性は薄い。負傷者は周囲にいて液体を浴びた人たちだ。目撃者による
と、バンと音がして振り返ると缶を持っていた女性が「漂白剤です。すみません」と謝っていた。液
体が顔にかかるなどした周囲の乗客数人が「痛い」と訴え、一時騒然となった。サリン事件があった
からねぇ、人迷惑な話さ。


■かねやす
 本郷2丁目40番11号、本郷三丁目交差点の西南角地にある。享保の頃兼康祐悦という口中医師
(歯科医)が「乳香散」という歯磨粉を売り出したら、これがバカ当たりして大繁盛した。享保十五
年(1730)の大火のとき湯島・本郷一帯が燃え、復興に力を入れた大岡越前守忠相が、かねやす
以南の町屋は耐火のために瓦葺・塗屋・土蔵造りにするように命じたため町の様相が板屋根の北方と
明確に違っていたので、


   本郷もかねやすまでは江戸のうち


 と川柳に皮肉られた。その境目の大きな土蔵のある「かねやす」は特に目だっており、そこにこの
歌の皮肉が利いている。幕府が「かねやすまでを江戸」と定めた訳ではない。江戸幕府の生涯は大火
との戦いに終始したといってよい。
 芝神明前の兼康との間に元祖争いが起き、時の町奉行は「本郷は仮名で、芝は漢字で」との判決を
行なった。それ以来、本郷は仮名で「かねやす」と書くようになった。小間物屋を兼ねていた。現在
「かねやす」は化粧品・小間物・洋品雑貨店となっている。


   かねやすの日除人すぐ五月祭(吉村千秋)


   かねやす

   兼康祐悦という口中医師(歯科医)が、乳香散という歯磨粉を売り出した。大変評判にな
   り、客が多数集まり祭のように賑わった。(御府内備考による) 
   享保十五年大火があり、防災上から町奉行(大岡越前守)は三丁目から江戸城にかけての
   家は塗屋・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺を禁じて瓦で葺くことを許した。江戸の町並み
   は本郷まで瓦葺が続き、それからの中仙(中山)道は板や茅葺の家が続いた。 
   その境目の大きな土蔵のある「かねやす」は目だっていた。『本郷も かねやす までは江
   戸のうち』と古川柳にも歌われた由縁であろう。 
   芝神明前の兼康との間に元祖争いが起きた。時の町奉行は、本郷は仮名で芝は漢字で、と
   粋な判決を行った。それ以来本郷は仮名で「かねやす」と書くようになった。
               文京区教育委員会 昭和61年3月
 


■本郷三丁目駅

 本郷2丁目40番にある都営地下鉄大江戸線の停車場。平成12年12月12日大江戸線池袋~御
茶ノ水間開業と同時に設けられた。ホームは島式1面2線構造で地下3階にある。改札階と結ぶエレ
ベーターは設置済み。改札口は地下で1ヶ所、出口は3ヶ所。都営大江戸線の本郷三丁目駅とは離れ
ており繋がっていない。したがって雨の日の乗り換えには傘が要る。

 
「CROSSING HEARTS 2000」
 1階改札口コンコース正面に設置されている。改札内壁画。駅設計に当って改札口付近の空間デザ
インを公募し、多くの若い建築家などからの応募を得、本郷三丁目駅には、小林康夫のアイデアが採
用された。そのアイデアとは、壁一面を現代詩の代表的詩人の詩で飾るというもの。多くの学生が毎
日通うこの駅には「過去から未来へ日本人の知性と感性を橋渡しすることが相応しい」と求められた
ことに対して答えた案だった。小林は数人の詩人、編集者と共に48編の詩の断片を選んで編み「C
ROSSING HEARTS」と名づけられたこのアンソロジーは、地下一階改札口コンコース正面
に設置された。本郷三丁目ゆとりの空間制作プロジェクトチーム制作。文学にゆかりのある地である
ことから、この半世紀の間に日本の詩人に詠まれた詩から48編の詩句を選出し、詩を一行で刻印。
バイブレーション加工したアルミ帯板の上に刻印された詩と、鮮やかな色彩の帯板と交互に配したデ
ザイン(縞模様)。選ばれた詩句は、寺山修司、石垣りん、岡田隆彦、吉増剛造など。
「やつめさす 出雲 よせあつめ 縫いつくされた国 出雲(入沢康夫「わが出雲」)」に始まり、
「晴れやかな地下鉄道。晴れ渡って崖てしない壁。日を繋いていく轟くばかりの鋼の祈りに、ひと刷
けの雲が掛かって、はじまりよ、それがおまえの巣(平出隆「胡桃の戦意のために」)」に至る「詩
集」は、それ自体一つの作品ともなって、地下の空間を切り開いていく。この半世紀の詩人たちの言
葉は、都内を走る地下鉄の路線図を思わせる虹色のカラー・プレイトの間を横組みに走っていて、幅
10m×高さ2・4mという横長の大画面は立って眺めるより、歩きながら読む方がしっくりくる。
研ぎ澄まされた言葉と共に歩くという楽しみはほでは味わうことはできない新鮮なものだ。
 本郷三丁目ゆとりの空間制作プロジェクトチーム
 選定委員:小林康夫(東京大学大学院総合文化研究科教授/選考取りまとめ)、野沢啓(詩人・評
論家)、野村喜和夫(詩人)、新井豊美(詩人)、守中高明(詩人)、佐藤一郎(編集者)。

   SoftBank Telecom
   
CROSSING HEARTS
   
アーティスト:本郷三丁目ゆとりの空間制作プロジェクトチーム
   2000年
  


■湯島不動尊

 本郷3丁目8番10号にある小祠。詳細不明。 


■日本サッカーミュージアム
 本郷3丁目10番15号JFAハウス(日本サッカー協会ビル)にあるサッカーの殿堂。2002
年日韓開催FIFAワールドカップがもたらした有形・無形のサッカー遺産を活用し、時空を超えて
サッカーの喜びを世界中の人たちと共有し、次世代のサッカー文化を振興させるため設立された。
 開館時間  火曜日~木曜日は 13:00~18:00(最終入場17:30)
       金曜日は13:00~20:00(同19:30)
       土・日・祝日・特別営業期間は10:00~19:00(同18:30)
 入場料   500円(小中学生300円)
 休館日   月曜日(祝祭日の場合火曜日)
 問い合せ  03‐3830‐2002
 


■奥田座→春木座→本郷座

 本郷3丁目14番7号、ビクター本郷ビルのところにあった。ビルの角地に区教委のステンレス製
の説明板が据えてある。
 江戸時代末期、江戸歌舞伎は、中村・市村・守田の3座が浅草猿若町で興行していた。水野忠邦の
〝天保の改革〟で、歌舞伎・操り人形の芝居小屋が日本橋から移転して来て以来、興行街を形成し、
そこでしか常打ちの芝居興行は認められていなかった。むろん寺社の祭礼での短期間の素人芝居や、
どさ廻りの小芝居はそこらじゅうにあったよ。
 明治5年江戸三座以外の芝居、劇場新築が許可され、本郷春木町に奥田座が開場した。この劇場の
前身は東両国にあった〝大辰の芝居〟で、その花形役者坂東佳根三郎(のちの市川寿美蔵)らが移っ
てきたものだ。当時春木町の地主奥田富蔵の長男登一郎が、春木町の所有地へ劇場新築を願い出て、
同6年に皇居された。登一郎は、新富町に新築移転した守田座の壊し家を買い取って解体移築した。
この地所は6~10番地までのところ(ビクター本郷ビル)で、間口28m×奥行38mの広さだっ
た。それが完成して奥田座を称えたものだ。しかし座元が奥田利兵衛に変わり、深江庄兵衛になると
ともに町名に因んで「春木座」と改めた。出演の役者は市川権十郎・同門之助・同新十郎・同女寅・
中村鶴助・片岡我童・同我当らだったが、同11年・同14年には市川団十郎が出演し、同15年に
は団十郎と・尾上菊五郎が出演した。このころ団十郎・菊五郎は、江戸歌舞伎の名題役者(トップス
ター)で、〝団菊〟と呼ばれて人気は超絶大だった。その出演は春木座の名を高めたろう。しかし千
両役者の高給取り、小劇場にとって、団菊の出演は経営上無理があった。同14年12月興行は落語
家芝居でお茶を濁し、同16年以降春木座の舞台に団菊が上がることはなかった。同21年に春木座
焼失。同24年ドイツ風建築で再建したが、同31年再び焼失、翌年再々建したが興行成績は振るわ
なかった。そのため同34年20000円の負債により破産宣告を受けて競売された。経営は山田八
三郎・福島〆作・萩原政蔵・坂田庄太の4人の手に移り、同35年「本郷座」と改称した。同40年
刊行の『東京案内』に、

   ・・・建坪四百七十七坪を有す。之に付属する茶屋は大和屋、つちや、まる五、春の家の
   四軒也。本座は近年専ら新俳優のみを以て興行を企つ。観劇料は多少の変動はあれど、ほゞ
   一等一円二十銭、二等一円、三等七十銭、四等三十銭、開閉時間は大略四時より同十一時
   までとす。


 と記している。「近年専ら新俳優のみを以て興行を企つ」とあるが、それは明治36年ごろからの
傾向だった。前年は歌舞伎を興行し、市川猿之助・同染五郎・同女寅・同小団次・中村時蔵・同吉右
衛門・沢村納子らが出演していた。新俳優の出演者は、川上音次郎・同貞奴・高田実・河合武雄・藤
沢浅次郎・伊井容蜂・喜多村緑郎らだった。それら新俳優によって「不如帰」「金色夜叉」「高野聖」
「ハムレット」などが上演され、新派随一の劇場として当たり続けた。同43年松竹合名会社の傘下
に組み込まれ、翌年松竹が大改修、第一次大戦の好景気時代には歌舞伎、新派、新劇など交互に上演、
まさに著名な芝居小屋だったが、関東大震災で全焼した。バラックで再建された本郷座は、松竹の手
で歌舞伎を上演し、市川左団次を中心に、市川八百蔵・同寿美蔵・同羽左衛門・片岡仁左衛門・中村
歌右衛門・同歌六・坂東秀調らが出演したものの、昭和5年以降は映画館に衣替えした。同20年3
月9日~10日のアメリカ軍の空爆で焼失、跡形もなくなった。区の説明板が据えられている。

   本郷座
   本郷座は明治6年に本郷在住の奥田氏が「奥田座」を開設したことに始まる。その2年後
   に地名が春木町に変わったため「春木座」に改められた。明治10年には市川団十郎ほか
   歌舞伎の名優の出演もあって脚光を浴びた。
   その後、火災に見舞われたが再建され、明治35年には「本郷座」と改称された。新派の
   川上音二郎一座が「ハムレット」を上演して盛況を極めたりして、新派全盛時代を築いた
   のも、本郷座の時である。大正12年の関東大震災で焼失したが、翌大正13年バラック
   建てで再興された。昭和2年に新装となり、昭和5年歌舞伎上演を最後に常設映画館に転
   向した。この度の戦災で本郷座は跡かたもなく焼失し、昔日の面影を伝えるものは残って
   いないが、明治・大正期における演劇文化の拠点の地として貴重な史跡である。
   平成9年3月                          文京区教育委員会


■見送り坂・見返り坂

 本郷3丁目交差点から北へ菊坂通り入口へ向けて僅かに落差がある。まあ普通は気がつかない。そ
の勾配が見送り坂。底は東側の東大構内にある湧水からの小流が菊坂の渓に流れ、やがて嫁入橋の東
で東大下水に合流した。その小流に架かっていた「別れ橋」または「涙橋」といい、そこから北へ上
り坂になっている。それを見返り坂といった。太田道灌が江戸在城当時、ここは領地境でジャングル
の中、岩槻に抜ける奥州道が一本北へと向かっていた。天然の関門で、見張りの番所があって、江戸
の犯罪者を追放した。だから親族の者が見送りに来る。別れの涙をこぼす。追われる者は見返り見返
り去っていくという場所だった。今はもうお前さん、繁華街でそんなことは思いも浮かばない。

   別れの橋跡・見送り坂・見返り坂
   「むかし太田道灌の領地の境目なりしといひ伝ふ。その頃追放の者など此処より放せしと
   ・・・いずれのころにかありし、此辺にて大きなる石を堀出せり、是なんかの別れの橋な
   りしといひ伝へり・・・・・・太田道灌の頃罪人など此所よりおひはなせしかは、ここよ
   りおのがままに別るるの橋といへる儀なりや」と『改撰江戸志』にある。
   この前方の本郷通りはややへんこんでいる。むかし、加賀屋敷(現東大構内)から小川が
   流れ、菊坂の谷にそそいでいた、『新撰東京名所図会』には、「勧業場本郷館(文京セン
   ター)の辺は、地層やや低く、弓形にへこみを印す、其くぼめる所、一条の小渠、上に橋
   を架し、別れの橋といひきとぞ」とある。
   江戸を追放された者が、この別れの橋で放たれ、南側の坂(本郷3丁目寄)で、親類縁者
   が涙で見送ったから見送り坂。追放された人がふりかえりながら去ったから見返り坂とい
   われた。今雑踏の本郷通りに立って500年の歴史の重みを感じる。
                文京区教育委員会 昭和59年3月
 


■本郷中央教会

 本郷3丁目37番19号にある日本基督教団のチャーチ。明治23年カナダ・メソジスト教会の宣
教師チャールズイビーによって設立され、大正6年に日本メソジスト教会成立時に加入。同12年に
アメカ合衆国のオークランド日本人教会の牧師だった今井三郎が帰国して牧師に就任し、昭和16年
まで務めた。同年日本基督教団成立時に加盟し今日に至っている。

 
中央会堂
 大正12年関東大震災により倒壊したため、昭和4年川崎忍の設計、辻組の建築で復興。鉄筋コン
クリート3階建て塔屋付。同20年愚かなアメリカ軍の非キリスト的無差別大空襲の際には、罰が当
るのを恐れてか、直撃が避けられたために火が回ることなく、周辺の罹災者700人が会堂に収容さ
れ、焼失した本富士警察署も一時この中に置かれとていた。平成16年8月21日国の登録有形文化
財(第13‐0044)となった。

   CENTRAL TABERNACLE
   ESTABLISHED・・・1890
   DESTROYED・・・・1923
   RE-ERECTED ・・・1929
         ━
   創立 明治二十三年
   震災 大正十二年
   復興 昭和四年
   
中央會堂
   真理は我等に得さすべし


 
日本最初のパイプオルガン
 創立と共に設置され、日曜日にパイプオルガンと尺八や琴の和洋折衷の音楽界が開催され、一流音
楽家が演奏するようになる。作曲家岡野貞一はこの教会のオルガニストとして長年仕えた。イギリス
ウェールズ出身の教会音楽家エドワード・ガントレットが聖歌隊を指導した。佐藤千夜子、山田耕筰
(ガントレットの義弟)、中山晋平なども出入りしていた。また、夏目漱石の小説「三四郎」にも、
この教会が登場する。


■稲荷神社
 本郷3丁目39番3号にある小社。詳細不明。 


■南江堂
 本郷3丁目42番6号にある古書店。明治12年開業。医学・看護など、医療系書籍・雑誌の出版
販売の老舗。明治36年3月の『医学中央雑誌』に掲載された広告が残っている。当時の南江堂書店
は、「本郷區湯島切通町八番地(電話:下谷1330)」にあった。この広告記事では、本店の真向
いの切通坂町27番地に図書陳列所を開設したことを報じている。 



■春木町公園

 本郷3丁目43番12号にある区立公園。昭和43年6月13日都立公園として開園、平成14年
4月1日から区に移管され区立公園となった。


■シティブリッジ‐City Bridge
 本郷4丁目1番1号に三菱UFJニコスビルの、春日通りと本郷通りの交差点近くに設置されているサトルタカダのオブジェ。螺旋階段を登ると,その全体像を見ることができる。

   Gallerys Symbol/City Bridge
              ■
       人と人をつなぐ 人と街をつなぐ
           人と未来をつなぐ
     そんな想いを━このCity Bridge


富元山瑞泉院真光寺
 移転
 本郷4丁目2番・3番・4番・37番の各一部にあった古刹。眞光寺の創建は嘉祥二年(848)
に慈覚大師によると伝えられている。その後、永く廃寺同様になっていた。寛永十四年(1636)
清賢法印が、藤堂高虎の助力により再興し、正保四年(1647)諸堂宇及び天神社(桜木神社)が
落慶された。そして昭和20年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆の煽りを受けて堂塔伽藍の総
てを焼失、昭和26年薬師堂と十一面観世音坐像と墓地を残したまま世田谷区給田1丁目19番9号
に移転していった。
 


■本郷薬師堂

 本郷4丁目2番5号にある。本郷三丁目交差点の本郷交番のすぐ北の路地を入っていった左側にあ
る。世田谷区給田に越していった真光寺が忘れていったものだ。元この位置には露仏の十一面観世音
菩薩があったが、本郷4丁目37番23号の墓地入口に移されている。薬師堂は境外仏堂で、元の位
置は、本郷4丁目1番を通っていた小川(東大下水)の北側にあった。

   本郷薬師
   この地は、富元山真光寺(戦災にあい世田谷に移転)の境内であった。伝えによれば、寛
   文十年(1670)ここに薬師堂が建立された。当時御府内に奇病猖獗(しょうけつ)し
   病に斃れる者数知れず出たが、この薬師様に祈願して病気が治まったといわれている。本
   来薬師如来は人間の病苦をいやし、苦悩を除く仏とされている。以来人々に深く信仰され
   た。
   「本郷夜市は著名なり。連夜商人露天を張る。毎月8日・12日・22日は薬師の縁日な
   り。縁日の夜は、殊に雑踏を極むるなり・・・」(新撰東京名所図絵より)
   本郷薬師の縁日の夜は、植木・雑貨・骨董などの店が並び、飲食店もでて大変賑やかだっ
   た。牛込神楽坂善国寺の毘沙門縁日と共に大変に有名だった。御堂は戦災で焼失したが、
   昭和22年に改築され、さらに昭和53年に新築された。
                 ━郷土をはぐくむ文化財━
               文京区教育委員会 昭和62年3月
 


■桜木神社

 本郷4丁目3番1号、春日通りに面してある。文明年間(1469~87)、太田道灌江戸築城の
折、菅原道真の神霊を京都北野の祠より同城内に勧請したもの。その後桜の馬場の地に遷座したが、
徳川綱吉が同所に昌平校設立のため現在地に移された。
 


■真砂小学校 
廃校
 
 本郷4丁目5番15号にあった区立校。明治37年に設立認可がおり、校地は本郷区真砂町11番
地13号の最終地(現本郷小学校)に校舎が建てられることになったが、建築の区議会決議は同38
年12月、翌年1月に突貫工事に入って4月に落成した。僅か4ヶ月の工期だ。5月1日高等科を併
置する「東京市真砂尋常小学校」として開校。生徒と備品などは、昨年5月に閉校した龍岡尋常小学
校のものを収容した。校名は町の名前を冠したが、このことについて誰も異議を申し立てなかった。
児童数392名7学級でスタートしたが、翌40年815名14学級と飛躍的に増加した。ために同
41年高等科を分離し「東京市本郷区真砂尋常小学校」と改称。同43年16学級、同45年には2
0学級となり、一部学年は二部授業とせざるを得なくなった。しかしこれは2ヶ月後に元町小学校を
分校して解消した。
 大正5年校訓「自彊」と刻した磐石を玄関脇に据付。同10年第三実業女学校を併設。同12年校
舎増改築・7教室増。同14年校歌制定。


 校歌「
波打つたび」 作詞・小林愛雄  作曲・弘田竜太郎
  1.波打つたびに 打つたびに
    岸の真砂は輝きて
    心を洗い 身を鍛え
    何時かは成らん大岩と
  2.風吹くとしても 吹くとても
    清き桂の芽は伸びて
    真直ぐに強き葉と茂り
    何時かは成らん大木と
  3.日の照る毎に 照る毎に
    学ぶ我等は睦まじく
    誠の道に知恵磨き
    何時かは成らん大市民


 昭和9年校地拡張。同11年鉄筋コンクリート造り校舎完成。同16年国民学校令により「東京府
東京市真砂国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年と誠志黌により「東京都真砂国民学校」と
改称。同19年栃木県塩原町に学童集団疎開。同20年8月日本は、アメリカの軍門に降り敗戦、以
後その属国となり、唯々諾々としていいなりとなる保守傀儡政権を保持せざるを得ない今日的不幸を
背負い込む。10月疎開解除により学童帰校。
 同21年6月食糧事情悪化のため午前中授業とする。同12月アメリカから廃棄ミルクが持ち込ま
れ、給食実施。このミルクが臭いんだ。とても飲めた代物じゃないんだが、食うものが無いから、直
ぐにカチカチになるコッペパンを食いながら飲んだものだよ。それで午後授業再開。あの腐ったよう
な臭いの粉ミルクも、今となっては懐かしいものよ。同22年アメリカの強制による学制改革のため
「東京都文京区立真砂小学校」と改称。同23年アメリカの強制により父兄会を解散し、「父母と教
師の会(PTA)」創立。
 昭和20年代から30年代は児童数は毎年1000人を越していたが、その後は町の商業ビル化に
より就学児童が次第に減少し、平成に入るとさらに減少して分教場状態となったため、同じ状態となっ
た元町小学校と統合することになり、平成10年に統合して本郷小学校となった。
 戦前は、主として理科を中心とする科学教育の先導校として名を馳せ、戦後は、音楽、算数、国語、
保健、給食、特別活動など、それぞれ国や区の研究指定校、研究協力校として大いなる実績を残し、
本郷小学校に受け継がれている。


■本郷小学校

 本郷4丁目5番15号にある区立校。平成10年少子化による就学児童減少のため真砂小学校と元
町小学校を統合して開校した新生小学校。校歌・校章制定。

 校歌「輝く命を」 作詞・宮中雲子  作曲・中田喜直
  1.輝く命を漲らせ
    高く聳えるいちょうの木
    すくすく元気に逞しく
    勇気を以て何処までも
    本郷小学校の私たち
    何時でも今を大切に
    憧れ抱いてはばたこう
  2.緑豊かなこの街に
    歴史と文化を受け継いで
    真っ直ぐ素直に爽やかに
    理想を掲げて歩いてく
    本郷小学校の私たち
    何時でも今を大切に 
    心の故郷 育てよう
  3.互いに腕組み学びあい
    世界を平和に繋ぐ夢
    誰もが楽しく生き生きと
    希望の光を求めてく
    本郷小学校の私たち
    何時でも今を大切に
    明るい未来に飛びび立とう


 同11年旧元町小学校校舎を利用して授業開始。同13年真砂小学校跡に新校舎落成。同14年移
転し新校舎にて授業開始。同15年創立5周年記念式典。同18年校庭に万国旗用ポール設置。同2
0年創立10周年記念式典。
 


■本妙寺坂
 本郷4丁目5番の本郷小学校の西、本郷4丁目交差点から菊坂へ下る坂道。かつて坂下にあった本
妙寺の参道になっていたことからその名がある。

   本妙寺坂
   この坂は、本郷の台地から菊坂へ下っている坂である。菊坂をはさんで真向かいの台地に
   は、かつて本妙寺という法華宗の寺があった。境内が広い大きな寺で、この寺に向かって
   下る坂であったところから「本妙寺坂」と呼ばれた。
   本妙寺は明暦の大火(振袖火事・明暦3年(1657)の火元として有名である。明治4
   3年豊島区巣鴨5丁目に移転した。
                文京区教育委員会 平成6年3月
 


■文京区男女平等センター

 本郷4丁目8番3号にあるくの施設。
 女性センターが男女平等センターに変ったのを知らなかったが、馬鹿な奴がいてクレームつけた奴
がいるんだろう。民主主義の何たるかも知らなくて、上っ面の理屈で騒ぐ奴がいる。パーリアメンタ
リー・デモクラシー(議会制民主主義)と、古代ギリシャでいうところのデモスクラトス(民衆の力
=民主政治)とは全くの別物だ。議会制民主主義というのは、ユダヤがイギリスを乗っ取る時に立ち
上げたスローガンだ。民衆の力でも何でもない、ユダヤの謀略だ。オレンジ公ウィリアムはユダヤ人
だからイギリス王家はユダヤ人だ。伯爵にロスチャイルドってぇ悪党がいるが、こいつが始末の悪い
ユダヤの親玉だ。議会制民主主義はユダヤの世界支配の道具だ。自由主義(自由・博愛・平等)、こ
れはフランスを乗っ取る時のユダヤのスローガンだが、フリーメイソンのスローガンと同じだ。ロシ
アを乗っ取った時のスローガン、共産主義は、ユダヤの秘密結社イルミナティの思想そのものだ。マ
ルクスもレーニンもスターリンも、みんなユダヤ人だ。もっというならナチスドイツもユダヤが拵え
たもので、ヒトラー、ゲーリング、ゲツペルス、ヘス、ヒムラー、アイヒマン等々みんなユダヤ人だ
ぜ。アメリカのインディビデュアリズム(個人主義)も、ウーマンリブ運動も、男女同権も、世界遺
産も、みんなユダヤの世界支配のテクニックなのに、世界中が議会制民主主義に取り縋って浮かれて
いるのは、愚の骨頂だ。外国人がどんどんどんどん押し寄せている。民主主義だから断れない。皇室
で国際結婚すればメルヘンだと大喜びするだろうが、佳子、真子が国際キリスト教大学に行かされた
のも・・・、皇后陛下も、皇太子妃もその仲介役は共にクリスチャンだ。危ねえ! 危ねえ!

■真砂遺跡

 本郷4丁目8番3号女性センター(男女平等センター)の地下にある。

   真砂遺跡
   〝文京区女性センター〟の建っているこの地に、江戸時代の宝永元年(1704)から安
   政5年(1858)までのおよそ150年間、唐津(佐賀県)藩主・小笠原氏の中屋敷、
   そして幕末まで上田(長野県)藩主松平氏の中屋敷があった。
   現在の建物を建築するにあたり、昭和59年に発掘し調査した結果、数々の遺構と遺物を
   検出し、当時の武家屋敷とそこで働く人々の生活を知る貴重な資料を得ることができた。
   この遺跡をもとの町名に因んで「真砂遺跡」と命名した。
   出土品で最も多かったのは、生活用具としての陶磁器であったが、文京区内では非常に珍
   しい18000年位前に使われたと思われる黒曜石の矢尻、18世紀にオランダで作られ
   た土製のクレイパイプなどが発見された。遺構としては、火災の時の荷物の避難場所、或
   いは酒や味噌の発酵場所と考えられる。40に及ぶ地下室、千川上水を引き込んだ上水道
   跡等が発掘され、多大な成果を収めた。
              東京都文京区教育委員会 平成元年3月


■真砂児童遊園

 本郷4丁目8番15号にある区立公園。昭和51年3月31日開園。


■輝・翔

 本郷4丁目9番7号本郷真砂パークハウスの春日通りとは反対側の中庭に置かれているオブジェ。
主に真鍮,鉄,金箔などを使用したパブリックアートを手がける望月菊磨による平成11年制作の作品。

Open Airシリーズの1つ。


■文京ふるさと歴史館

 本郷4丁目9番29号にある区の郷土資料館。文京区の歴史や産業、文化財をあらゆる世代の人に
伝え、触れて貰い、郷土に対する愛着や関心を深めようとのこと。

   庚申塔
   江戸時代に盛んだった民間信仰に、60日毎に巡ってくる庚申(かのえさる)の日、夜眠
   らずに長寿招福を祈る庚申信仰があります。この庚申供養塔は、上部に本尊の阿弥陀三尊
   (種字)を、下部に三猿(見ざる、言わざる、聞かざる)が刻まれています。区内の心光
   寺(白山5丁目)にあったもので、元禄十三年(1700)の銘があります。

   
神田上水の石
   ここにある石は、神田上水に利用されていた間知石(四角錘の石)と蓋石(長方形の石)
   です。間知石は巻石通りの安藤坂付近から、蓋石は水道橋にある神田上水遺跡から掘り出
   されたものです。上水の主幹線で暗渠の部分は、間知石を側面に積み上げ石垣としその上
   に蓋石をのせて石垣樋にして水を流していました。

   
水盤
   水盤は、禊盥、手洗鉢とも呼ばれ、神仏の前に置かれ参拝者が手などを洗い清めるための
   ものです。これは古くから行われていた汚れを払うために、川の水で体を清める斎戒沐浴
   を簡略にしたものといわれています。この水盤は護国寺に伝えられたものです。

   
板碑
   板碑は、鎌倉時代におこり、室町時代にかけて造立された供養塔です。卒塔婆の一種とし
   て生まれました。この「阿弥陀三尊」は、正面に梵字で、阿弥陀如来(中央)、勢至菩薩
   (左下)が刻まれています。区内の心光寺に伝えられたもので、鎌倉時代のものと考えら
   れ、緑泥片岩が用いられています。

   
富士講の碑
   江戸時代、盛んであった民間信仰に富士信仰があります。この「すかも同行」の碑は、護
   国寺の富士塚のもので、巣鴨(現・千石辺りから滝野川までの旧中山道にそった地域)の
   富士講から奉納されたものです。講印の「マントウ」は、富士講中興の祖身禄行者の直弟
   子高田藤四郎を講祖としています。


■常磐会寄宿舎跡

 本郷4丁目10番13号にあった。ここは坪内逍遥が、明治17年7月から、同20年に真砂町2
5番地に移るまで住んだ。『小説神髄』を発表して近代文学の理論を展開し、それを具体化した小説
『当世書生気質』を書いたところだ。逍遥の移転後、旧伊予藩主久松氏の育英事業として、常磐会寄
宿舎となった。正岡子規は、明治21年から3年間寄宿し、また河原崎碧梧桐も住んだことがある。
当時の舎監が内藤鳴雪だった。凄い! 説明板が、ブランツ本郷真砂の東端、炭団坂の隣にある。

   坪内逍遥旧居・常盤会
   本郷4‐10‐13
   坪内逍遥(1859~1935)は、本名雄蔵、号は逍遥、または春廼舎おぼろで、小説
   家、評論家、教育家である。明治17年(1884)この地(旧真砂町18番地)に住み
   『小説神髄』(明治18年~19年)を発表して勧善懲悪主義を排し写実主義を提唱、文
   学は芸術であると主張した。この理論書『当世書生気質』は、それを具体化したものであ
   る。門下生・嵯峨の舎御室は「逍遥宅(春廼舎)は東京大井町の急な炭団坂の角屋敷、崖
   上渕上にあったのだ」と回想している。
    逍遥が旧真砂町 25番地に移転後、明治20年には旧伊予藩主久松氏の育英事業とし
   て「常盤会」という寄宿舎になった。俳人正岡子規は、明治21年から3年余ここに入り、
   河東碧梧桐(俳人)も寄宿した。また舎監には内藤鳴雪(俳人)がいた。

     ガラス戸の外面に夜の森見えて清けき月に鳴くほととぎす 正岡子規

     常盤会寄宿舎から菊坂をのぞむ
                                   文京区教育委員会

 住居跡の住所は、本郷4丁目10番1号か、本郷4丁目10番13号だが、現在4丁目10番全域
にブランツ本郷真砂になっているので、4丁目10番には6号しかない。


■金田一京助・春彦旧居跡

 本郷4丁目11番6号、鐙坂の途中にある。明治時代の木造の家屋がそのまま残されている。

   金田一京助・金田一春彦 旧居跡
   金田一京助(言語学者)は、明治15年岩手県盛岡に生まれた。東京大学言語学科卒業後、
   昭和17年から同大学において教授として教鞭を執り、のちに国学院大学教授となった。
   東京大学在学中からアイヌ民族に関る言語、文学、民族の研究を始め、北海道・サハリン
   (樺太)のアイヌ居住地を歴訪し、実地調査と研究により、アイヌ語を初めて学問的に解
   明し、アイヌの叙事詩ユーカラを世に始めて紹介した。アイヌに関る多くの著書は、日本
   列島における北方文化を学ぶ者の原点ともなっている。これら数々の功績により、昭和2
   9年には文化勲章が授与された。
   盛岡中学時代、2年下級に石川啄木が在籍していた。石川啄木は中学を卒業後、盛岡から
   上京、京助を尋ね、急速に文学への関心を高めていった。京助は啄木の良き理解者であり、
   金銭的にも、精神的にも、類まれな援助者であった。金田一京助の長男春彦(国語学者)
   は、大正2年ここ本郷の地で生まれた。大正9年からの5年間、近くの真砂小学校(現本
   郷小学校)に在籍。この頃唱歌の音階に関心を持ち、それが後の平家琵琶やアクセント研
   究のきっかけとなった。東京大学国文学科を卒業後、名古屋大学・東京外国語大学、上智
   大学などで教鞭を執った。全国各地のアクセントを調査研究し、国語アクセントが歴史的
   かつ体系的に変化することを初めて実証した。また、数多くの国語関係辞書等を編纂を通
   じて、その研究成果を一般に普及させた。第50回(平成9年度)文化功労者表彰受賞、
   平成13年度東京都名誉都民。
               文京区教育委員会 平成16年4月
 


■炭団坂
 本郷4丁目11番と35番の間を南に上がっていく雁木坂(段々)。

   炭団坂 たどんざか
   本郷台地から菊坂の谷へ下る急な坂である。名前の由来は「ここは炭団などを商売にする
   者が多かった」とか「切り立った急な坂で転び落ちた者がいた」ということからつけられ
   たといわれている。台地の北側の斜面を下る坂のためにじめじめしていた。今のように階
   段や手すりがない頃は、特に雨上がりには炭団のように転び落ち泥だらけになってしまっ
   たことであろう。この坂を上りつめた右側の崖の上に、坪内逍遥が明治17年から明治2
   0年まで住み、「小説神髄」や「当世書生気質」を発表した。
                文京区教育委員会 平成6年3月
 


■真砂住宅跡
 本郷4丁目19・20・22番の住宅地は、大正12年から建築が始まり、全46戸の戸建住宅が
建てられ、整然とした美しい町並みが見られた。オレンジ色のフランス瓦で葺かれた瀟洒な住宅だっ
たが、愚かなアメリカ軍の空爆で焼かれたり、建て替えなどで失われ、今では数軒を残すのみだ。


■陸軍本郷聯隊区司令部跡
 本郷4丁目20番2号の財務省関東財務局真砂住宅のところだ。前身は本郷大隊区である。東京府
の一部と埼玉県の一部の徴兵・召集等、兵事事務を担任した。第一師団第一歩兵聯隊を構成した。
 明治21年5月14日、大隊区司令部条例(明治21年勅令第29号)により本郷大隊区が設置さ
れ、陸軍管区表(明治21年5月14日勅令第32号)により東京府の一部と埼玉県の一部で第一師
団管区第二旅団管区に属した。同29年4月1日本郷大隊区は、聯隊区司令部条例(明治29年勅令
第56)によって聯隊区に改組された。陸軍管区表(明治29年3月16日勅令第24号)により定
められた管轄区域は東京府の一部と埼玉県の一部で近衛師団管区に属した。この時、残りの東京府区
域は第一師団管区麻布聯隊区と同師管小笠原島警備隊区に属する。埼玉県の残り区域は第一師団管区
高崎聯隊区である。明治32年4月1日、近衛師団管区が廃止され、本郷連隊区は再び第一師団管区
に属した。明治36年1月10日司令部は庁舎模様替のため東京市小石川区小石川町の東京砲兵工廠
構内にあった陸軍砲兵工科学校内に仮移転。同年2月14日再び師団管区と連隊区の間に旅団管区が
設けられ、本郷連隊区は第一師団管区第二旅団管区に属した。明治36年3月8日司令部は庁舎工事
竣工により復帰し、9日より事務を再開した。
 大正14年4月6日、日本陸軍の第三次軍備整理に伴い陸軍管区表が改正(大正14年軍令陸第2
号)され、同年5月1日、旅団管区は廃され引き続き第一師団管区の所属となった。また管轄区域に
も、第十四師団管区第二十八旅団管区熊谷聯隊区の区域だった埼玉県大里郡と児玉軍が加えられた。
昭和16年114月1日1府県1連隊区制に伴い廃止され、以後東京府は東京聯隊区が、埼玉県は浦
和聯隊区が執り行い、敗戦と共に廃止となった。 
 


■鐙坂
 本郷4丁目20番と31番の間を南に上がっていく坂道。

   
   本郷台地から菊坂の狭い谷に向かって下り、先端が右にゆるく曲がっている坂である。名
   前の由来は「鐙の製作者の子孫が住んでいたから」(『江戸志』)とか、その形が「鐙に
   似ている」ということから名付けられた(『改撰江戸志』)などといわれている。
   この坂の上の西側一帯は上州高崎藩主大河内家松平右京亮の中屋敷で、その跡地は右京山
   と呼ばれた。
                文京区教育委員会 平成6年3月


■清和寮跡
 本郷4丁目21番2号都営住宅本郷四丁目アパートのところだ。清和寮は、昭和5年に完成した公
営住宅。男性単身者専用住宅で、耐震大火を意識した鉄筋コンクリート造4階建てで、全144室の
ほか、共同浴室、社交場などが設けられた当時としては大変にモダンなものだった。「理想的な文化
生活」を目指して、ガス暖房、ダストシュート、水洗便所等の設備か設けられた。惜しまれながら。
平成17年に取り壊され、都営住宅と老人ホームに建て替えられた。入口に取り付けられていた「清
和寮」のプレートは「ふるさと歴史館」で保存されている。
 


■清和公園・右京山
 本郷4丁目22番1号にある区立公園。戦前には既に遊び場として利用されていたが、戦災により
荒廃してしまった。近隣住民の署名運動により、

   陳情書
   一、理由 児童遊園の急速設置方について
   先般児童福祉法を制定されました。次の世代を背負います児童の保護の声は、凡く社会の
   隅々まで高らかに叫ばれています。昨年末當局の御配慮に依ります都内各所に児童遊園が
   開設されましたが、未だ此の恩恵に浴する事の出来ない不幸な児童が多々あるのでありま
   す。遊場が無いため止むなく不健康な狭い屋内にて遊び又は危険な道路上にて遊び輪禍の
   犠牲となり、幼い生命を散り果つる可憐な児童の事を考えますと、真に涙なきを得ないの
   であります。
   就きまして私共の居住します町内、文京区真砂町三十六番地内東京都立清和寮前に空地が
   あります。此の都有地を児童公園として利用、御計画方について偏へにお願申上げる次第
   であります。
   何卒当局に於かれましては、地元住民の切なる願望を御深擇相成り、右の都有地に児童公
   園の急速設置方について特別の御詮議を賜り度く地元住民連署を以て嘆願申し上げる次第
   であります。
   昭和25年11月 日
   東京都知事安井誠一郎殿


 昭和26年に東京都立公園として開園した後、同27年4月1日文京区に移管され区立公園となっ
た、同56年から57年にかけて改修を行った。

   右京山                             清和公園の上一帯
   もと上州高崎藩主(七万二千石)松平右京亮の中屋敷だった。明治維新後土地は家臣に与
   えられた。のち下真砂・春日通り沿いの地の他は、政府の所有となり、陸軍省や文部省の
   所有となった。長らくこの台地は原っぱで、子供たちのよい遊び場であった。そして右京
   亮に因んで右京山と呼ばれた。
   文部省用地は、大正11年に東京市に払い下げられた。市は住宅、独身者アパート、真砂
   小売市場(区民センター内)などを造った。
   小説『姿三四郎』(富田常雄作 昭和17年刊)中で、姿三四郎と桧垣源之助との死闘の
   場となった。また近くの、旧菊坂町時代の樋口一葉は、妹と虫の音を聞きにきた。また、
   「この夜、母君と共に右京山に烟火見る。九段の祭りにて、ここよりよく見ゆればなり」
   と明治26年5月7日の日記にある。
                  郷土愛をはぐくむ文化財   
                文京区教育委員会 昭和59年3月


■本郷四丁目児童遊園

 本郷4丁目28番13号にある区立公園。昭和46年3月23日開園。


■甘食の明月堂

 本郷4丁目37番14号、本郷通り、かねやすの本郷3丁目交差点をちょこっと北にあがった西側
にある明治25年創業の老舗パン屋。昔ながらの味が人気のシンプルなパンが並んでいる。
 「天然酵母パン」のほか、「ハムカツパン」などの調理パンも充実、「目覚ましTV」で紹介され
た記念に作ったという「目覚ましパン」というパンもある。コロッケパン、クリームパン、ジャムパ
ン、各種あんぱんもオススメ。ただし最高人気のパンは、テレビ・ラジオ・新聞・週刊誌・雑誌など
マスコミでも取り上げられ、食通岸朝子も絶賛する「甘食」に尽きよう。さらにこのパンを入れてく
れる紙袋がまたレトロでおしゃれだ。薄いマチなしの袋で両端を持って口をクルクルッっとねじって
止めただけのもの。この袋のファンも多いんだそうだ。甘食の元祖ではないが美味さはぴか一でい。
 03‐3811‐5539
 


■十一面観音菩薩坐像

 本郷4丁目37番23号の墓地の入口にある露仏。ここには戦後世田谷区給田に移転していった真
光寺という寺があり、
元は本郷4丁目2番5号、本郷薬師堂のところ(門前参道脇)の石造の台座の
上に安置されていた。蓮華台座に、「六十六部供養佛 原田了慧 當寺第四世 大阿闍梨権大僧都 
竪者法仰尚賢子具 享保五庚子歳九月日」「江戸神田鍛冶町 小林修理源義是作 鍛冶師」の紀年銘
がある。

   十一面観世音菩薩と真光寺
   元この地にあった天台宗真光寺の観音銅像(高4尺8寸)は、十一面観世音菩薩で地域に
   親しまれている。東は本郷通り、南は春日通りに囲まれ、少し奥まったところに真光寺は
   あった。藤堂高虎によって再建された寺であり、本郷薬師堂及び十一面観世音菩薩は真光
   寺境内に置かれていた。蓮華座には、
 
  江戸神田鍛冶町 小林修理源義是作 鋳物師
   と鋳物師の氏名が刻まれ、依頼主は、
   六十六部供養佛 了慧 当寺第四世 大阿闍梨権大僧都 竪者法仰尚賢子具
 
   とあり、
   享保五庚子九月日
   の紀年銘がある観世音信仰が盛んになったのは奈良時代(710~794)からである。
   温顔で自ら修行の傍ら、多くの民生を教化、救済してくれるこの像に人々の信仰が集まっ
   た。十一面観世音は本来慈悲の面を基調に、時に応じ、場に従い、さまざまな顔を使い分
   け、人々を救済してくれるため、深く信仰の対象となった。
   真光寺は太平洋戦争で焼失し、世田谷給田に移転したが、この十一面観世音菩薩は罹災を
   まぬがれ、この地に残った。
                文京区教育委員会 平成16年3月 


   一度拝んだら忘れられない、おだやかなお顔、是非御参拝下さる様御推め致します。由来
   については数々のエピソードがご座いますが、簡単に申しますと今ありますお薬師様附近
   は昔、犯罪人の処刑場、つまり首切り場で、人も恐れて近よらない淋しい荒れ寺の一部で
   ありました。夕暮れともなりますと、何十羽と言う鳥が飛んで来ては、晒し首の目玉をつ
   つき出し、それは二た目と見られぬ地獄の有様であった、と古老は伝えて居ります。此処
   に全国六十六ヶ所の霊場に観音経を奉る六十六部衆と言う組織がありました。将軍吉宗の
   頃(1720)余りのあわれさに、此の人達が近郷近在の庄屋、名主を説きふせて寄附金
   を集め、御招来申し上げたのが此の観音様で御座います。それまで人の居つかなかった此
   の地に、数年を出ずして立派な門前町が出来上り、御薬師様の繁栄と共に本郷の名物とな
   りました。
   明治維新の折、佛教を廃止して釈迦の教えを捨てよ、之を廃仏毀釈と言い、此の観音様も
   棒で叩かれたり、突かれたり、ひどい仕打ちを受けました。昭和20年終戦当時、皆様御
   存じの■論が、やはり観音さま受難の時期で、荒縄とむしろでぐるぐる巻きにされ、墓地
   に放り出される一幕もありました。然し再度に及び佛体への迫害にも、晃爾(かんじ)と
   耐えて「人々よ、人たる道誤るな、人の心を失うな、人こそ人の基なるぞ」と傷だらけの
   佛体を晒して、人心荒廃した東京の焼野原に、正しい人間の在り方を訴えかけられたのは
   此の観音様であります。其の後経済の安定と共に心ある人々相集り、仏体修復しこの地の
   鎮めとして御安座願って居ります。
   昭和57年3月吉日                        本郷薬師奉賛会


■菊坂

 本郷4丁目と5丁目の境の坂道で西北に下る道。東大構内の湧水から出た水が流れていて沢になっ
ていたところを通れるようにした坂道。菊を栽培する業者が多かったことにより、その名がある。
 喧騒の本郷通りからちょっと入るとそこは、繁華街でもなく、かといって住宅街でもない。商店と
住宅がちょうどよく混ざり合った通りは、歩いているとなんとも気持ちのよくなる不思議に懐かしい
雰囲気です。坂の傾斜もゆるやかで、場所によっては自転車にでも乗らなければ、坂ということがわ
からないかもしれません。江戸、もしくは古い東京の町並みがそこにある。
 


■金魚坂(吉田晴亮商店)

 本郷5丁目3番15号にある元禄時代創業の金魚・錦鯉の卸問屋。釣堀でもありお食事喫茶店でも
ある。黒カレーに京懐石、妙な取り合わせだがこれが名物だ。03‐3815‐7088
 


■本妙寺(明暦の大火・振袖火事の火元の汚名を被って・・・) 移転

 本郷5丁目5番一帯にあったが、明治43年に豊島区巣鴨5丁目に移転している。山号「徳栄山」
という。これは徳川家が栄えるようにとの願いで命名された。元亀二年(1571)駿河の創建と古
く、徳川家康の関東転封に伴って江戸城清水御門内清水寺跡に移転した。その後城域拡張のために飯
田町、牛込御門内、小石川へと移転させられ、最終的に寛永十三年(1636)本郷丸山に落ち着い
た。同寺では「本妙寺は火元ではない」理由として、当時幕府は元来火元に対しては厳罰を以て対処
していたが、寺には一切の「お咎め」がない。そればかりか数年後に元の場所本郷丸山に復興してい
るし、徳栄山の山号も奪われてはいない。目黒行人坂の大火の大円寺の場合は、再建が許されたのは
78年後で、しかも薩摩藩の口利きによって漸く許されたのだ。そしてなお不思議なことに、風上に
あった老中阿部忠秋家から、関東大震災に至るまでの265年に亘って毎年大火の回向供養料が届け
られ続けてきた。本妙寺は阿部家の菩提寺ではない。どうだよ。政治には裏の裏があるんだよ。
 下総関宿藩68000石久世家、和泉伯方藩13500石渡辺家、播磨福本藩10500石池田家
の墓域があり、「遠山の金さん」こと遠山左衛門尉景元、北辰一刀流開祖千葉周作成政、幕府碁所家
元本因坊家歴代、日本初の通訳森山多吉郎らの奥津城がある。
 


振袖火事の「振袖」の謂れ
 承応三年(1654)麻布の質屋遠州屋彦右衛門の一人娘梅野が母親に連れられ菩提寺の本郷本妙
寺(5丁目14~16番辺り)に詣でた帰り、浅草の観音様お参りしようと池之端で駕籠を降り(何
でこんなところで降りたんだ?)、上野山下まで来た時、ふとすれ違った美貌の寺小姓に一目惚れし
たのがそもそもの発端。梅野は親にねだり、小姓の着ていたのと同じ「畝織の紫縮緬に荒磯と菊の模
様を染め、桔梗の縫紋」を置いた振袖を拵えて貰った。娘はその振袖を抱いて妄想し密かに己を慰め
ていたが何時しか親の知るところとなり、親として健気な一人娘の恋いを何とか遂げさせてやろうと、
八方手を尽くして探したが捜しえず承応四年(1655‐明暦元年)一月十六日17歳を一期に焦が
れ死にしてしまった。補足しておくと現代と違って学校に行く訳でもないし、映画やドラマのように
娘が気軽に町を出歩くという習慣がないから、ほぼ純粋培養されてる訳で免疫も抵抗力もない。まし
ていいとこの御嬢となると出会う男は限られる。父親、兄弟、親戚、雇い人、出入りの者に、隣近所
だ。それとても現代娘のようにチャラチャラ口を利くことがないから、何ヶ月に一度の割で町に出て
ちょっと愛らしい若衆に出逢ったらボーっとするのは医学的に心理学的に当たり前だ。そして気楽に
声をかけられる理屈もなく、しかももう一度会える可能性は限りなくゼロに近ければ、当時の社会情
勢からして絶望の淵に立ったとしても無理からぬことだ。これを「恋煩い」といった。自由放任の現
代人は決して味わうことの出来ない心の働きだ。
 さて不憫な梅野の供養のためと親は彼の振袖を本妙寺に納めたが古着屋に売られ、それを買ったの
が上野山下の大松屋又蔵の17歳になる娘きので、これが奇しくも梅野の祥月命日に亡くなっちゃっ
た。再び本妙寺に納められてまたまた古着屋に売られたが、これを買った本郷元町麹商粕屋喜右衛門
の、これまた17歳になる娘いくも、明暦三年(1657)の綾野の命日に亡くなり、振袖は三度本
妙寺に納められた。度重なる因縁の余りの恐ろしさに、寺としては大施餓鬼を営んだ後に焼くことに
したが、これを知った瓦版屋が面白おかしく書き殴ったので、翌日の供養当日は早朝から人々が押し
寄せてごった返した。どうしたことかその日は強風が吹き荒れてとても火を燃すどころではなかった
が、風にたじろぐ住職が群集に煽られてとうとう火中に振袖を投じてしまった。火の付いた振袖は折
からの突風に吹き上げられて、火の粉を振り撒き散らしながら屋根より高く舞い上がり何処へとなく
消えていった。それから姑して江戸のあちこちに火の手が上がった。
 とまあ「講釈師見てきたような嘘をつき」的な物語がある。

 ところが真の火元は老中阿部忠秋の屋敷で、侍女が転んだ時に持っていた手燭から燃え広がった。
ただ老中邸から出火とあっては幕府の沽券(こけん)に関わるというので、本妙寺が承知の上で火元の
濡れ衣をかぶり、振袖の話を創作したというのが本当らしいぞ・・・
 もしかすると侍女というのも眉唾で、殿様の身内の失火か、放火かも知れない。もっと憶測するな
ら、その後の江戸改造・再開発を考えると、幕府のプロジェクトだったのかも?
 まず寺が出火元の場合、再興はまずありえないが、本妙寺は何のお咎めも受けず、数年後には再興
している。おかしいと思わないかい? そして、そして、本妙寺は阿部家の菩提寺でもないのに、阿
部家は大正12年関東大震災まで毎年供養料を納めていた。なんで?
 


明暦の大火(振袖火事)
 この当時江戸の町は、明暦二年十一月から翌三年年正月にかけて80日近くも雨が降らずカラカラ
の天気が続いていた。大火が発生した正月十八日は北西の強風が吹いて砂ぼこりが舞い上がり、人の
往来もまばらな日であったと伝えられている。現在なら異常乾燥注意報が出される状況だったのだろ
う。火災は本郷丸山の徳栄山惣持院本妙寺(文京区本郷5丁目菊坂付近。阿部屋敷はすぐ真北)から
未の刻(午後2時)ごろ発生して、湯島から神田辺りを経て八丁堀から霊厳島・佃島さらには石川島
にも及んだ。明けて十九日には火は一旦衰えたかに見えたが、北風は相変わらず強く吹き荒れた。巳
の刻(午前10時)過ぎに、今度は小石川伝通院前の新鷹匠町から出火し、前日に焼け残った水戸邸
など含む小石川一帯を焼き尽くし、さらに御濠を越えて飯田橋から江戸城本丸、吹上、二之丸、三之
丸をも焼く大火となった。夜更けてようやく火も鎮まったかと見えたのも束の間で、麹町五丁目から
再度火の手が上がり、桜田門一帯の大名屋敷や西之丸下の武家屋敷を焼き、二手に分かれた火は鉄砲
洲や芝の海浜にまで延び、江戸の町をほとんど焦土と化してしまった。これは日本の歴史上最大の都
市火災なのだ。被害は、大名屋敷500余、旗本屋敷770余、寺社350余、蔵約9000、橋6
0、町屋400余町、片町800余町,死者107046人との記録がある。この火災で江戸はガラ
リと姿を変えることになる。防災都市を目指したため、火除けの空き地や防災土手が設けられた。そ
れでその分だけ江戸の町は外に広がった。町人でも瓦屋根が奨励され、それで屋根の差が、

   本郷もかねやすまでは江戸のうち(川柳)

 という川柳に意味を持たせることになったのだ。
 


■江戸三大大火
 明暦の大火(明暦三年正月十九~二十一日)
        目黒行人坂の大火。明和九年二月二十九日)
        丙寅の大火(文化三年三月四日)


■樋口一葉の菊坂旧居跡

 本郷
4丁目31番と32番に住んだ。

   樋口一葉の菊坂旧居跡              文京区本郷4丁目31・32番
   一葉は、父の死後母妹と共に、次兄虎之助の下に身を寄せた。しかし母と虎之助の折合が
   悪く、明治23年9月、3人は旧菊坂町70番地(この道路の菊坂下道に向かって右側)
   に移ってきた。ここは安藤坂の萩の舎(一葉が14歳から没するまで通った歌塾)に近い
   所であった。
   明治25年5月には、この路地の下道に面したところ(菊坂町69番地)に移った。
   ここでの2年11ヶ月(18歳~21歳)の一葉は、母と妹の3人の戸主として、他人の
   洗濯や針仕事で生計を立てた。おそらくここにある掘抜井戸の水を汲んで使ったと思われ
   る。きびしい生活の中で、萩の舎の歌作、それに必要な古歌や古典の研究をし、上野の図
   書館にも通い続けた、そして萩の舎での姉弟子田辺花圃の影響で、小説家として立つ決意
   を固め、半井桃水に小説の手ほどきを受けた。
   明治25年3月「武蔵野」創刊号に「闇桜」が掲載された。また小説とともに貴重な日記
   はここに住んだ明治24年4月1日から書き始められている。いわばここは一葉文学発祥
   の地と考えられる。菊坂上通りに、一葉や母の通った質店が今もあり、その土蔵は一葉当
   時のものである。
              
   郷土愛をはぐくむ文化財   
                文京区教育委員会 平成12年3月
   


■宮沢賢治旧居跡

 本郷
4丁目35番4号に住んだ。大正10年3月に上京して2階6畳間を間借りて暮らしていた。

   
宮沢賢治旧居跡                      本郷4丁目35番4号
   宮沢賢治(明治29年~昭和8年)は詩人・童話作家。花巻市生まれ。大正10年1月上
   京、同年8月まで本郷菊坂町75番地稲垣方2階6畳に間借りしていた。菜食主義者で、
   馬鈴薯と水の食事が多かった。
   東京大学赤門前の文信社(現大学堂メガネ店)で謄写版刷りの筆耕や校正などで自活し、
   昼休みには街頭で日蓮宗の布教活動をした。これらの活動と平行して童話、詩歌の創作に
   専念し、1日300枚の割合で原稿を書いたといわれている。童話集『注文の多い料理店』
   に収められた「かしわばやしの夜」「どんぐりと山猫」などの主な作品はここで書かれた
   ものである。8月妹トシの肺炎悪化の知らせで急ぎ花巻に帰ることになったが、トランク
   一杯になるほど原稿が入っていたという。
               
   郷土愛をはぐくむ文化財   
                 文京区教育委員会 平成9年3月
 


■啄木赤心館

 本郷5丁目5番5号にあった下宿。明治41年に上京した石川啄木が金田一京助を頼り、同宿した
宿。啄木は赤心館で生活した4ヶ月の間に、『菊地君』『母』など小説5編を書いた。

   啄木ゆかりの 赤心館跡 オルガノ株式会社(本郷5‐5‐5)
   石川啄木(1886~1912)は、「文学の志」やみがたく、明治41年5月、北海道
   の放浪の旅をおえて上京した。啄木22歳、3度目の上京であった。上京後、金田一京助
   を頼って、ここにあった〝赤心館〟に下宿し、執筆に励んだ。赤心館の生活は4ヶ月。そ
   の間の僅か1ヶ月の間に、「菊地君」「母」「天鵞絨」など小説5編、原稿用紙にして3
   00枚にも上る作品を完成させた。しかし作品に買い手がつかず、失意と苦悩の碑が続い
   た。このような中で、数多くの優れた短歌を残した。併し収入は途絶え、下宿代にも事欠
   く日々で、金田一京助の援助で共に近くにあった下宿〝蓋平館別荘〟に移っていった。
      たわむれに母を背負いてそのあまり軽きに泣きて三歩歩まず
    文京区内の啄木ゆかりの地
    初上京の下宿跡(明治35年11月~36年3月) 音羽1‐6‐1
    再度上京の下宿跡(明治37年10月~同年11月)弥生1‐8あたり
    蓋平館別荘跡     (赤心館~明治42年6月)本郷6‐10‐12太栄館
    喜之床        (蓋平館~明治44年8月)本郷2‐38‐9アライ理髪店
    終焉の地(喜之床~明治45年4月13日)死去。小石川5‐11‐7宇津木産業
      郷土愛をはぐくむ文化財        文京区教育委員会  平成元年3月


■本郷 菊富士ホテルの跡碑

 本郷
5丁目5番16号にあった下宿。現在はオルガノ(株)の敷地となっている。美濃大垣出身の羽
根田幸之助・菊江夫妻が、明治29年に旧菊坂の長泉寺境内に下宿菊富士楼を建て、翌年開業した。
大正3年には五層楼を新築し、菊富士ホテルと改名した。しかし昭和20年愚かなアメリカ軍の空爆
により焼失、戦後復活することはなかった。ここに下宿した内外の人々は各界に亘る逸材だった。真
山青果・尾崎士郎・宇野浩二・坂口安吾・正宗白鳥・宇野千代・直木三十五・谷崎潤一郎・高田保・
広津和郎・竹久夢二・石川淳・中条百合子・高田保・広津和郎・三木清・湯浅芳子・大杉栄、月形龍
之介、高柳健次郎などなどだ。ホテルの経営者と縁続きだった近藤富枝が『本郷菊富士ホテル』に当
時の様子を詳しく書いてるよ。
 跡地に昭和52年、羽根田家により止宿者の名を刻んだ石碑が建立された。

   本郷菊富士ホテルの跡                  昭和五十二年八月吉日
                                     羽根田富士雄
                                     羽根田孝夫
                                     羽根田武夫


   明治30年岐阜県大垣出身の羽根田幸之助、菊江の両親が此の地に下宿菊富士楼を開業し
   大正3年五層楼を新築、菊富士ホテルと改名し営業を続けたが、昭和20年3月10日第
   2次大戦の戦災に依り五十年の歴史を閉じた。此の間菊富士ホテルに止宿した内外の文学
   芸術、思想、医科学、政治、経済、各界に亙り、多くの逸材を輩出、近代日本の歩みに曙
   光を放ちてその名を今日に及ぶ。この菊富士ホテルの名を永く記念する。

   主な止宿者
   石川淳 宇野浩二 宇野千代 尾崎士郎 坂口安吾 高田保 谷崎潤一郎 直木三十五
   広津和郎 正宗白鳥 真山青果 竹下夢二、三木清 中條百合子(宮本百合子) 湯浅芳
   子 大杉栄 福本和夫 伊藤野枝 三宅周太郎 兼常清佐 菅谷北斗星 下村海南 青木
   一男 小原直 月形龍之介 片岡我童 石井漠 伊藤大輔 溝口健二 高柳健次郎 エド
   モンド・ブランデン セルゲイ・エリセーエフ


■長泉寺
 本郷5丁目6番1号にある曹洞宗の寺。僧牧中(永禄三年=1560寂)を開基として、永禄三年
(1560)小石川金杉、安藤坂の近くに創立し、寛永十三年(1636)当地へ移転、僧幹遠(寛
永十六年=1639寂)が開山したという。水道橋が吉祥寺橋と呼ばれていた頃、水戸藩邸拡張のた
め、寛永12年本妙寺近くの菊屋台町に移転した。ここには水戸黄門徳川光圀が少なくとも3度は訪
れたという。当初の伽藍は光圀によって建てられたものと推定される。正徳、享保と類焼し、昭和2
0年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により山門を残し総てを焼き尽くされた。現在の本堂は
同34年に落慶し、本尊の釈迦牟尼像は、第22世住職の製作による戦後のものだ。同55年観音堂
建立。過去帳によると、江戸図に名前のある武家や典医、書家、学者など多数の記録がある。大正時
代の大関朝汐太郎の名前もある。「東京名所図会」に、

   長泉寺
   長泉寺は本郷菊坂町十五番地に在り、曹洞宗にして祝峯山と號す、小石川戸崎町祥雲寺の
   末なり。開基は僧牧中(永禄三年寂)開山は僧幹遠(寛永十六年寂)にして。永禄三年小
   石川金杉に創建し。寛永十三年此地に移轉せしといふ。
   本妙寺の前を西行すること數十歩。北に當りて山門を認む。石路以て達すべし。左右に一
   列各四株の松樹あり。門前には例に仍りて不許葷酒入山門(安永五年月舟禅師書)の石標
   を建て。門には篆字の祝峯山の題額を掲ぐ。東梟越杜多とあれば、心越の筆なり。本堂は
   南面して在り。目下修繕中に係る。
   墓域を巡検せしが、記者が注目を惹きし墳墓は左の如し。
   佐倉侯侍讀太室澁井先生墓。墓誌の終りに、友人尾張國侍讀細井徳民選とあり。紀平洲の
   文と知らる。又其の表面に左の刻文あり。此墓の由来を證すべし。
   是所建于大阪生玉玄徳寺我師太室先生墓碑之記也孤子至徳嗣禄住東都悲千里之外不能時祭
   其墓故勒其文於此石建之本郷長泉寺以為如在之位鳴呼骨肉帰復于土若魂気則無不之也神尚
   享于孝子子孫々于斯
   天明八年戌申冬十月十四日弟子清水長年謹志


 とある。寺門は「獅子吼峰」という。門前に「不許葷酒入山門」の標柱が建つ。

 
閑話休題
 金田一京助が隣の赤心館に石川啄木と住んでいたのだが、この京助先生、森川町に引っ越した後も
届けを出さなかったため、息子の春彦は名門誠之尋常小学校には行けず、真砂小学校に行く羽目に。
そんなことから菊坂界隈の友達が多く、長泉寺が行っていた子供向けの日曜講話を楽しみ、親しんだ
と自伝に書いている。幼い頃の一番の思い出は、稚児行列に参加したことだそうだ。
 


■梨木坂(梨坂)

 
本郷5丁目6番と7番の間を北に上がって行く坂道。

   梨木坂
   「梨木坂は菊坂より丸山通りなり。むかし大木の梨ありし故坂の名とす。」と『御府内備
   考』にある。また、『南向茶話』には、「戸田茂睡(江戸前期の歌学者、『紫の一本』の
   著者)という人が、この坂のあたりに住んでおり、梨本と称した」とある。
   いっぽう、江戸時代のおわり頃、この周辺は、菊の栽培が盛んで、菊畑がひろがっていた
   が、この坂のあたりから菊畑がなくなるので、「菊なし坂」といったという説もある。
   戦前まで、この近くに古いたたずまいの学生下宿が数多くあった。
                文京区教育委員会 平成18年3月


伊勢屋質店

 
本郷5丁目9番4号にある永瀬家。菊坂を上ると、程なく一葉一家が生涯通い続けたといわれてい
る質屋伊勢屋だ。万延元年に創業し、昭和57年に廃業しているが、建物はいまだに当時の面影を残
し、木造店舗跡は登録文化財として残されている。内部公開は通常行われてないが、11月23日の
一葉忌のみ一般公開される。内部は明治中期に移築された蔵や昭和初期に改築された玄関などが一階
部分と質屋台帳が公開される。通りからちょっと奥まった玄関から中に入ると右手に蔵、左側に店そ
して奥に座敷と庭という間取りになっている。店には実際に使っていたという台帳などが展示されて
いて、ボランティアの女性が伊勢屋の逸話をいろいろ語ってくれるよ。蔵と店の間にある廊下を進む
と左側に、蔵と座敷に挟まれた坪庭がある。奥まった座敷に光と風を運び入れる正に一坪ほどの狭い
空間だ。手荒い鉢と庭石、そして南天が植わっているだけの素朴な空間だが、店と蔵が暗く閉じた場
所なので、こういったちょっとした空の演出が心地いい。

   一葉ゆかりの伊勢屋質店                 本郷5丁目9番4号
   万延元年(1860)この地で創業し、昭和57年廃業した。樋口一葉と大変縁の深い質
   店であった。
   一葉の作品によると、一葉が明治23年、近くの旧菊坂町(現本郷4丁目)の貸家に母と
   妹と移り住んでから、度々この伊勢屋に通い、苦しい家計をやりくりした。明治26年下
   谷龍泉寺町に移ってからも、終焉の地(現西方1‐17‐18)にもどってからも、伊勢
   屋との縁は続いた。
   一葉が、24歳の若さで亡くなった時、伊勢屋の主人が香典を持って弔ったことは、一葉
   との繋がりの深さを物語る。店の部分は、明治40年に改築した。土蔵は、外壁を関東大
   震災後塗り直したが、内部は往時のままである。
   ~一葉の明治26年5月2日の日記から~
    此月も伊せ屋がもとに走らねば事たらず、小袖四つ、羽織二つ、一風呂敷につつみて
    ・・・ 蔵のうちにはるかくれ行ころもがへ

                  郷土愛をはぐくむ文化財   
                 文京区教育委員会 昭和63年3月
 
 


■胸突坂

 本郷5丁目9・10番と32・33番の間の坂道。菊坂通りから東に折れて上る。坂下は緩やかだ
が、途中からその名前が示すような急坂になる。坂の上部南側に旅館「鳳明館本館」がある。ちょっ
とした風情がある坂道だ。区の標識は設置されていない。文京ふるさと歴史館の「本郷界隈史跡マッ
プ」には、


   
胸突坂
   この胸突坂を含め、区内には胸突坂と呼ばれる坂道が3ヶ所あります。その一つ、西片2丁
   目と白山1丁目の間にある胸突坂については、「坂路急峻なり、因て此名を得」(『新撰東
   京名所図会』)とあり、もう一つ関口2丁目と目白台1丁目の間にある胸突坂については、
   「あまりに坂之けはしくて胸をつくばかりなれば名付といふ」(『御府内備考』)とありま
   す。本郷5丁目にある、こちらの胸突坂も、他の2つの胸突坂同様に急な傾斜の坂道です。
   坂名もやはり、その急な傾斜に由来するものでしょう。

 とある。この坂を「旧菊坂」と書いたものがあるが?・・・
 


■台町児童遊園

 本郷5丁目13番1号にある区立公園。昭和26年4月1日開園。


■第四(本妙寺)校跡

 本郷5丁目16番17号にある

   公立小学校のさきがけ
                
第四(本妙寺)校跡     本郷5‐16‐17
   明治5年近代教育の基となる「学制」が決められた。それに先立ち東京府は、明治3年6
   月市内に6つの小学校を開設した。最初の公立小学校である。その内の一校がこの地(本
   郷丸山)にあった「本妙寺」に置かれた「第四校」である。
   この小学校は、中学に進み専門学科を学ぶ者のために普通学を設けた。そのため程度も高
   く、主に漢籍を教授した。
   開校当時の生徒数は不詳であるが、職員は7名だった。
   翌4年12月、文部省直轄の「共立学校」となり、近くの麟祥院(旧龍岡門)境内に移っ
   た。今日の湯島小学校の前身である。
                 郷土愛をはぐくむ文化財  
              文京区教育委員会  平成元年11月


■近代文学発祥の地

 本郷5丁目18番2号にあるプラウド本郷の玄関前の柱に「近代文学発祥の地 本郷」というのを
含めて5枚の銅色のプレートが貼りつけられている。本郷一帯には、坪内逍遥・樋口一葉・石川啄木
・二葉亭四迷・竹久夢二等多くの文人(文豪)が住んだ。特に菊坂周辺には、明治~大正期に多くの
文人が集まった。それらの主な名前は 下記の碑文にも書かれている。
 近くの本妙寺坂にある「男女平等センター」の前には『菊坂界隈文人マップ』が掲示されていて、
これを眺めるとあまりの有名文士の名前に驚くよ。なぜ本郷が文士の町になったのか、その理由はよ
くわからないらしい。本郷には、明治10年に東京大学が設置され、周辺に多数の学生が住んだこと
が関係あろうか。結果的には多くの文士を気持ち引きつけた魅力があったんだろう。真砂坂近くにあ
る「文京ふるさと歴史館」に、「文人のまち文京」というコーナーがあって、次のように書かれてい
る。

   文京の地には、江戸時代から数多くの文人たちが暮らしてきました。江戸の文学を支えた
   文人たち、そして近代文学を発展させてきた文人たちの多くがこの地に居を構えました。
   なぜ文京の地に住んだのか、その理由は時代ごとに違うとしても、この地が時代の文化を
   支えたのは間違いありません。

 このため本郷は「近代文学発祥の地」と呼ばれることになった訳だ。

   生きのびて又夏草の目に沁みる
               秋声


   蔵のうちにはるかくれ行
          ころもがえ
            一葉


   
近代文学発祥の地 本郷
   近隣に住んだ人々
   樋口一葉  宇野浩二  石川啄木  広津和郎  坪内逍遥  伊藤野枝
   徳田秋声  高田 保  宮沢賢治  宇野千代  二葉亭四迷  尾崎士郎
   竹久夢二  宮本百合子 大杉 栄  石川 淳  谷崎潤一郎  月影竜之介
   直木三十五 坂口安吾 他

   東海の小島の磯の白砂に
    われ泣きぬれて蟹とたわむる
                啄木

   文学は藝術である
         逍遥
   


■説明板

 本郷5丁目18番2号プラウド本郷先の歩道に区の説明板が2基建ててある。

   公立小学校のさきがけ
   
第四(本妙寺)校跡              本郷5‐16‐17
   明治5年近代教育制度の基となる「学制」が決められた。それに先立ち東京府は、明治3
   年6月市内に六つの小学校を開設した。最初の公立学校である。そのうちの1校が、この
   地(本郷丸山)にあった「本妙寺」に置かれた「第四校」である。
   この小学校は、中学に進み専門学科を学ぶ者のために普通学を授けた。そのため程度も高
   く、主に漢籍を教授した。
   開校当時の生徒は不詳であるが、職員は7名であった。
   翌4年12月 文部省直轄の「共立学校」となり、近くの麟祥院(旧龍岡町)境内に移っ
   た。今日の湯島小学校の前身である。
                ‐郷土愛をはぐくむ 文化財‐
                   文京区教育委員会         平成元年11月

   
本妙寺跡と明暦の大火                文京区本郷5‐16付近
   本妙寺(現豊島区巣鴨5‐35‐6)は旧菊坂82番地(現本郷5‐16)の台地一帯に
   あった法華宗の大寺院であった。寺伝によれば寛永十三年にこの地に移ってきた。
   境内には北町奉行所〝遠山金さん〟こと遠山左衛門尉景元、幕末の剣豪千葉周や囲碁の本
   因坊歴代の墓所があった。
   明暦三年(1657)の大火〝振袖火事〟の火元とされているが原因には諸説ある。この
   大火後、幕府は防火対策を中心に都市計画を打ち出し、文京区の地域には寺社、武家屋敷
   などが多く移転してきて漸次発展してきた。
   
私立女子美術学校菊坂校舎跡
   この地に、明治42年佐藤志津校長らの尽力により、私立女子美術学校【現女子美術大学
   ・同短期大学:明治33年本郷弓町】・佐藤高等女学校【同付属高等学校・中学校:大正
   4年】の菊坂校舎が建設された。特に女子を対象とした美術教育の専門学校として、画期
   的な役割を果たしたが、さらに大規模な校地を求め、昭和10年現杉並区和田へ移転した.
                ‐郷土愛をはぐくむ 文化財‐
                   文京区教育委員会         平成12年3月


■台町第二児童遊園

 本郷5丁目18番13号にある区立公園。


■本郷五丁目児童遊園

 本郷5丁目22番14号にある区立公園。昭和47年10月4日開園。


■フィギュアスケートの花 みやた花店
 本郷5丁目23番2号にある小さな小さなフラワーショップ。この小さな町の花屋さんが、日本の
フィギュアスケート大会で、ファンがスケート選手の演技を称賛して、リンクに投げ入れる花を独占
的に一手販売している。平成6年スケート連盟から委嘱された。理由は、店の主人の友人が連盟の役
員で、プレゼントを統一する必要から花一つに絞り、頼まれたという訳だ。プレゼントは世界各国で
投込まれるが、花は日本だけだそうだ。
 花束は遠くに飛ばず、客席に落ちることが多い、みやたの花は、水に浸したスポンジが錘として付
けられており、花びらが散らないように全体を包(くる)んでいるのである。しかしそれでは地味な
のでリボンを付けている。この花束は選手が持ち帰るが、持ち帰らないものはプレゼントされる。因
みに、エフゲニー・プルシェンコは、膨大な花束を飛行機に積んでお持ち帰りしたとか。 
 花の種類は、大会毎に異なるが、1本500円、ゴールドメダリスト用は1000円、個別手渡し
用は3000円、別にメダリストブーケが納められる。1大会1200本~1300本、人気の有力
日本選手がいると5000本くらい売れるらしい。
 さぞかし儲かるだろうと思いきや、国内大会は、NHK杯と全日本選手権だけ、別に国際大会があ
っても年一回、だから店を潤すほどの儲けにはならない。年間で見ると法人売上が4割、冠婚葬祭が
3割、店頭販売が2割で、フィギュアは1割程度だとのこと。世間が興味を持つし、シーズンになる
とマスコミで報道され、宣伝効果があるので続けている。


和順山歓喜院法真寺

 本郷5丁目27番11号にある浄土宗知恩院の末寺。開創年不詳。御台所頭天野図書(法真寺殿歓
譽西喜大禅定門 寛永十年五月二十日寂)が下屋敷を寄進して開基となり、伝通院から来た栄誉専良
により開山。天保九年一月十六日に類焼し、現在の本堂は天保十年四月二十九日に上棟したものだ。
幸いなことに仏様は無事だった。関東大震災や第二次大戦ではいずれも被害を免れた。「本郷區史」に、

   法真寺
   本郷六丁目に在り、智恩院末、和順山歓喜院と號す、御臺所頭天野圖書正成(寛永十年歿)
   を開基とし僧専良(寛文四年寂)を開山とする。歌人天野葛廬(名は政徳字は其所通稱は
   圖書、大石千引門人文久元年歿七十八)の墓がある。


 とある。

 
寺号塔①
 参道入口左にある。

   浄土宗 法眞寺

   昭和卅九年七月吉日
   和順古第廿一世顯譽浩永代
             山田氏
   筏興会   那倉氏 砂川氏
    半田正義 関野氏 関口氏
    石井良頻 吉田氏
 角田氏

 
寺号塔➁
 参道入口右にある。樋口一葉の真筆「ゆく雲」の草稿が銅板に写して貼ってある。

   浄土宗 法真寺

                 長老 半田 正善
   平成元年霜月廿三日建之   総代 東原  孝
   和順古第廿一世顯譽浩永代     桜井徳太郎
                    松沢安太郎
            奉賛
(株)メモリアルアートの大野屋

 
樋口一葉ゆかりの寺
 東隣に4歳から9歳まで住んでいた。東大赤門前の入口から入っていくと、右に鉄筋コンクリート
3階建ての法真寺会館、正面に本堂、本堂の左縁に腰衣観世音菩薩立像を安置。その脇に一葉塚石塚。
その左方に山門、本堂の後ろに文京一葉会館、子安地蔵尊がある。
 東大の向かいにある寺院で樋口一葉は、幼い頃境内の隣に4歳から9歳までの5年間住んでいた。
彼女の作品「ゆく雲」の中にある〝桜木の宿〟とは法真寺のことだ。「ゆく雲」に紹介される腰衣観
音像は本堂左手に鎮座する。区の説明板が参道入口右の寺号塔の後ろにある。

   樋口一葉ゆかりの桜木の宿                 本郷5-15-11
   樋口一葉の作品「ゆく雲」の中に、次の一文がある。
   「上杉の隣家は何宗かの御梵刹さまにて、寺内広々と桃桜いろいろ植わたしたれば、此方
   の二階より見おろすに、雲は棚曳く天上界に似て、腰ごろもの観音さま 濡れ仏にておわ
   します。御肩のあたり、膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて・・・」
   文中の御梵刹がこの浄土宗法真寺で、この濡れ仏は、現在本堂横に安置されている観音様
   である。こなたの二階とは、境内のすぐ東隣にあった一葉の家である。
   樋口家は、明治9年4月この地に移り住み、明治14年までの5年間(一葉4歳~9歳)
   住んだ。樋口家にとって最も豊かで安定していた時代だった。
   一葉は、明治29年11月23日旧丸山福山町(現西方1-17-8)で短いが輝かしい生涯を
   閉じた。その直前の初夏、病床で書いた雑記の中で、この幼少期を過ごした家を「桜木の
   宿」と呼んで懐かしんだ。「桜木の宿」は法真寺に向って左手にあった。
                ‐郷土愛をはぐくむ文化財-
                   文京区教育委員会          平成13年3月


 
観音像・庚申塔・地蔵尊・石燈籠・石仏群
 参道右、法真会館の前にある。石仏群は本堂の左右にある。

 
一葉塚石標
 本堂前の水場角にある。

   
一葉塚

 
腰衣観音・石碑
 参道左手にある。

        念佛講中
   腰衣 
観世音菩薩
        八十八人


 
無麗殿
 本堂の掲額。

   無麗殿
   左少将義建 別號秉齋

 
文京一葉会館・文京一葉忌
 本堂の後ろにある区の資料館。樋口一葉が幼少期を過ごした通称「一葉桜木の宿」の隣に位置し、
一葉関係の資料を収集し展示している。現在は一葉忌のイベント時のみの公開となっているようだ。
その文京一葉忌は、毎年11月23日に催される。

 
子安地蔵・石標
 本堂の左にある。

 錦城斎典山の墓
 講釈師。初代は、天保年間(1830~44)に、釈台を前に、張扇と拍子木を両手に使用する演
出を考案したといわれる。初代桃林亭東玉と並び称され、門下から初代一竜斎貞山を出した。
 2代目は貞山の弟が襲名。
 3代目は本名青山岳次郎。5代目貞山を弟子に譲って襲名。《義士伝》《天保六花撰》《天明白浪
五人男》《みの吉殺し》など、世話物、時代物の両方に長じて近代講釈界最高の名人と謳われた。写
実的な読み口と、的確な情景描写は、同時代の俳優たちの多くにも影響を与えた。
 


■神社

 本郷5丁目27番1号、路地の奥の方にある小祠。詳細不明。


巨峰山喜福寺
 本郷5丁目29番13号にある曹洞宗の寺。開創については詳しい記録は残されていない。永正三
年(1515)北条早雲が関東管領として管区を見回り、小田原帰城のためこの堂宇に休息し、その
際発心するところがあって、侍臣の高慶を仏門に入れ、早雲の守り本尊である十一面観世音菩薩並び
に将軍地蔵尊(共に伝行基作)を本尊として自己の菩提供養を命じたことにより高慶を開基とし、初
期は天台宗として発足したのであるが、その後寛永年間(1624~1644)曹洞宗祥雲寺七世国
伝韓達和尚を迎え、開山として曹洞宗に帰属したのである。十一面観世音菩薩は江戸時代より、火伏
厄除の祈願霊場として栄え、江戸北向七観音、坂東33ヶ所観音霊場の身代わり一番、江戸33ヶ所
観音札一番等により参詣者多く、徳川二代将軍秀忠よりは領地9000坪を拝領したが、明治維新の
際、この拝領地は没収されてしまった。又、喜福寺の所在する所は、江戸城付近においては高台で鳥
獣多くすむ森林地帯であったため、太田道灌或は徳川代々の将軍が鷹狩りの陣屋を張り、太田道灌は
鳥獣供養の為に稲荷堂を建立し、福狩稲荷と命名したと伝えられている。爾来数百年、今日なお数多
くの信者がここを訪れている。『本郷區史』には以下のように記してある。

   喜福寺
   本郷六丁目に在り、小石川祥雲寺末、孤峰山と號す、入國以前の起立と傳へらる。開基僧
   高慶、勧請開山本寺七世國傳韓達(寛永十六年歿)。観音堂安置の秘佛十一面観世音は傳
   行基作、江戸三十三所第一番で北向観音と稱する。劔客藤井源左衛門、水戸彰考館總裁名
   越南渓(名は克敏通稱は十蔵、安永六年歿七十六)名越宗閑(名は時敏字は子遜、儒者享
   保元年歿、五十五)今井魯斎(儒者、那は将興通稱蔵之丞元禄二年歿、三十八)狂歌師會
   津棲持吉(通稱清水安蔵浅草の蠟燭商文政元年歿、五十四)梶荘岳(儒者、名は忠、字は
   子順、文政十一年歿、五十一)梅本樵渓(俳人月下園と號す弘化三年歿、五十四)の墓が
   ある。


 
寺号塔
 参道入口にある。

   
曹洞宗 喜福壽寺

 
観音称名伝法遺誡之碑
 本堂下一階にある。

   觀音稱名傳法遺誡之碑
   衆生無邊請願度 煩悩無盡請願斷
   法門無量請願學 仏道無上誓願成
   
文化十四年 英道雄山誌 南溪宮信子信書

 
子安地蔵・観音像
 本堂下一階にある。

 
秋外居士追悼之碑
 境内にある。和歌が書いてあるが読めない。秋外って誰?

 
追善建塀の碑
 境内にある。昭和52年10月の建碑。二人の戒名が刻んである。

 佐藤紅緑の墓
 明治~昭和時代の俳人、小説家。明治7年7月6日生まれ。サトウハチロー、佐藤愛子の父。正岡
子規に俳句を学び、明治39年小説「行火(あんか)」で認められる。のち家庭小説に転じ、「あゝ玉
杯に花うけて」「英雄行進曲」など少年少女向けの作品で人気を得た。昭和24年6月3日死去。行
年76歳。青森県出身。弘前中学中退。本名は洽六(こうろく)。作品は他に「少年讃歌」「一直線」
などがある。

 久保田万太郎の墓
 劇作家、小説家、俳人。明治22年11月7日浅草田原町に生まれる。父勘五郎、母ふさともに養
子だったが、生家は曾祖父の代から袋物製造と販売を営む商家。殆ど祖母の手で育てられ、幼い頃か
ら芝居についていった。府立三中(両国高校)を落第。両親は家業を嗣ぐように迫ったが、祖母のと
りなしで慶応義塾普通部に編入するも、ハイカラな級友になじめず、俳句に打ちこむ。祖母が両親を
説得し、大学予科に進学するが、二年の時、

   突然、〝文科〟の機構に大改革あり、森鴎外、上田敏を顧問に、永井荷風、入って、事実
   上の主任教授になり、〝三田文学〟創刊さる。・・・作家たらんとするの志漸く動く(自
   筆年譜)


 在学中
「三田文学」に発表した「朝顔」が評判になり、小説、戯曲を次々に発表する。卒業後、
理解者だった水上瀧太郎、小泉信三らが留学したために、俳句仲間と遊蕩にふける。家業が傾いたた
めの転居、妹の夭逝、祖母の病気が相次ぐが、大正6年に『末枯』を発表。その年、祖母を失い、翌
年、類焼に遭い、焼け出される。同8年から慶大講師となり、作文を教える。教え子に青柳瑞穂、石
坂洋次郎、奥野信太郎がいる。芸妓をしていた京と結婚。同12年関東大震災で焼け出され、日暮里
に転居。短い期間だが、田端に移ってきた芥川龍之介と交友を深める。同15年慶大を辞め、日本放
送協会に嘱託として勤務。後に演劇課長となる。小説は途絶え、戯曲、脚色、演出、劇評の仕事が多
くなる。昭和10年妻が急死し、放蕩を諌めていた水上瀧太郎から絶交される。同12年、文学座を
岸田國士らと共に結成。同13年日本放送協会を退職。同20年文学座で「女の一生」初演を演出。
同年、戦災に遭い、三度焼け出される。同25年後期の代表作「うしろかげ」を発表。同32年会話
体の短編「三の酉」で読売文学賞受賞。文化勲章を贈られる。同37年長年連れ添った内縁の妻を喪
う。同38年5月6日梅原龍三郎邸の美食会で赤貝を喉に詰まらせて急逝。74歳だった。

 金田一京助の墓
 言語学者、国語学者。文学博士、学士院会員。盛岡市四ッ家町に生まれ、二高を経て明治40年東
京帝国大学文科大学言語学科卒業。昭和3年東京帝大助教授、同17年同教授,同18年定年退官。
その後、国学院大学教授、日本言語学会副会長、国立国語研究所評議員、国語審議会副会長などを務
めた。大学在学の当時からアイヌ語の研究を始め、しばしば北海道、サハリン(樺太)に実地踏査し、
或いはアイヌ人を自宅に招いて、口承文学作品の筆録と研究に務め、その言語の言語学的研究を行っ
た。春彦は息子で言語学者。孫の真澄はロシア語学者(慶大教授)、秀穂は国語学者(杏林大教授)

 生掛持吉の歌碑
 きがきもちよし。江戸時代後期の狂歌師。明和六年生まれ。江戸神田明神下の蝋燭商。石川雅望に
入門し、五側の1人として、鹿都部真顔(しかつべのまがお)の四方側(よもがわ)と対抗した。文
政元年十月十二日死去。50歳。遠江(静岡県)出身。姓は清水。名は竹雅。通称は安蔵。屋号は竹
島屋。別号に会津楼。

 福狩稲荷神社
 本堂裏にある小祠。


■本郷郵便局

 本郷6丁目1番15号にある。
 


■井上書店

 本郷6丁目2番8号にある古書店。明治16年創業。明治から大正の頃は本郷菊坂で営業。昭和7
年東京帝国大学正門前(現在地)に移転。現当主は4代目。なお来歴については「井上書店の記 ―
井上喜多郎小伝―」(定価4200円)がある。「古典籍全般」と「東洋医学・本草・自然科学・洋
学特輯」。生物学関係目録(動物学・植物学・農林水産学・地学・他)を随時発行している。
 


■東京大学戦没同窓生の碑

 本郷6丁目2番10号、東大正門前のマンションモンテベルテ東大前入口脇に建ててある。何でこ
んなところに建ててあるのかってか? 東京大学は頭の固い学校だろう? 愛情に疎いのよ。教授会
は戦没したこと自体、恥晒しと思ってるんだ。堂々と、権力のご都合で殺されていった仲間のことを
思えよ。精神性の低い野郎どもだ。

   東京大学戦没同窓生之碑
   
天上大風

 脇の壁に銅板の説明碑が貼ってある。

   東京大学戦没同窓生の碑
   昭和6年から昭和20年まで15年(満州事変、日中戦争、太平洋戦争)で東京大学も多
   数の戦没者を出したが、戦後50年のあいだその実数は不明のままであった。このたび大
   学による学徒出陣の調査が行われ、千七百人近い戦没者が明らかになったが、その実数は
   二千五百人にも達すると推定されている。
   私たち医学部卒業生有志はこの事実に驚き、悲しみ、世紀が変わる前に追悼の碑を建てて
   この事実れを後世に伝えるべく、追悼基金を組織した。
   この「東京大学戦没同窓生之碑」は、大学正門前のこの地にお住みの方々から温かいお心
   をいただいて建立が可能になり、同窓生あい集まって建立するものである。
   「避けがたい状況下に、愛する人々のために一命を捧げた」若者たちのいたましくも哀し
   い事実を歴史に刻む碑であって、戦没同窓生への思いを「天上大風」という良寛の言葉に
   託した。
   今世紀最後の東京大学五月祭初日の今日、ここに同志あい集ってこの碑を建立し、音楽と
   花を捧げて深い哀悼を世に伝えるものである。         平成12年5月27日
                       
東京大学医学部戦没同窓生追悼基金


■日本福音ルーテル本郷教会

 本郷6丁目5番13号にある。詳細不明。 


■徳田秋声宅

 本郷6丁目6番9号にあり、現在も遺族が住んでいる。しかしもう草臥れてる。秋声は石川県金沢
生まれ。本名は末雄。尾崎紅葉の門に入り『藪柑子』を発表し、柳川春葉、泉鏡花らとともに「葉門の
四天王」といわれた。明治36年表町に一戸を構え、同38年森川町のここに移った。地味な作風の
内自然主義作家の代表者となり、『新所帯』『黴』『足迹』『爛』や『あらくれ』などを発表、未完
の名作といわれる『縮図』を最後に、昭和18年11月18日72歳で没した。38年間この家に住
み、代表作は皆ここで書かれた。旧書斎、離れの書斎など昔のままで、日常愛用の蔵書・調度品・日
記・原稿などの遺品も数多く保存されている。

   都史跡 徳田秋声旧宅             所在 文京区本郷六丁目六番九号
                           
 指定 昭和39年4月28日
   秋声(1871~1943)は石川県に生まれ、尾崎紅葉に学び「藪柑子」発表以来覘友
   社の四天王の一人といわれた。明治36年表町(文京区)に一戸を構え、同38年この地
   森川町に移った。地味な作風のうちに自然主義作家の代表者とみられ「新世帯」「足跡」
   「黴」「爛」「あらくれ」「仮装人物」などの代表作を発表。未完の名作「縮図」を最後
   に昭和18年11月18日、73歳で歿した。秋声は歿するまでこの家に居住し、代表作
   はみなこの家で書かれ、かれの本格的創作活動はここで行われた。旧書斎および離れの書
   斎は全体的にかなり老朽化しつつも、なお昔のおもかげがよく保存それており、日常愛用
   の蔵書、調度品、日記、原稿など、遺品もよく保存されている。
   指定地域面積は約445.5平方メートル。
   昭和43年10月1日建設                    東京都教育委員会


■森川町児童遊園

 本郷6丁目10番7号にある区立公園。昭和43年9月10日開園。


■下宿蓋平館 → 旅館太栄館
 本郷6丁目10番12号にあった。これは石川啄木ゆかりの下宿屋だ。昭和10年頃太栄館と改名
し現在に至っている。建物は昭和29年火災により焼失して再建したもの。入口脇に啄木の歌碑があ
る。現在は旅館を経営している。


 
石川啄木の歌碑
 赤心館時代に作った『一握の砂』の句が刻んである。

   東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたわむる
 


■清水橋

 本郷6丁目12番・21番と西片1・2丁目の境を結ぶ陸橋。昔は清水が流れていたのでその名が
あるが、流れが途絶えて以後は「空橋」とも呼ばれるようになった。
  


■本郷カトリックセンター・イエズス会修道院

 本郷6丁目15番2号にあるカトリック教会。

 イエズス会 と 属国ニッポン
 「イエズス」とは「イエス」のラテン語読みで、キリスト教、カトリックの男子修道会だ。宗教改
革以来、会員は「教皇の精鋭部隊」とも呼ばれた。このような軍隊的な呼び名は創立者イグナチオ・
デ・ロヨラが修道生活に入る以前に騎士であり、長く軍隊で過ごしたことによる。現代では6大陸の
112ヶ国に約20000人の会員がいる。これはカトリック教会の男子修道会としては最大のもの
だ。イエズス会員の主な活動は高等教育と研究活動といった教育活動であり、宣教事業や社会正義事
業と並んで活動の3本柱となっている。イエズス会の保護者は聖母マリアの数ある称号の一つである
「道の聖母」。イエズス会の指導者は終身制で総長とよばれる。会の総本部はローマにあり、かつて
本部がおかれていたジェス教会は歴史的建築物となっている。略称はS.J.(Society of Jesus)。
中国や日本では「イエス」の漢訳が耶穌であることから「耶蘇会」とも呼ばれた。
 戦闘部隊であるということは、異教徒を圧倒殲滅するか、謀略を以て転覆する。マルコ・ポーロが
「東方見聞録」を著わしたことで、ローマ人は日本を「黄金の国」と勘違いしちゃった。それは平泉
の金色堂や京都の鹿苑寺金閣のことを、日本の家屋は全部黄金で葺かれていると錯覚したんだね。そ
れでイエズス会は日本占領を目論んでフランシスコ・ザビエルを送り込んできた。彼らは死の商人、
鉄炮を持って来た。戦国大名たちは先を争った。しかし弾がなくては戦は出来ない。弾の原料は硝石
だ。大名たちは買い漁った。対価は、金は流石に無いので、銀や銅で支払った。それも尽きると、大
名は支配領民の娘となった。イエズス会は50万人もの日本娘をローマに連れて行き売春婦とした。
このことは「天正の少年使節」が報告している。
 豊臣秀吉や家康が「キリシタン禁止令」を発し、鎖国してイエズス会を締め出したかというと、硝
石の対価として日本の土地を手にしたからだ。鎖国とは「もう硝石は要らないから出て行け!」とい
うことなのだ。イエズス会は日本占領に失敗した。彼らは300年を待つことになる。
 幕末に至って日本に騒動が生じた時、彼らは絶好のチャンス到来と、反幕勢力に革命資金を投入す
る。これがロスチャイルドのユダヤ資本だ。勤皇の志士たちはフリーメイソンに操られるところとな
る。坂本龍然りだ。アーネスト・サトー、グラバーはフリーメーソンだ。勤皇の志士たちの多くはそ
の手先となる。それが明治維新だ。フリーメーソンは長州藩に孝明天皇弑逆を示嗾した。アーネスト
・サトーは横浜で西郷隆盛と会い江戸無欠開城を命じている。
 イエズス会が400年の夢を達成するのは第2次世界大戦だ。とうとう日本を占領し、アメリカを
通じて属国とした。憐れな日本人は騙されたことに気がつかない。脱原発だと! 国際ユダヤ資本の
金蔓の原発を日本が捨て去ることができる訳ねえだろ。属国なんだから・・・
 ユダヤ国際資本(ロスチャイルド)、黒い貴族、イエズス会、オプスデイ、イルミナティ、フリー
メイソンリー、SWC(サイモン・ヴィーゼンタール・センター)、スカルアンドボーンズ、300
人委員会と、秘密結社が日本の隅から隅までを監視している。総理大臣なんて、奴らの指令で決まる
のさ。総理大臣が辞めるも居座るのも総て奴ら次第。
 


■万定フルーツパーラー

 本郷6丁目17番1号にある喫茶食堂。東大に馴染み深い。東大正門前でヨーロッパ調の装飾が施
された石造りの建物。昭和3年に建築されたというレトロな佇まいは、まるで時間が止まっているか
のようだ。ここは、創業当時から東大の教授たちが集う〝喫茶サロン〟として親しまれてきた。
 「万定」といえば、看板メニューである「カレー」が有名だが、何故〝フルーツパーラー〟なの?
元々は初代が果物屋を営み、東大病院に見舞いに訪れる人のために果物を売っていたそうだ。その頃
偶さかコーヒー変わりにフルーツを食べさせる〝フルーツパーラー〟という店が流行。それに合わせ
てこの喫茶店は始まった。当時のハイカラぶりは、50年以上の時を経た今でもそのまま残る。初代
が気に入って購入したというアメリカ製のレジスターは、家一軒が建つ程の値段がしたのだとか。本
来ならば、博物館で展示されるような貴重なものが、ここでは当たり前のように日常的に使われてい
る。しかし「1500円」とは打てず、「1円50銭」と打って対応している。他にも、手が届かな
い位大きなコーヒーメーカーに、昔ながらの扇風機など、昭和の時間がそのまま流れている。
 名物の「カレーライス」は、昭和30年代から変わらずに愛されてきた素朴な味だ。創業当時から
ある天然手絞りジュースも一品だ。
 


■柳澤書店

 本郷6丁目18番12号にある古書店。昭和6年開店。新刊書と古本の両方取り扱っている、主に
理工・人文科学の学術書を扱っている。建物は、明治38年に建てられたもので、明治中期の商家の
姿を残しているとして、文化庁の有形登録文化財に指定されている。初めは貸家として建てられたと
いう。明治~昭和初期まで、東京は貸家がとても多かった。夏目漱石も本郷の貸家を幾つか移り住ん
でいる。書棚は昭和6年開店当時の物だとか。


■下宿屋本郷館 
解体
 本郷6丁目20番3号にある。明治38年の建築、木造3階建て。延べ1422㎡の共同住宅で、
現存するものとしては他に類を見ない。現在もアパート・学生下宿として使われており、空き待ち状
態で、猛烈な人気なのだ。その壮観さに圧倒されるぞ。当時本郷一帯は大学を中心にして教授・学生
や文化人が多く住み、学生向きの下宿があちこちに建てられていた。今も旅館が目に付くが、往時の
「下宿」から変わったものが多いとか。明治26年頃、当時の東京15区には、下宿が約2000軒
ほどあって、本郷には約370軒が集中していた。このようにして「森川町界隈」には明治の文化人
が多く住み、淡島寒月・堀柴山・尾崎紅葉・島崎藤村・幸徳秋水・志賀重昂・斎藤緑雨・宮崎湖処子
・田岡嶺雲・石川啄木・二葉亭四迷・生田長江などの名が上げられ、さらに書生としてこの町で下宿
生活をして、後に大成する人に至っては枚挙に暇なく、現在も続いている。

 取り壊し騒動 → 解体 → マンション
 東大の下宿としては原形ともいえる明治時代そのままの佇まいを残す本郷館は、老朽化で取り壊し
の噂が何度も立ったものの、建物の価値の高さから取り壊し反対運動が巻き起こっており、家主と住
人との間で立ち退きを巡って裁判が起きているそうだ。
 明治期、東京大学の置かれた本郷は、多くの大学があった神田神保町界隈と並び二大下宿街となっ
ていた。そんな本郷の東大正門に程近い岡崎藩の江戸屋敷跡地に本郷館が建造されたのは明治38年
多い需要を当て込む形で作られた木造3階建て、部屋数76という当時としても珍しい巨大な木造建
築物だった。その後、「放浪記」の林芙美子などの著名人を含む多くの学生たちが下宿し、21世紀
のつい最近まで現役だった。
 平成21年に住人側が敗訴し強制執行が行われた。同22年には「新建築家技術者集団東京支部」
「日本建築学会関東支部」「木の建築フォラム」「本郷館を考える会」といった組織が保存活用を要
望したが受け入れられず、同23年7月末日を以て解体。跡地には同名の集合住宅が建設された。
 


■求道会館

 本郷6丁目20番5号にある。仏教界の刷新を志し欧州の宗教事情をつぶさに経験してきた若き日
の近角常観(ちかずみじょうかん)の注文に基づき、新進気鋭の建築家として全く同時期にヨーロッ
パ近代建築の新潮流を学び、日本への定着を試みてきた武田五一が12年に亘る設計期間の末に生み
出したものだ。近角は、この建築のさらに10年後、老朽化した木造の求道学舎の建て替えも、同じ
く武田に依頼し、近代建築による欧州形式の寄宿舎(現在は閉鎖中)を作り、この建物に調和した宗
教空間を作り出している。
 昭和16年に常観が没したあと、弟の常音がその活動を受け継いだ。そして常音が昭和28年に亡
くなったあと会館は長く閉鎖されることになった。平成6年に東京都の有形文化財に指定され、平成
8年から6年間修復工事が行なわれ、平成14年6月にオープンした。


   屋根は二重野地(木造+センチュリーボード)ガムロンシート防水
   石綿スレート菱葺一部銅板葺 外壁はモルタル塗一部煉瓦
   正面ファサード・玄関ポーチはタイル貼(備前伊部) 一部洗い出しモルタル
   笠石は特殊コンクリート(フェロコンクリート)

 ●
近角常観
 明治3年滋賀県生まれ。浄土真宗大谷派の僧侶で、親鸞聖人の信仰を伝える歎異抄を原点に据え、
悩み煩悶する人間が絶対他力によって救済されることを自らの入信体験を基に繰返し説き、仏教界の
みならず幅広く同時代の知識人に大きな影響を与えた。 近角は若き日の欧州留学の体験を踏まえ、
青年学生と起居を共にして自らの信仰体験を語り継ぐ場として求道学舎を本郷のこの地に開き、明治
35年から昭和16年に没するまで、その経営に心血を注いだ。また広く公衆に向けて信仰を説く場
として、大正4年にこの求道会館を建立。その壇上から有縁のものへ語りかけると共に、広く社会に
対して仏教の有るべき姿を訴えた。その主張は政教分離の立場から国家による宗教管理とともに教団
の政治参画にも強く反対し、宗教界の自立性の喪失に警鐘を鳴らし近代仏教の確立に大きく貢献した。
 

 
武田五一
 明治5年広島県福山生まれの建築家で、ヨーロッパの新しい芸術運動であるアーツアンドクラフト
やゼセッション運動の日本への紹介者として、また京都大学建築学科の創設者として著名。武田は所
謂プロフェッサー・アーキテクトであり、建築家としての実践活動の他、教育活動や文化財修復、そ
の他様々な委員の委嘱を受け多方面で活躍した。世代としては明治期の建築家の第二世代に属し、ヨ
ーロッパ様式主義一辺倒であった当時の建築界に近代建築の新風を吹込む一方で、日本建築の良さを
大切にした世代の1人だった。
 武田の作品は京都大学に奉職する時期を境に前期と後期に区分できる。前期には、我が国最初のゼ
セッション(ウィーンの分離派の新様式)建築と云われる「福島行信邸」「名和昆虫研究所記念昆虫
館」「京都府記念図書館、山口県庁舎などがある。後期には「東方文化学院京都研究所」「同志社女
学校栄光館」「京都銀行集会所」などがある。
 求道会館は前期の終わり頃の代表作の一つで、若い頃から関心の深かった日本建築の伝統を自作に
意図的に盛り込むようになった時期の作品。武田が最も円熟し、自在に筆を振るっていた時期の、武
田らしさが良く出ている作品と言われている。晩年は
様々な要職にあり、多忙のためか、後期の作品
には作風に一貫したものが薄れて行く傾向にあるともいわれ、求道会館は武田が最も円熟し、自在に
筆を振るっていた時期の、武田らしさが良く出ている作品といわれている。

 浩々洞発祥之地

 求道会館に向かって左側の隅に石碑と説明板が建っている。浩々洞は、清沢満之によって開かれた
修養所。清沢は浄土真宗大谷派の僧で、東大で宗教哲学を専攻し宗門の改革を唱えた。明治33年こ
の地に暁烏敏ら若い学徒数名と共に共同生活を送り、これが「浩々洞」と呼ばれた。雑誌『精神界』
を発刊するなどの活動を行い、創造的な人間の文化を築こうとした。明治34年真宗大学(大谷大学)
が東京に開設されると初代学長(学監)となった。 


   
「浩々洞発祥之地」記念碑
   明治中期、近角常観師の活躍に対して、当時の東本願寺新法主大谷光演(彰如)師が、こ
   の地(本郷森川町)を贈られた。その後常観師が本山の命で西洋事情視察に渡欧すること
   になり、折しも新法主教育と、かねての悲願であった真宗大学東京移転を実現するために、
   東京にでた清沢満之師は、ここを借りて生活を始められた。(明治32年6月 満之37
   歳)。そこに、学生が寄宿して「浩々洞」という名の共同体が生まれたのである(明治3
   3年)。そこから、雑誌『精神界』が発刊された(明治34年1月)。常観師が帰国され
   て(同年6月)、浩々洞は本郷東片町へ移転したのだが、この地が浩々洞発祥の記念すべ
   き地なのである。
   平成14年6月 建之
 


■木下正中邸跡(鳳鳴館森川別館)

 本郷6丁目23番5号の鳳鳴館森川別館があるところだ。正中は明治~昭和時代の産婦人科学者。
明治2年8月19日生まれ。木下東作の兄。同30年ドイツに留学。府立大阪医学校(阪大の前身)
医科婦人科長を経て、同37年母校東京帝大教授。大正7年財団法人賛育会を設立し、母性保護事業
に務めた。昭和27年1月1日死去。82歳。若狭(福井県)出身。著作に「産婆学講義」がある。
 


 
■柴善書店
 本郷6丁目24番10号にある古書店。医学・薬学などの和雑誌のバックナンバー専門店。大正5
年創業。
 


■本郷小学校跡・第四中学校跡

 本郷7丁目1番2号、本富士警察署の裏手の空地がそうだ。

 
本郷尋常小学校 廃校
 明治8年「第四中学区公立小学本郷学校」として認可され、翌年1月20日4番目の学校として本
郷元町2丁目60番地に開校した。あの樋口一葉も、開校の翌年の短期間、在校したことがある。同
15年火事に遭い、本郷元町1丁目3番に仮校舎を建てて移り、同16年本郷本富士町3番地に移転
した。同35年在校生1200名に達し、大正元年隣接する帝国大学(東京大学)の一部を購入して
校舎を増築したが、昭和20年3月の、愚かなアメリカ軍の無差別空爆により全焼、町そのものが壊
滅して児童が激減したため、同21年度を以て廃校となった。

 
第四中学校
 統廃合
 昭和22年5月1日元町小学校内に開校、同23年湯島小学校内に移転、同25年校歌制定。

 校歌「
気高き姿」 作詞・伊藤竜夫  作曲・池田正義
  1.気高き姿 深山路の
    御前橘 胸に咲き
    清く明るく逞しく
    若い力ぞ 未知溢る
  2.
(不明)
  3.自由の光 射す所
    尽きぬ命の流れあり
    平和求むる若人の
    理想は高く天翔ける


 同27年本郷小学校跡地に、区内で初めての3階建て鉄筋コンクリート校舎が完成したため再移転
して安住の地を得た。同29年第一期増築。同31年第2期増築。同32年第3期増築。創立10周
年記念式典。同35年第4期増築・体育館完成。同38年プール完成。同42年校旗制定。湯島神社
にて入魂式。東大との境界塀設置。創立20周年記念式典。同43年完全給食開始。同45年体育館
増築・プール浄化装置取付。同47年防音工事・校舎外面塗装・窓サッシュ化。同48年創立25周
年記念式典。校庭舗装。同49年防災用井戸掘削。同52年創立30周年記念式典。同62年創立4
0周年記念式典。平成9年創立50周年記念式典。しかし学区の商業地化により住民が減り、従って
就学生徒も減り、同10年廃校となり、第二中学校と統合して、本郷台中学校となりバトンタッチし
た。
 跡地は更地のままで未利用。壁面に説明のプレートが貼り付けてある。

   本郷小学校跡
   明治8年6月、本郷小学校は、「第四中学区公立小学本郷学校」として認可され、翌9年
   1月20日開校式を挙げた。文京区内の公立小学校では、4番目の設立である。
   場所は、旧本郷元町2丁目60番地で、開校当時はわずかに教室7、職員3名、児童30
   名であった。女流作家樋口一葉が短期間入学したのは、開校の翌年の3月であった。
   明治15年2月火災により類焼し、校舎焼失。応急措置として仮校舎を旧元町1丁目3番
   地に建て、授業を開始した。翌16年2月、旧本郷本富士町3番地の東京府有地251坪
   (約828平方米)に、23教室を新築してここに移った。その後しばしば敷地の拡張、
   校舎の増築を行い、明治35年には、在籍児童1200名、職員24名、書記1名を有す
   る大規模校となった。
   大正元年、帝国大学敷地の一部148坪(約488平方米)を買収して、同2年校舎の大
   改築を行ったが、その校舎は、昭和20年3月の大空襲により全焼した。昭和21年3月
   31日廃校となり、71年間の歴史を閉じた。
   教育内容も充実し、多くの人材を養成した名門本郷小学校は、今はなく、ここに残るもの
   はわずかに、左手のレンガ造りの塀だけである。
   跡地に、旧区立第四中学校の校舎が完成したのは、昭和27年10月である。


   
文京区立第四中学校跡                     本郷7-1-2
   区立第四中学校は、戦後の6・3制発足により昭和22年5月1日、当時の元町小学校内
   に開校し、翌23年湯島小学校内に移転した。
   昭和27年10月、現在地「旧本郷小学校跡」の区立中学校として最初の鉄筋3階建て新
   校舎に移転した。けだかきすがたみ山路のごぜんたちばな胸に咲き」で始まる校歌・校章
   のゴゼンタチバナは、高山の厳しい自然にもめげず、気品高く清潔感に溢れるという意味
   を持った高山植物の花、そのような生徒に育ってほしいという地域や保護者、教職員の願
   いのもと、平成9年度までに7642名の卒業生を送り出した。平成10年3月、年少人
   口の減少に伴う文京区立小・中学校第一次適正配置計画により、第四中学校は、区立第二
   中学校と統合し、50年の歴史に幕を閉じ、その歴史と伝統は、平成10年4月に開校し
   た本郷台中学校に引き継がれている。
                 ━郷土愛をはぐくむ文化財━
               文京区教育委員会 平成12年3月 



■総合体育館火災

 本郷7丁目1番2号にある区立総合体育館で起きた火事。平成26年11月13日午前9時53分
頃出火、黒煙が立ち上がり、スカイツリーからも望見できた。屋上の10㎡を焼いて鎮火した。
東京大学の直近、東大病院への通路のため混乱したが、本郷消防署が隣にあり消火には幸いした。


■本富士警察署

 本郷7丁目1番7号にある。


■本郷消防署

 本郷7丁目1番11号にある。
 


■稲荷神社・本郷七丁目遊び場
 本郷7丁目2番6号にある小社。僅かな境内が区の小公園になっているが、子供はこんなところで
遊ばないだろう。それに見た目汚い。平成3年4月1日開園。


■文光堂
 本郷7丁目2番7号にある書店。明治25年浅井光之助が本郷区富士町(現在地)に書店を創業。
主に医学・看護学領域の学術専門書を出版。


■吉川弘文館
 本郷7丁目2番8号にある老舗の日本史関連出版社。安政四年(1857)吉川半七が設立した。
創業者吉川半七は天保十年(1839)に近江国(滋賀県)で生まれ、日本橋蛎殻町の書肆若林屋喜
兵衛に奉公。安政四年19歳で独立し、自営を許されて書物の仲買を始める。文久3年(1863)
には長姉の婚家で麹町の貸本屋近江屋を継ぎ、近江屋吉川半七を名乗った。元治元年(1864)江
戸・京坂を往来して書籍の交易を行う。
 明治3年京橋南伝馬町(中央区京橋一丁目)の表通りに新店舗(吉川書房)を開く。扱った書物は
新時代の要望に応え、和漢書のほか、福澤諭吉・中村正直等の西洋文化の翻訳類も数多く取り揃え、
特に上方版の常備販売は他店の追随を許さぬものがあった。明治5年には、吉川書房の階上に「貸本
屋」の大革新を試み、有料(1時間半銭)の書物展覧所を設け、広く内外の書籍を集めて公開し「来
読貸観所」と称した。大槻如電は「日本における図書館の濫觴なり」と称賛している(同9年11月
火災により閉鎖)。同10年頃より出版を兼業し、初め「文玉圃」「近江屋」等の号も用いたが、多
くは「吉川半七」の個人名をもって発行所とした。同12年には内閣書記官岡三橋(守節・書家)の
む推挙により宮内庁御用書肆となり、『萬葉集古義』『幼学綱要』『婦女鑑』等、多数の宮内省蔵版
の出版を引き受け、同20年頃より、時代の趨勢を鑑み出版に専業し専ら学術書の刊行に従事した。
 同33年「弘文館」の商号を建て、大部な叢書の発行予約出版を行う。同35年吉川半七が63歳
で死去。二代目吉川半七が明治37年資本金10万円で合資会社吉川弘文館を設立。同38年国書刊
行会の編輯所を吉川弘文館倉庫の2階に置き、この年から発行した刊行会本(国書刊行会叢書)の印
刷・配本を引き受け、大正11年までに全8期、57部、260冊を刊行。同12年関東大震災によ
り店舗や資料を全て焼失。昭和4年『新訂増補国史大系』の刊行を開始し、同18年太平洋戦争中の
「出版事業令」により、企業合同を行い一時事業を休止。この年までに国史大系58冊を刊行した。
 戦時中の休業を経て、昭和24年5月7日吉川圭三ほか3人が出資し、新生の「株式会社吉川弘文
館」として再発足し、現在に至っている。


■本富士(富士神社跡)
 本郷7丁目2~3番の辺りにあったが、加賀藩上屋敷の設置のため上げ地となり、本駒込5丁目7
番の現在地に移転させられた。この辺りを本富士町といったのはそのためだ。昭和39年まで赤門の
内側右手に「富士山」と呼ばれた小山があった。経済学部のところだ。
 


 ■東京大学
 本郷7丁目3番1号に本部を置く国立大学。明治政府(大久保利通)が、明治政府の運営に都合の
いい国家主義官僚を拵えるのを目的とした明治政府直轄の国営大学、蓋し我も我もと頭自慢の人材が
集まって、日本の発展に多大の寄与はしたが、同時に天上天下唯我独尊的な狭量な人材も法学部から
排出したため、官僚主義という大久保イズムをも共有し、農林水産・農政事務所、厚生労働・社会保
険庁、国土交通、経済産業、財務の各省庁に見られるような弊害も多々生み出している。上級職国家
公務員の数は他大学を圧倒する。「東大法学部」といえば、日本の頭脳であると同時に、支配機構そ
のものだから、仲間意識が強くて、政・財・官・学・医・法・警を握っちゃってるから何人も逆らえ
ない。最近では芸能界まで蚕食し始めている。明治維新以来東大閥は日本を牛耳ってきた。従って日
本の未来図は、彼らの頭の中の未来想像図であって、果たしてそれが国民にとってよりよい未来想像
図であるかどうかは判らない。さらに彼らは国民への気配りなどはしない人種で、自分の世界だけで
閉じ籠もって生きて行くし、己の理想だけを国民に強制する。だから光クラブ事件の山崎晃嗣、1億
円公金押領事件の多久島貞信、撚糸工連の高沢信行課長、リクルート事件の加藤孝(労働事務次官)
・高石邦夫(文部事務次官)・江副浩正社長、エイズ汚職次官の岡光序治(厚生事務次官)、泉井接
待汚職事件の牧野力(通産事務次官)、関空汚職事件の服部経治(運輸事務次官)、ライブドア事件
の堀江貴文、村上ファンド事件の村上世彰、防衛省汚職事件の守屋武昌(防衛事務次官)らが排出さ
れるのは当然の帰結なのだ。これらの経済犯罪は、東大生しか引き起こさない事件なのだが、必ず裏
に大きな先輩のグループが介在していて、彼らに官憲の手が及ぶことはない。これが困ったもので、
もし東大卒官僚が正義に目覚めたら、どれほども素晴らしい日本国家が出来上がるだろう。だからこ
の東大閥を打破できなければ、国民はまたぞろ戦前と同じ不幸な轍を二度も三度踏むことになるだろ
う。日本国民は必ずもう一度戦争に巻き込まれて地獄を見る。
                      *
 本郷キャンパスの他に、駒場(目黒区)、柏(千葉県柏市)、白金(港区)、中野(中野区)のキャ
ンパスがある。大学は、法学部・医学部・工学部・文学部・理学部・農学部・経済学部・教養学部・
教育学部・薬学部の10学部、大学院は人文社会系研究科・教育学研究科・法学政治学研究科・経済
学研究科・総合文化研究科・理学系研究科・工学系研究科・農学生命科学研究科・医学系研究科・薬
学系研究科・数理科学研究科・新領域創成科学研究科・情報理工学系研究科・情報学環学際情報学府
・公共政策大学院。
 欠落しているのは海外学で、その権威たる拓殖大学の国立化、取り込みを画策しているとの噂があ
る。それは東大というより、国家権力の願望だとか? だから拓大の大学院生は9割以上が東大卒業
生で占められている。

 
歩み
 [江戸時代~明治・大正]

 ①.貞享元年(1684)幕府天文方→安政四年(1857)番所調所→文久二年(1862)洋
書調所(千代田区神田錦町‐東京大学発祥の地碑がある)→文久三年(1863)開成所→明治元年
開成学校→同2年大学南校→同5年第一大学区第一番中学→同6年開成学校→同7年東京開成学校と
なる。
 ②.安政五年(1858)お玉ヶ池種痘所(民間施設)→万延元年(1860)幕府施設に移管→
文久元年(1861)西洋医学所→文久三年(1863)医学所→明治1年医学校→同2年大学東校
→同5年第一大学区医学校→同7年東京医学校となる。
 ③.寛政九年(1797)昌平坂学問所→明治2年昌平学校→同年大学本校→同3年休校→同4年
廃校となったため組織的に直接の繋がりはない。しかし蔵書資料など学校そのものは東京大学に引き
継がれた。
 明治10年東京開成学校と東京医学校を合併し「東京大学」を創設(法・理・文・医)。東京大学
予備門を付属。同11年文部省学位(学士号)授与権を認可される。同12年学士号を法学士・理学
士・文学士・医学士・製薬士とする。同13年法理文の3学部に「学士研究科」を設置(大学院の前
身)。同14年東京大学職制を制定(東京大学に総理を置き、4学部と予備門を統括)。同17年大
学副総理を置く。神田から本郷元富士町(現在地)に移転。同18年東京法学校を法学部に統合。工
芸学部設置(理学部より分割)。同19年工部大学校併合し、帝国大学令により「帝國大學」と改称。
法・医・工・文・理の5分科大学と大学院を設置。同20年分科大学卒業生に授与する学士号は称号
とし法学士・医学士・薬学士・工学士・文学士・理学士とする。同21年「東京天文台」を設置。東
京農林学校を併合し、「農科大学」を設置。同30年京都帝國大學の設置に伴い「東京帝國大學」と
改称。
 大正5年「伝染病研究所」を設置。同8年分科大学制を廃し学部を設置。経済学部新設。(法・理
・文・医・工・農・経)。同10年修学年度を4月1日~翌年3月31日とする。「航空研究所」設
置。同14年「地震研究所」設置。

 [関東大震災]
 深刻な震災被害は本郷の東京帝国大学においても同様だった。まず煉瓦建造物の多くが壁面倒壊・
亀裂の被害に見舞われ、室内研究器物の多くが損傷した。
 そして火災。地震直後、工学部応用化学実験室(木造2階)、医学部薬学教室(煉瓦造2階)、同
医化学教室(煉瓦造2階)、地下研究室から出火した。発火原因はいずれも薬品棚の倒壊。これらの
出火元のうち、工学部応用化学実験室は全焼するも延焼は免れた。医学部薬学教室の火も消し止めら
れた。しかし医学部医化学教室の火は止まることを知らず、他の棟への延焼が始まった。連鎖的大火
災で焼けた建物は18棟。工学部応用化学実験室、医学部医化学教室、同生理学教室、同薬物学教室、
図書館、法文経教室、法学部研究室、法学部講堂、法経教室(平屋)、理学部数学教室、法経教室2
棟(2階建)、法学部列品館、度量衡器室屋根、撃剣柔道場、本部事務室、本部会議所、第一学生控
所・・・これだけの建物が僅か2日間で焼失してしまったのだ。
 苛烈な震火災被害を経て、最終的に使用不能となった建物延べ坪数は12239050坪にもなり、
これは当時の本郷キャンパス建物全面積の3分の1に当たる。いずれにせよ、東京帝国大学は一時的
に半ば廃墟と化したのだ。建造物被害もさることながら、大学にとってそれ以上の痛手となったのは
書籍被害である。図書館では、炎上した後、一旦館外に非難した館員・学生が果敢にも書籍を搬出し
始めた。が、最終的に750000万冊に及ぶ膨大な書籍が総て灰燼に帰した。その中には内外の古
写本、古版本、稿本、手択本などの貴重な資料も含まれていた。これらの焼失は知の牙城を標榜する
東京帝国大学にとって「死」に値する損失だったといえよう。
 図書館以外にも、各部局の書籍被害はきわめて大きかった。法学部では45000冊の書籍が焼失。
標本4000点も焼失した。経済学部では40000冊の書籍がほぼ焼失した。しかし、当時、経済
学部名物と言われた個性派職員・永峰巳之助の大活躍により、極めて貴重な文献が救出(まさに救出
である!)された。永峰巳之助は業火の中、建物に何度も入りアダム・スミス文庫全巻、エンゲル文
庫と田尻文庫の一部を搬出したという逸話が残されている。
 事務方職員にとって書籍以上に大切なのが様々な学内文書である。総長室・事務局のあった山上会
議所(現在の山上会館)は炎上したが、職員は文書すべてを弥生門脇の旧学生集会所に搬出し、幸い
にも焼失を免れた。

 [昭和~現在]
 昭和14年平賀粛学により経済学部壊滅状態。同16年「東洋文化研究所」を設置。同17年千葉
市に「第二工学部」設置。工学部は「第一工学部」に改称。同19年南方自然科学研究所設置。同2
0年「輻射線化学研究所」設置。
 同21年南方自然科学研究所を改組して「立地自然科学研究所」設置。航空研究所を改組して「理
工学研究所」を設置。「社会科学研究所」設置。同22年戦勝国アメリカ軍の強制による学制改革に
より「国立東京大学」に改称。同24年旧制第一高等学校・旧制東京高等学校高等科を併合し新制の
「東京大学(法・医・工・文・理・農・経・教養・教育)」となる。第二工学部を廃し「生産技術研
究所」に改組。第一工学部を工学部に戻す。「新聞研究所」設置。輻射化学研究所廃止。

 初めて女子の入学を認める。他の官立大学では、第二次世界大戦前に許可している


 同25年文部省付属の史料編纂所を東京大学附属とする。同26年教育学部附属中学校・高等学校
設置。立地自然科学研究所を廃止。同28年新制の大学院設置(人文科学・社会科学・数物系・化学
系・生物系の5研究科)。「応用微生物研究所」、「宇宙線観測所(全国共同利用研究所)」設置。
同30年全国共同利用研究所として「原子核研究所」設置。同32年全国共同利用研究所として「物
性研究所」設置。同33年薬学部設置(最後の学部設置。理工学研究所を改組し「航空研究所」を復
活設置。同37年前期課程の4科類(文科一類・二類、理科一類・二類)を現在の6科類に再編。全
国共同利用研究所として「海洋研究所」を設置。同38年大学院の人文科学研究科・社会科学研究科
を改組し、人文科学・教育学・法学政治学・社会学・経済学の5研究科を設置。同39年航空研究所
を改組し全国共同利用研究所として「宇宙航空研究所」を設置。同40年大学院数物系研究科・化学
系研究科・生物系研究科を改組し、理学系・工学系・農学系・医学系・薬学系の5研究科を設置。同
42年伝染病研究所を改組して「医科学研究所」設置。 同44年東大紛争。そのため入学試験実施
できず。同51年宇宙線観測所を「宇宙線研究所」に改組。同56年宇宙航空研究所を廃し、改組し
て「国立宇宙科学研究所」となる。同58年大学院に「総合文化研究所」を設置。同62年「先端科
学技術研究センター」設置。同63年東京天文台を廃し、改組して「国立天文台」とする。
 平成3年大学院重点化開始。同4年大学院に「数理科学研究所」設置。同5年
応用微生物学研究所
を「分子細胞生物学研究所」に改組。同6年大学院の農学系研究科を「農学生命科学研究科」に改称。
地震研究所が全国共同利用研究所となる。 同7年大学院の社会学研究科を廃し、人文科学研究科を
「人文社会系研究科」に改組。同9年大学院重点化が完了。原子核研究所を廃し、改組して「国立高
エネルギー加速器研究機構」とする。同10年大学院に「新領域創成科学研究科」を設置。同12年
大学院情報学環・学際情報学府を設置。教育学部附属中学校・高等学校が中等教育学校へ移行、中高
一貫教育校となる。同13年大学院情報理工学系研究科を設置。同15年「東京大学憲章」を制定。
同16年国立大学法人法の規定により「国立大学法人東京大学」となる。大学院法学政治学研究科法
曹養成専攻(法科大学院)、大学院公共政策学連携研究部・公共政策学教育部(公共政策大学院)を
設置。先端科学技術研究センターを附置研究所へ転換。特別栄誉教授制度を創設。同17年全学的な
海外学術交流拠点として北京代表所を設置


   
水温む三四郎池に試歩の杖(岡田きよ)
   大学の中にあじさゐ咲ける道(久保田万太郎)
   銀杏散るまつたゞ中に法科あり(山口青邨)
   下灯る安田講堂の秋の暮(京極杞陽)
   大学の匂ひに満ちて銀杏散る(原子公平)
   本を読む三四郎今も冬の園(山口青邨)
 


■大学憲章

 平成15年3月18日(火)に開催された評議会において「東京大学憲章」が制定された。
 前文、学術、組織、運営、憲章の意義、憲章の改正、附則からなる。

   前文

    21世紀に入り、人類は、国家を超えた地球大の交わりが飛躍的に強まる時代を迎えて
   いる。
    日本もまた、世界に自らを開きつつ、その特質を発揮して人類文明に貢献することが求
   められている。東京大学は、この新しい世紀に際して、世界の公共性に奉仕する大学とし
   て、文字どおり「世界の東京大学」となることが、日本国民からの付託に応えて日本社会
   に寄与する道であるとの確信に立ち、国籍、民族、言語等のあらゆる境を超えた人類普遍
   の真理と真実を追究し、世界の平和と人類の福祉、人類と自然の共存、安全な環境の創造、
   諸地域の均衡のとれた持続的な発展、科学・技術の進歩、および文化の批判的継承と創造
   に、その教育・研究を通じて貢献することを、あらためて決意する。この使命の達成に向
   けて新しい時代を切り拓こうとするこの時、東京大学は、その依って立つべき理念と目標
   を明らかにするために、東京大学憲章を制定する。
    東京大学は、1877年(明治10年)に創設された、日本で最も長い歴史をもつ大学
   であり、日本を代表する大学として、近代日本国家の発展に貢献してきた。第二次世界大
   戦後の1949年(昭和24年)、日本国憲法の下での教育改革に際し、それまでの歴史
   から学び、負の遺産を清算して平和的、民主的な国家社会の形成に寄与する新制大学とし
   て再出発を期して以来、東京大学は、社会の要請に応え、科学・技術の飛躍的な展開に寄
   与しながら、先進的に教育・研究の体制を構築し、改革を進めることに努めてきた。
    今、東京大学は、創立期、戦後改革の時代につぐ、国立大学法人化を伴う第三の大きな
   展開期を迎え、より自由にして自律性を発揮することができる新たな地位を求めている。
   これとともに、東京大学は、これまでの蓄積をふまえつつ、世界的な水準での学問研究の
   牽引力であること、あわせて公正な社会の実現、科学・技術の進歩と文化の創造に貢献す
   る、世界的視野をもった市民的エリートが育つ場であることをあらためて目指す。ここに
   おいて、教職員が一体となって大学の運営に力を発揮できるようにすることは、東京大学
   の新たな飛躍にとって必須の課題である。
    大学は、人間の可能性の限りない発展に対してたえず開かれた構造をもつべき学術の根
   源的性格に由来して、その自由と自律性を必要としている。同時に科学・技術のめざまし
   い進展は、それ自体として高度の倫理性と社会性をその担い手
   に求めている。また、知があらゆる領域で決定的な意味をもつ社会の到来により、大学外
   における知を創造する場との連携は、大学における教育・研究の発展にますます大きな意
   味をもちつつある。このような観点から、東京大学は、その自治と自律を希求するととも
   に、世界に向かって自らを開き、その研究成果を積極的に社会に還元しつつ、同時に社会
   の要請に応える研究活動を創造して、大学と社会の双方向的な連携を推進する。
    東京大学は、国民と社会から付託された資源を最も有効に活用し、たえず自己革新を行っ
   て、世界的水準の教育・研究を実現していくために、大学としての自己決定を重視すると
   ともに、その決定と実践を厳しい社会の評価にさらさなければならない。東京大学は、自
   らへの評価と批判を願って活動の全容を公開し、広く世界の要請に的確に対応して、自ら
   を変え、また、所与のシステムを変革する発展経路を弛むことなく追求し、世界における
   学術と知の創造・交流そして発展に貢献する。
    東京大学は、その組織と活動における国際性を高め、世界の諸地域を深く理解し、また
   真理と平和を希求する教育・研究を促進する。東京大学は、自らがアジアに位置する日本
   の大学であることを不断に自覚し、日本に蓄積された学問研究の特質を活かしてアジアと
   の連携をいっそう強め、世界諸地域との相互交流を推進する。
    東京大学は、構成員の多様性が本質的に重要な意味をもつことを認識し、すべての構成
   員が国籍、性別、年齢、言語、宗教、政治上その他の意見、出身、財産、門地その他の地
   位、婚姻上の地位、家庭における地位、障害、疾患、経歴等の事由によって差別されるこ
   とのないことを保障し、広く大学の活動に参画する機会をもつことができるように努める。
    日本と世界の未来を担う世代のために、また真理への志をもつ人々のために、最善の条
   件と環境を用意し、世界に開かれ、かつ、差別から自由な知的探求の空間を構築すること
   は、東京大学としての喜びに満ちた仕事である。ここに知の共同体としての東京大学は、
   自らに与えられた使命と課題を達成するために、以下に定める東京大学憲章に依り、すべ
   ての構成員の力をあわせて前進することを誓う。
 


■校歌
 今まで東大になかったものに校歌がある。この度校歌ができた(?) 聞いたことあるって? そ
うこれ「東京大学運動会歌・大空と」を暫定校歌とした。しかし「たた一つ」のほうが親しまれてい
るという声が上り、取り敢えずこの2つの歌を「東京大学の歌」とし校歌についてはベンディングと
した。平成16年法人元年に当たって教職員と運動会・音楽部団体等の卒業生など、様々な人々から
の校歌制定の強い要望があり、そこで校歌の制定に関する「校歌等検討会」(委員長河野通方教授)
が設置され、この度次の提案がなされた。

   検討会では、東京大学の校歌として教職員・学生に定着する可能性がある歌でなければな
   らないという判断から、現時点で東京大学教職員・学生にある程度知られていることが必
   要であろうという意見が出されれ、そのため新しい歌を作って選考する案については、誰
   が作曲・作詞し、誰が選考するのかという部分で難航し、形式的に選考しても、校歌とし
   て定着しない状態になることが予測されることから見送られた。実際昭和22年、23年
   に校歌募集が行われたが、結果として決まらなかったという経緯がある。校歌はそれぞれ
   の思い入れがあり、特に東京大学校歌は現役・既卒業生の共通の財産としての意味を持ち
   あわせる。それ故に校歌としていかに根強く定着するかということが重要視された。この
   ような観点から、検討会ではその候補曲として以下の3曲を妥当として検討した。


 ① 運動会歌「
大空と」  作詞・北原白秋  作曲・山田耕筰
  1.大空と澄みわたる淡青
    厳たり我が旗 高く開かむ
    仰げよ梢を 銀杏のこの道
    蘊奥の窮理 応じて更に
    人格の陶冶 ここに薫る
    栄光の学府 巍々たり赤門
    我が赤門 高く開かむ
  2.大空と 新しき淡青
    冴えたり我が旗 風と光らん
    楽しめ季節を 思慮あれこの道
    文明の證 自由と常に
    甚深の調和 ここに明る
    精神の学府 満ちたり赤門
    我が赤門 風と光らん
  3.大空と 揺り動く淡青
    生きたり我が旗 雲と興らん
    羽ばたけ搏力 どよめよこの道
    青春の笑い 爆けてすでに
    健腕の誇り ここに躍る
    堂々の学府 鏗たり赤門
    我が赤門 雲と興らん

 ②「ただ一つ」 作詞:大森幸夫(法・政19入) / 作曲:山口琢磨(工・船21卒)
  1.ただ一つ 旗かげ高し
    今輝ける深空の光
    天寵を負える子ら 友よ 友
    ここなる丘に 東大の旗立てり
    伝統の旗 東大の光
    たたえ たたえん たたえ たたえん
  2.ただ一つ 歌ごえ高し
    いまなりわたる 疾風の力
    双眼の 澄める子ら 友よ 友
    ここなる杜に 東大の歌湧けり
    伝統の歌 東大の力
    たたえ たたえん たたえ たたえん

 ③「足音を高めよ」 作詞:平井富夫(教養・文二27入) / 作曲:末広恭雄(農・水産4卒)
  1.足音を高めよ
    雄々しきひびき
    地の果てにとどきて
    限りなき生命燃えたり
    ひたぶるの情熱かけて
    友よ友 その火絶やすな自由の火を
  2.
歌声を合わせよ
    われらの調べ
    天にこだまして
    歓喜のあらしとならん
    ひたぶるの望みをかけて
    友よ友よ 築け正しき世界の平和を
  3.未来をみつめよ
    澄みたる瞳
    銀杏は輝きて
    天真の魂は満ちたり
    ひたぶるの青春かけて
    友よ友よ 継ぎて守らん永久の真理を

   平成16年6月に東京大学の校歌についての検討会が設置され、7月より本学ホームペー
   ジを通じ「東京大学運動会歌」を暫定的に校歌とするという案について意見を募集したと
   ころ、10月8日までに数多くの意見をいただき、ありがとうございました。
    その中には、東京大学運動会歌「大空と」は、メロディーが格調高い等の賛成意見があ
   る一方、その作られた時代背景や歌詞の内容から「校歌」として扱うことに対して慎重で
   あるべきであるとか、「ただ一つ」の方が在学生・教職員・卒業生に親しみがあるという
   意見もいただきました。これらの意見を踏まえ、10月13日に開催された校歌等検討会
   において検討した結果、
   1.「大空と」および「ただ一つ」を、校歌としてではなく『東京大学の歌』として位置
     づけ、状況に応じて歌っていくこと。
   2.また、これに加えて法人化した東京大学に相応しい新しい歌を募集すること。
    という結論に達し、総長に対し答申がなされました。
    同検討会答申は、10月19日に開催された研究科長・学部長・研究所長合同会議にお
   いて了承され、総長から同検討会に対して新しい歌の制作に向けて引き続き取り組むよう
   指示がありました。今後は様々な場において、「大空と」および「ただ一つ」が「東京大
   学の歌」として状況に応じて歌われることになります。これらの歌が在学生・教職員・卒
   業生の心に刻まれ、歌を通じた東京大学へ共通の思いとなることを期待しています。


 「大空と」この歌は、昭和7年大学が北原白秋と山田耕筰に作詞作曲を要請したもので、「東京帝国
大学の歌」という曲名で作曲されたものだったが、当時の諸手続きの関係から「運動会歌」になった
という経緯もある。その歴史的観点からも、校歌として相応しいのではないかと思われると考えた。
結果暫定的ながら校歌とした訳だ。東大の卒業生諸君、いちゃもん(文句)をつけるなら今の内だぞ。
おいらの予想では結局有耶無耶の内に時は流れて行くネ。
 おいらは「大空と」「ただ一つ」「足音高く」のどれも、パッとしないと思う。一高寮歌「嗚呼玉
杯に」や「春爛漫の」などに比べたらインパクトがない。一発で覚えられないメロディだし、歌おう
という意欲は湧いてこない。どうでもいいんじゃない。 
 

   東京大学の歌の制定について
   東京大学の校歌の検討結果について(報告)
   平成16年6月に東京大学の校歌についての検討会が設置され、7月より本学ホームペー
   ジを通じ「東京大学運動会歌」を暫定的に校歌にするという案について意見を募集したと
   ころ10月8日までに数多くの意見をいただき、ありがとうございました。
   その中には、東京大学運動会歌「大空と」は、メロディーが格調高い等の賛成意見がある
   一方、その作られた時代背景や歌詞の内容から「校歌」として扱うことに対して慎重であ
   るべきであるとか、「ただ一つ」の方が在学生・教職員・卒業生に親しみがあるという意
   見もいただきました。
   これらの意見を踏まえ、10月13日に開催された校歌等検討会において検討された結果
   「大空と」および「ただ一つ」を、校歌としてではなく『東京大学の歌』として位置づけ
   状況に応じて歌っていくこと、
   また、これに加えて法人化した東京大学に相応しい新しい歌を募集すること。
   という結論に達し総長に対し答申がなされました。
   同検討会答申は、10月19日に開催された研究科長・学部長・研究所長合同会議におい
   て了承され、総長から同検討会に対して新しい歌の制作に向けて引き続き取り組むよう指
   示がありました。
   今後は様々な場において、「大空と」および「ただ一つ」が「東京大学の歌」として状況
   に応じて歌われることになります。これらの歌が在学生・教職員・卒業生の心に刻まれ、
   歌を通じた東京大学へ共通の思いとなることを期待しています。
   本件に関する問い合わせ先 東京大学学生部学生課学生生活チーム
 担当:大八木・宮内
   TEL 03‐5841‐2529  FAX 03‐5841‐2529

 ※平成16年11月に募集した新しい「東京大学の歌」の歌詞選考結果については、
 ①.第3の「東京大学の歌」として、応援歌としての「ただ一つ」、重厚な雰囲気の「運動会歌
   (大空と)」とは重ならない新しい曲調となる歌詞を期待していたが、応募作品にはこれら
   と重複する雰囲気の作品が多かったこと。
 ②.オリジナリティーのある作品については、作品としての主張が伝わらないものもあり、東京
   大学の歌として普遍的に歌い継がれることが難しいと思われたこと。
 ③.口語調の作品においては音数(歌詞の区切り)の関係で作曲が難しい作品が多かったこと。
 ④.その他、飛躍し過ぎた作品については「東京大学の歌」として歌うことが難しいとされたこ
   と。
 以上4点を理由として、総ての作品が採用されなかった。第一官僚養成組織に校歌なんて必要ない
だろう。また帝大には北大「永遠の幸」を除いて、京大に学歌があるだけで、残り5校には校歌はな
い。東大系の旧制第一高等学校に寮歌が3000曲程もあって、中でも「嗚呼玉杯」と「春爛漫」は
秀逸中の秀逸、詞といいメロディといい、これに勝る寮歌はない。ここに、どんな作詞家、どんな作
曲家が現れても、これを超えて万人の共感納得の行く作品は作りえない。よしんば客観的に最良の作
品だったとしても、既にある固定観念、イメージを打ち砕くことは、泰山を脇挟んで渤海を越えるよ
り難しい。東大に校歌を求めることは無駄だし、意味がない。馬鹿馬鹿しいことだ。第一何時歌うん
だ。歌っている暇がないだろう。そんなことを考える暇があったら研究に没頭専念しろ。



■スクールカラー

 東京大学の色といえば、「ライトブルー(淡青)」だが、その起源は意外なところにあった。大正
9年9月24日に瀬田川で行われた東大・京大の両ボート部による第一回対抗競漕で、両大学の乗る
ボートを籤引きで決めた。その際、京都大学はダークブルー(濃青)、東京大学はライトブルー(淡青)
と決まった。当時の新聞には、

   京都大学は、ダークブリウ(濃青)にて牛津(オックスフォード)大学の使用せるものと同色、
   東京大学は、ライトブリウ(淡青)にて剣橋(ケンブリッジ)大学のそれと同一


 に決まったという記述がある。オックスフォード大学は濃青、ケンブリッジ大学は淡青をユニバー
シティー・カラーにしている。ボートに限らず、両大学のスポーツ対校戦に出た選手には「ブルー」
の称号が与えられ、人格高尚な紳士とみなされ、大きな尊敬の目で迎えられるそうだ。それで第一回
対抗競漕の際にもこれに倣って、濃青と淡青が採用されたのだ。
 こうして、偶々籤で決められた色が東京大学の運動会の旗の色になり、今では「淡青」は東京大学
のスクールカラーとして定着している。また、京都大学のスクールカラーは濃青であるが、これも起
源は同じじゃないのかな。
 因みに第一回対抗競漕はデッドヒートの末、東大が勝利を収めたらしい。東大・京大のボート対抗
戦は現在でも行われており、毎年熾烈な争いが繰り広げられている


■シンボルマーク/
ロゴタイプ
 東大には校章があったか? と問われると答えは「NO」だ。古くから銀杏マークといえば東大で
はないか、というかもしれない。ところがあの銀杏のマークは、校章として定められたものではない
んだ。昭和23年6月8日の評議会において、星野昌一名誉教授が作図したマークで、「銀杏バッジ」
として制定されたものなのだ。色については、「大學」の文字は金色、「銀杏部分」は銀色とする、
と記されている。
 この「東大マーク」は、知っての通り、様々なところで使われてきたが、よく見ると、銀杏の葉の
切れ込みの入り方、葉柄部分の曲線、「大學」の文字の大きさ、そして勿論色など必ずどこかが違っ
ていることに気づくと思う。
 こうした状況に鑑み、法人化の機会に、新たな「東大マーク」を制定すべきであるとの考えから、
当時の佐々木毅総長の指示により、渡辺浩副学長を主任とする「東京大学アイデンティティ作業班」
が組織され、検討作業が始められた。
 新しい「東大マーク」は、それまで親しまれてきた「旧東大マーク」のデザインを元にして、葉の
切れ込みなどに新たな工夫を加えて作られた。基本的なデザインとして従来の2枚の銀杏の葉を用い
たのは、大きな変化に当たっても、東京大学がこれまでの長い歴史と伝統を踏まえ、世界の大学教育
・学術研究をリードしていこうとする決意の表れだ。
 形はあまり変わり映えがしないのと比べ、大きく変わっているのが、その配色。「東大マーク」は、
上の葉に、秋に色づいた銀杏の黄、下の葉に、東大のスクールカラー「淡青」に因んだライトブルー
を用いている。東京大学の長い歴史を考えると、これまで様々な場面で用いられてきたマークや淡青
を、すべて新しいものに統一することは困難だが、東京大学のシンボルとして、新しい「東大マーク」
を用いて行く決意だ。デザインに当たっては、多摩美術大学助教授原田泰の協力を得た。なお「新・
旧東大マーク・コミュニケーションマークは、商標登録済みだ。従って東大の教・職員、学生にあっ
てもその使用については申請して許可を得なければならない。 
 序でに「東京大学」のロゴタイプも明朝体の「
東京大学」と決定した。


■東大生の数

 時代にもよるが、現在は学部学生が15000人弱、同世代の400人に1人程度の割合となるら
しい。これに大学院生、留年生やら研究生、聴講生を加えると大凡20000人。おいらの子供の頃
も「東大20000人」といってたから、戦後は、前後はあっても、年度の東大生は「20000人
ぐらいいる」と認識しとけばいいだろう。20000人もいるから官僚・政治家・財界トップになる
のは一握り、大半は学校の先生だ。その背負った肩書きのためにしょぼくれ人生を送ることになる。
 風俗のトルコ風呂(ソープランド)嬢第一号は東大医学部卒だった。これは有名な話だ。


■クラス制度

 1、2年生は全員が教養学部に所属し、まだ細かい学部には分かれない。入学試験や進学振り分け
などの手続きでは、文科1~3類と理科1類~3類の6科類に分けられているが、クラスでは文1と
文2、理2と理3がまとめられ、文一二・文三・理一・理二三のそれぞれが、第二外国語の選択によっ
てクラス分けされる。現在の一年生は、35人程度のクラスに分けられ、文一二が27クラス、文三
が20クラス、理一が39クラス、理二三が23クラスある。クラス制度があるといっても、高校と
は違い、ホームルームなどはないし、クラス全員が集まれるのは必修科目だけだ。しかも殆どの必修
科目は複数クラス合同授業なので、クラスが単独で集まれるのは、第二外国語の授業だけになる。そ
して二年生にもなると必修科目も減り、そして第二外国語もなくなるので、クラス意識はどんどん薄
れて行く。このように、しっかりとしたクラス制度ではないので、クラスとはほとんど無縁に大学生
活を送ることも可能だ。しかし5月にはクラスの絆を深めるための新入生歓迎フェスティバルがあり
年に2回ある学園祭にはクラス単位で出店することも多い。また東大には進学振り分けがあるので、
希望学科への進学のために、クラス内で試験勉強を協力し合う試験対策(シケ対)制度などもある。
何か集まるきっかけを作ってくれるもの、それが東大1・2年生のクラス制度なのではなかろうか・
・・


■東京大学稷門賞(しょくもんしょう)

 平成14年度から東大に私財の寄付、ボランティア活動及び援助、寄附講座、寄附研究部門等によ
り、本学の活動の発展に大きく貢献した個人、法人又は団体に対し、感謝の意を表すため「東京大学
功績者顕彰制度」を設け、その功績に対し「東京大学稷門賞」を贈呈することになった。無論東大と
無縁で、現に在籍する東大の教職員及び学生は資格が無い。
 なお「稷門(しょくもん)」とは、中国の戦国時代の斉(山東省)の首都の城門の名前。斉の威王、
宣王が学者を厚遇したので、斉の都に天下の賢者が集まり、学問が栄えたという故事をこの賞の名称
は踏まえている。稷門付近は「稷下」と呼ばれ、多くの学者が集まったことから「稷下の士」という
言葉も生まれた。(出典『史記』)
 


 本郷キャンパス 
■西片門
 キャンパス西北部にあり、平成19年5月25日開門。赤門や正門と同じく本郷通りに面している。
工学部5号館の裏に位置している小さな門であり、歩行者専用となっている。車で入ろうにも直ぐ階
段なので無理だ。東大前駅から工学部地区へ行く場合、以前は正門または弥生門を経由する必要があ
り、遠回りを強いられていたが、この門が設置されたことによりとっても便利となった。なお門の名
称は周辺の地名に由来する。
 開門時間は7時~0時半。休日も同じだ。
 


■工学部ものづくり実験工房
 西片門を入って左奥、本郷キャンパスの西北隅にある。平成19年5月23日開所式が同工房内で
行われた。ものづくり実験工房とは、教養学部前期課程の「全学体験ゼミナール」「全学自由研究ゼ
ミナール」の講義の際に用いられる工房。制作物などの置き場ともなる。設置する機材は未定。開所
式には小宮山宏総長、松本洋一郎工学系研究科長らが出席。松本研究科長が「学習したことを実際に
身に着ける場」としての意義を語り、小宮山総長は「ものづくりのリアリティーを回復する場となる
だろう」と祝辞を述べた。


■三好普六郎像
 像は、書籍に手を乗せた姿を描いた胸像で、西片門を入った左手駐車スペースの奥にある。幕臣の
子として誕生。明治維新後は造船の近代化を志し、明治12年に工学大学校機械工学科を卒業した後
イギリス留学。グラスゴーの造船所で当時世界をリードしていたイギリスの造船技術を実地で学び、
その経験と知識を日本へ持ち帰った。帰国後は造船技術科助教授を経て、同19年には教授へ昇格し
た。船舶工学の権威。船舶学会会長、工手学校(工学院大学)校長などを歴任した。明治中期以降、
日本海軍はその近代化と戦力拡充の課程でイギリス式の造艦技術に範を採るようになっが、こうした
技術的な基礎確立や新技術の導入に大きな功績があった。不思議なもので、今、日本の造船技術は世
界一、鉄道技術も世界一、イギリスに船を造ってやり、新幹線を敷いてやっている。


 ■工学部
 今日の社会は、科学技術の成果を利用せずには一日たりとも機能しないことは明らかだが、また科
学技術が結果として社会をもたらすことも事実。生活環境が整い医療が高度化することによる高齢化
社会の到来、大量消費による資源の枯渇や環境の汚染など、我々が立ち向かわなければならない問題
は山積み。工学の教育・研究に携わる東京大学は、科学技術が社会の中で活きてこそ意味があるとい
う工学の原点から、様々な取り組みを行っている。その守備範囲と手法は限りなく広範だ。原子レベ
ルでの物質の理解から、それらを組み立て構造化する技術まで、情報の意味を問うことから、その効
果的な伝達・処理技術まで、さらにこれら全ての技術が及ぼす社会的影響の評価に至るまで、東京大
学は夫々の取り組み方で創意工夫し、汗をかきながら工学の一翼を担っている。頑張るぞ!

■工学部・大学院工学系研究科
 明治18年、理学部より分割された工芸学部と工部省所轄の工部大学校を統合して工科大学が設置
された。当時は土木工学科、造家学科、機械工学科、造船学科、電気工学科、採鉱及冶金学科、応用
化学科の7学科で構成されていた。その後、学科新設・改称を経て、昭和24年に新制東京大学工学
部となった時は、土木工学科(社会基盤学科)、建築学科、機械工学科、精密工学科、船舶工学科(シ
ステム創成学科)、電気工学科、計測工学科(物理工学科・計数工学科)、石油工学科(昭和26年
廃止)、鉱山学科(システム創成学科)、冶金学科(マテリアル工学科)、応用化学科(応用化学科
・化学システム工学科・化学生命工学科)の11学科で構成されていた。
 その後さらなる学科統合・新設・改称を経て、現在は、
   1.社会基盤学科
      設計・技術戦略コース (社会基盤学A)
      政策・計画コース   (社会基盤学B)
      国際プロジェクトコース(社会基盤学C)
   2.建築学科
   3.都市工学科
      都市環境工学コース
      都市計画コース
   4.機械工学科  (機械工学A)
   5.産業機械工学科(機械工学B)
   6.機械情報工学科(機械工学C)
   7.精密工学科
   8.航空宇宙工学科
      航空宇宙システム学コース
      航空宇宙進学コース
   9.電子情報工学科(電子・情報系A)
   10.電子電気工学科(電子・情報系B)
   11.物理工学科
   12.計数工学科
      物理情報工学コース
      システム情報工学コース
   13.マテリアル工学科
      バイオマテリアルコース  (マテリアル工学A)
      マテリアル環境・基盤コース(マテリアル工学B)
      情報・ナノマテリアルコース(マテリアル工学C)
   14.応用化学科
   15.化学システム工学科
   16.化学生命工学科
   17.システム創成工学科
      環境・エネルギーシステム(E&E)コース(システム創成A)
      シミュレーション・数理社会デザイン(SIM)コース(システム創成B)
      知能社会システム(PSI)コース(システム創成C))
 の17学科となっている。
 工学部は科学技術の進歩と産業界からの要請に合わせて学科組織の改編を行ってきたために、他学
部に比して学科の変遷が激しい。近年では、社会基盤学科、マテリアル工学科、システム創成学科と
いった分野横断的な学科が新設されている。


 
工列品館

 正門を入って左の建物。登録有形文化財。大正14年年完成。設計は内田祥三。列品館という名称
ではあるが、実際に標本等が列品されたことは一度もなく、現在は工学部の事務室として利用されて
いる。

 
工1号館

 登録有形文化財。昭和10年完成。設計は内田祥三。関東大震災で倒壊した工科大学本館の跡地に
建設された。老朽化・狭隘化が目立ってきたため、平成10年に香山壽夫の設計で全面改修された。
元々は「日」の字の形をした建物であったが、中庭だった部分はガラスの屋根がかけられ、建築学科
の製図室や図書室などになっている。前庭にはジョサイア・コンドルの銅像がある。現在は主に社会
基盤学科、建築学科が利用している。

 
工学部1号館の頂華(フィニアル)
 1号館にある内田祥三の作品。頂華(ちょうげ)は鬼瓦のようなもので、屋根頂部の飾りものだ。

   工学部1号館の頂華(フィニアル)
   東京大学の本郷キャンパスにある戦前の建物はそのほとんどが関東大震災の復興計画を手
   掛けた内田祥三(第14代総長 建築学科教授)によって設計された。展示されている一
   対の頂華(フィニアル)と呼ばれる建築装飾部材は、内田の代表作の一つ、工学部1号館
   (昭和10年竣工)の 面の切り妻型玄関ポーチ頂部を飾っていたもので、平成8年の1
   号館全面改修・増築工事の際取り壊された。
   フィニアル上部松毬(まつかさ)様に象られ、その下には四方に開いたクロケットと呼ば
   れる拳華飾りが配されている。ヨーロッパ中世の建築様式であったゴシックスタイルの典
   型的な細部装飾一つで、三角の切妻型の頂点に置かれ、ポーチ全体を視覚的に引き締める
   要となっていた。
   現在も構内に多く残る玄関ポーチは長年にわたり、「犬小屋」の愛称で親しまれてきた。
   建築学科の初代教授であったジョサイア・コンドルが設計し明治17年(1884 震災
   で損壊)に竣工した旧法文校舎に用いられたのが本郷におけるその起源である。


■工学部学生エロ事件
 平成28年5月11日工学部システム創成学科在籍の4年生松見謙佑、藤田智之、河本泰知、松本
昴樹、生嶋一生が強制猥褻の罪で逮捕された。松見は、女子大生に猥褻行為を繰り返す目的で、ブロ
グ上に「東京大学誕生日研究会」を立ち上げ、東大、早稲田、慶応の学生と東京在学の女子大生との
合コンを謳って参加者を募り飲酒、二次会と称して酔わせた女子大生をアパートに連れ込み、言葉巧
みに全裸にして集団で猥褻行為に耽っていた。これが東大の実態だ。入試勉強しかできない馬鹿だか
ら、みんなでやれば怖くないとつるんでの犯行。お粗末の一語に尽きる。女の裸、性行為によっぽど
興味があったんだろうね。程度低いよ。これは氷山の一角で、東大生は特に似たり寄ったりなことを
やってるよ。こういうのを「イベサ」っていうんだ。イベントサークルを立ち上げることさ。女口説
く自信も度胸もないから、何となく女に接して、酔わせて、抵抗できなくしてセックス。これが東大
の頭の程度さ。入試学問だけしかやらないから、矢鱈めったら性行為に興味津々なんだろうねぇ。京
大や一橋はもそっと違うぞ。実に東大生はバカが多い。バイトで使ったことあるけど、幾何学はお手
の物だろうに、地面に20×30mの矩形が描けないんだ、どいつもこいつも使えない。応用能力が
ないんだね。
 引っ掛かる女の子も女の子、私立の女子大生。あわよくば〝東大生とお近づき〟になれて、〝玉の
輿〟なんてスケベ根性、下心があるからノコノコ出かけて来る。やられるのは計算済みだ。併し目的
が達成できないとなると被害者面して訴える。バカとバカの阿波踊りってとこか?

 
主犯の松見謙佑‐起訴
 練馬の武蔵(中高一貫)出身。親父は東大法学部出で日本興業銀行入行。現在はみずほ銀行系投資
ファンドに勤務する超エリートで苦労人なのに、バカ息子はせっせせっせと女の下半身ををのみ追っ
かけてるってかぁ。今回の起訴内容では、乳や尻に触った。局部にドライヤーの熱風を浴びせた。熱
湯麺を胸に当てたというもの。こんなことを学問を追及せずに、毎晩やっていた本当の馬鹿野郎。
 平成28年9月20日判決:懲役2年(執行猶予4年)。被害者は示談を拒否。まあ就職も、転学
も難しかろう。生涯犯罪者のレッテルで生きていくんだな。知恵遅れの高畑裕太と同じレベルだ。

 河本泰知(たいち)起訴
 岡山県一の高校朝日高等学校(旧岡山一中)の出身。岡山で河本といえば在日かな? 松見と同じ
システム創成学科の学生。東大バカが陥る一般的な過程を経て留年、猥褻行為にご執心で現を抜かし
ていた。人生終わったね。親父は小学校の教師だってぇのに。
 平成28年9月20日判決:懲役1年6月(執行猶予3年)。自主退学を要求され、母親が、卒業
間近のため逡巡し、示談不成立。立派な犯罪者だ。退学は免れない。即就職は無理。他大学の大学院
でも行って、色を薄めてから就活だね。それでもチクられたら終りだぜ。おいらなんざ。家に居て音
も出さないし、葉っぱ1枚盗まない。「身辺御清潔に!」だ。各々方、ご要慎、ご要慎。

 松本昴樹‐起訴
 東京学芸大学附属高校の出身。システム創成学科を卒業して大学院修士1年生。ハンドボールの選
手だったが、前十字靭帯を切って引退。その後、猥褻行為に耽っていた。バカたね。
 平成28年10月25日判決。懲役1年10月・執行猶予3年。

 藤田智之‐不起訴
 福井県立藤島高校、東大大学院工学系研究科原子力国際専攻修士1年。数学が得意で、平成22年
4人のチームで全国数学選手権大会で優勝。国会議員山谷えり子の従兄弟の子。
 今回は「やっていない」という主張が通って不起訴。責任転嫁。そこに居ただけで犯罪だ。示談が
成立してたらしくて不起訴。だと、退学はなかろ、停学か・・・

 生嶋一生‐不起訴
 都立国際高校出身。東大大学院工学系研究科システム創成学専攻修士1年生。中学では生徒会長を
務め、中高とも野球部で甲子園を目指していたが、左肩を壊して引退した。『考える時間の9割は無
駄』なる本を出版、バカだから、考えないからこんな犯罪を犯すんだ。 
 今回は「やっていない」という主張が通って不起訴。責任転嫁。そこに居ただけで犯罪だ。示談が
成立してたらしくて不起訴。だと、退学はなかろ、停学か・・・

 
ジョサイア・コンドル像

 工学部1号館前庭に建つ。伊藤忠太プロデュース。銅像は新海竹太郎の作。台座基部に地震の象徴
とされる2匹の男女の邪鬼が這いつくばっているレリーフがあり、コンドルがそれ踏みつけているイ
メージとなっている。それはコンドルの耐震技術面での貢献を顕彰したものだ。
 ジョサイア・コンドルは、工部大学校造家科(東京大学工学部建築学科)において日本で初めて本
格的な西欧式建築教育を行った。帝国大学(東大の前身)造家科になっても引き続き学生の教育に当
たり、明治期のすぐれた建築家を育てた。また日本最初の建築設計事務所を開設、鹿鳴館・東京帝室
博物館など多くの洋風建築物を設計している。帝大名誉教師、日本建築学会名誉会長・名誉会員でも
あった。日本人を妻とし、日本で亡くなった。河鍋暁斎について日本画を学ぶなどの日本を深く愛し
た外人。
 意外だが、銅像の右手に葉巻が・・・歩き喫煙してたんだ。紳士じゃねえぞ。

   ジョサイア・コンドル
   ロンドンに生まれ、建築学を学び、明治9年に日本政府と5年間の雇用契約を結んで、翌
   8年に来日した。工部大学校造家学の教師となり、最初の教え子として辰野金吾や片山東
   熊らを輩出。建築教育に従事する傍ら、上野博物館、鹿鳴館、東京大学法文科校舎など、
   本格的な西洋建築を相次いで設計した。同19年に工科大学造家学科講師に転じ、同21
   年に辞任、建築事務所を構えて設計の仕事に力を注いだ。わが国の建築学に確固たる出発
   点を与えたことは不滅の業績といえる。来日後すべての設計活動を日本で行い、大正9年
   に没した。

 
蛇塚・お化け灯籠

 コンドル像の東方50mばかりのところにある加賀屋敷時代の遺物。そこには不思議な石灯籠と横
には灯籠跡らしき石が残されている。ここだけ何故か荒れている。大正の初期から「本郷通り寄り北
隅」→「旧工学部本館中庭」→1号館新設に伴って「現在地」と移動したのだが、この塚を移動する
者に「必ず不幸がある」という伝説があるとか。その移動の度に当事者に不幸が生じたという噂が・
・・それを信じてお祓いをしたり、鎮魂祭をした教授がいるとかいないとか! 
 8歳で徳川家から2歳の溶姫(やすひめ)を正室に貰った加賀藩主斉泰は、溶姫と相思相愛だった
とかで、しかし姫は24歳という若さで他界した。徳川家から嫁を与えられるということは、その大
名家を栄えさせないための策略。相思相愛になっては、徳川家にとって不利となる。そこで姫の乳母
の局が姫と藩主を引き離してしまった。姫はそれが原因で死んでしまったとかで、それを知って怒り
狂った斉泰が、加賀藩全領から毒蛇を集めさせ 局を裸にし穴の開いた樽に詰め、四方囲んだ部屋に
樽を置き 蛇を放し酒を蛇にかけたそうだ。蛇は酔っぱらい、局に噛みつき、毒が廻って局の息は絶
えた。それからというもの局の怨念が残り トイレに入ると怨霊が出るようになり、その怨念を鎮め
るために蛇塚を建てたとのこと。参勤交代で江戸に来なくてはならないのが大名の宿命、藩主斉泰は
江戸の屋敷にも「蛇塚」を建てて供養したという。江戸藩邸の蛇塚は、灯籠だけだったようで、もし
かしたら小祠が祀ってったのかも知れないが、今は1基の燈篭と燈籠の台座が残っているのみ。無闇
に塚をいじると祟られるというので、お祓いをした教授もいたそうだが、実際に昔から大きく移動さ
れていないところをみると、その教授ばかりが言い伝えを信じていた訳でもなさそうだ。今でも剪定
作業をする造園屋はお祓いを受けてからこの周辺の作業をしているんだってさ。

 
チャールズ・ウェスト像

 工1号館前庭にある風格のある銅像、つい先ごろ、本学HPのトップ写真にも登場。ライトアップ
設備も整えられている。工部大学校、土木工学科教授、アイルランド人教師。ダブリン大学トリニティ
・カレッジ卒業。イギリス・ベルケンヘット製鉄場で造船学を習得。明治15年来日。機械工学と造
船学を教授。同41年日本にて没した。

   チャールス・ウェスト
   Charles Dickinson West
   
1847~1908
   ダブリンに生まれ、ダブリン大学トリニティ・カレッジで機械工学を修め、明治2年に卒
   業したあと、5年余りイギリスのベルケンヘット製鉄場で働いた。造船の知識をこの時に
   得ている。ヘンリー・ダイアーの機械工学の後任として、同15年に来日し、機械工学と
   共に造船学も教えた。わが国の機械工学を未熟な状態から休息に発展させることに尽力し
   た。そのまま日本に留まり、同41年に没した。

 
工2号館

 大正13年に完成した工学部2号館の旧館部分は、内田祥三が東大構内で初めて設計した建物だ。
但しこの建物は震災前に設計された建物であるため、他の「内田ゴシック」とは少し異なるデザイン
(タイルの色など)となっている。同建物が関東大震災の時には殆ど完成していたが損壊しなかった
ことが評価され、内田は震災後の復興計画を任されることになった。また旧館には震災後の一時期、
大学本部が置かれていたことがある。現在、旧館北側は取り壊され新しく高層建造物(北棟)が建設
されたが、安田講堂に面する南側は保存され、その上空に高層建造物(南棟)が建築された。南棟は
旧館中庭の柱と外側のW字の柱によって支えられている。当初の計画では旧館を全て取り壊して全面
新築する予定だったが、歴史的建造物を保存するため計画変更がなされ、その結果、本郷キャンパス
内でも特異な構造の建物となった。旧館の中庭は南棟が上から覆い被さったため半屋外広場となり、
コミュニティスペースとして整備され、サブウェイの店舗も設置された。現在は主に機械系、電子・
情報系の各学科・専攻が利用している。

 
工3号館

 昭和14年完成。設計は内田祥三。現在は主に電子・情報系学科、システム創成学科が利用してい
る。将来的には改築され、隣接する工学部2号館と一体化した建物になる予定。上述のコミュニティ
スペースも3号館まで延長されることになっている。

 工4号館
 昭和2年完成。設計は内田祥三。現在は主にマテリアル工学科、システム創成学科が利用している。

 
工5号館

 昭和36年完成。現在は応用化学科、化学システム工学科、化学生命工学科が利用している。

 
工6号館

 昭和15年完成。設計は内田祥三。老朽化と耐震強度への懸念により、平成9年耐震補強工事が行
われた。現在は物理工学科、計数工学科が利用している。

 
工7号館

 
工8号館

 
工9号・10号館

 ここ工学部地区にはなく浅野地区にある。

 
工11号館

 昭和43年完成。設計は吉武泰水。高層化の始まった時期に建てられた鉄筋コンクリート造9階建
てであるが、外装には「内田ゴシック」との調和を考慮し、赤茶色のタイルが用いられている。老朽
化と耐震強度への懸念により、平成18年耐震補強工事が行われた。現在は主に社会基盤学科、建築
学科が利用している。

■古市公威像
 正門と工11号館の間にある。古市は、安政元年(1854)姫路藩士の子として江戸に生まれる。
明治8年東京開成学校から第1回文部省留学生として渡欧、同9年パリの名門工学校エコール・サン
トラルの諸芸学科に入学し、同12年土木工学を軸に工学全般を修め、翌年パリ大学理学部を卒業。
同13年に帰国すると内務省土木局に入り、内務技師・土木局長として河川改修、築港などのプロジェ
クトに関わりながら、東京大学理学部講師を兼任。同19年帝国大學創立と同時に初代工科大学長に
就任し、近代日本の工学教育の基礎を築いた。同21年には日本初の工学博士号を授与される。同3
1年に退官するが、技術者としても初代内務土木技監、初代土木学会長など要職を務め、新生明治日
本の近代化に欠かせない役割を果たした。昭和9年勲一等旭日桐花大綬章受章。同日没。

 昭和12年堀進二の作。碑文に曰く。

   先生諱公威古市氏姫路藩士族夙立志工學遊學佛國歸朝奉職内務省尋任帝國大學工科大學長
   舉於帝國學士院會員為樞密顧問官敘従二位勲一等授男爵昭和九年一月二十八日病薨壽八十
   一先生天資明敏人格高潔至誠奉公一以國家為任好誘掖後進最篤於情誼博聞彊記熟慮斷行識
   人善任深得衆心和是所以能裁群議放成功也先生實本邦工業教育之鼻祖而司鐸五十年於治水
   港灣鐵道等公私事業所盡力頗多不譲大禹疏鑿之功嗚呼盛矣哉故舊門生敬慕不止胥謀募資建
   銅像於大學前庭以傳先生之豊功盛徳於千歳云
   昭和十二年四月


 説明文は以下の通り。

   古市公威(ふるいちこうい)
   
1854~1934
   安政元年、姫路藩士の子として江戸に生まれる。明治8年東京開成学校から文部省最初の
   留学生として渡欧、同9年にパリの名門工学校エコール・サントラルに入学し、土木工学
   を軸に工学全般を修める。同13年帰国後、内務技師として河川改修、築港などのプロジェ
   クトに関わりながら、東京大学理学部講師を兼任、同19年帝国大学創立と同時に工科大
   学長に就任し、日本近代の工学教育の礎を築いた。同21年には日本初の工学博士号を授
   与される。同31年に退官するが、技術者としても初代内務土木技監、初代土木学界長な
   ど要職を多く務め、新生明治日本の近代化に欠かせない役割を果たした。昭和9年歿。


 ものづくり実験工房 
 西方門を入って直ぐの小さな建物。

 
工13号館
 
弥生門の直ぐ近くにある。

 工14号館
 
工1号館の南にある。


 ●
船舶運動性能試験水槽室
 工7号館裏にある。

 
船型試験水槽室
 工7号館裏にある。

 
キャビテーションタンネル
 船型試験水槽室裏。

 ※工12号館航空風洞実験室→風工学実験室・タンデム加速器研究棟
  
原子動力実験装置室・原子力センター別館超高圧電子顕微鏡室
 ここ工学部地区にはなく浅野地区にある。


■正門
 キャンパス西部にあり、本郷通りに面している。横にある門衛所も合わせて登録有形文化財に登録
されている。大正元年完成。設計は伊藤忠太。門扉は大扉と左右に小扉があり、大扉上部(貫(つら
ぬき)部分)の模様は、太平洋上、東天の雲間から上る旭日(朝日)と怒濤の波しぶきがモチーフで、
青年(学生)の未来に向ける意気溌溂として雄大な気概をイメージして造られているとか。大扉下部
の模様は「青海波」をあしらっている・
 開門時間は大扉と左小扉が7時~18時、右小扉が7時~0時半で、車の通行は不可、自転車とオ
ートバイは通ってもよい。正門の開門時間中は、門脇の守衛所に守衛が常駐しているので、案内はし
てくれる。

 
学問の木(カイノキ)
 正門脇に植えてある楷の木をいう。この木は、ウルシ科カイノキ属の落葉高木。同じウルシ科のピ
スタチオとは同属で近縁。別名カイジュ、ランシンボク(爛心木)、トネリバハゼノキ、ナンバンハ
ゼ(南蛮櫨)、クシノキ(孔子の木)。中国では、黄連木とも呼ばれる。
 規則正しく直覚に枝分かれすることや小葉が綺麗に揃っていることから、楷書に因んで名付けられ
たとされる。別名のクシノキは、山東省曲阜にある孔子の墓所「孔林」に弟子の子貢が植えたこの木
が代々植え継がれていることに由来する。また、各地の孔子廟にも植えられている。このように孔子
と縁が深く、科挙の進士に合格したものに楷の笏を贈ったことから、学問の聖木とされる。

   学問の木
   Pistacia chinensis Bunge
   1999・1・26
   寄贈 東京大学理学部小石川植物園


■銀杏並木
 正門を入ると安田講堂に向かって浜尾総長が植えさせた銀杏並木が真っ直ぐ続いており、季節や時
刻によってさまざまに印象が変わる。日中には写真撮影やスケッチをする方の姿も見られるように、
東大を象徴する風景の一つとなっており、夕方は明るさを抑えた柔らかい光を放つ照明がロマンチッ
クな空間を演出する。11月末~12月にかけては金色に染まった銀杏が見頃となる。落葉の絨緞を
歩きながら、ゆっくりと物思いにふけるのも悪くないかもね。この銀杏並木の左右は法学部で、その
正面に安田講堂がある、東大のシンボルマークは銀杏の葉。実にここは東京大学の東京大学たるとこ
ろなのだ。
 正門から大講堂(通称:安田講堂)までの約200mの銀杏並木は、明治38年には、浜尾新(あら
た)代総長は、『正門を入ったら万人自ら襟を正すような厳粛な雰囲気にしたい』との意向から、小石
川植物園長松村任三(じんぞう)博士に命じて、周囲約30cmの銀杏を移植させた。そして浜尾総
長の意匠を汲み、工科大学教授伊東忠太博士が銀杏並木に至る正門を完成させたのが、同45年。東
大の銀杏並木もまた、明治神宮外苑銀杏並木に先んじ奥行きを誇張するために正門手前より大講堂に
向かい銀杏の木に高低をつけ、天に向かい円錐に刈り揃えられている。こうした技法が一般に知れ渡っ
ていたか、否かは判らないが、銀杏並木のある神宮外苑を造苑した折下吉延と藤井真透の2人は、東
京帝大在学中に、東大正門の銀杏並木造営を間近に見ていたことは確かだ。


■法学部・文学部
 
法学部・大学院法学政治学研究科

 昭和26年に従来の学科が類に改称された。類によって必修科目に多少の相違が見られるが、他学
部の学科ほどの差はない。進学振分けは類を区別せずに行い、3年に進学する前に各自の希望で類に
分かれる。法学部自治会の通称を元に法学部のことを緑会と呼ぶことがある。因みに法学部自治会の
通称は、東京大学法学部のスクールカラーが緑であることに由来している。法学部の講義は駒場開講
科目も含め大教室で行われるものが多いが、平成18年度進学者より演習(少人数のゼミ)が必修と
なった。
   第1類(私法コース)
   第2類(公法コース)
   第3類(政治コース)
 大学院の法学政治学研究科は、平成3年東京大学で最初に大学院重点化された研究科だ。公法専攻
・民刑事法専攻・基礎法学専攻・政治専攻の4専攻が、同16年に現在の2専攻に再編された。
   総合法政専攻
   法曹養成専攻(法科大学院)(専門職学位課程)

 東大法学部閥
 この学部は、日本の中枢の要員養成所といってもよいし、官僚製造所といってもいい。別には国民
の税金を使いまくることを学ぶところといってもよい。日本はこの極少数の「東大法学部閥」が支配
し、動かしているのだ。彼らの頭に「国民に奉仕する」という概念は全くない。日本という国家は彼
らの思いのまま、気のままなのだ。大久保利通の負の遺産、この法学部出身者を総て芟除せざるんば
日本の新生はない。つまり「脱東大の時代」になったということ、それが「天下り禁止」運動だ。国
家公務員に東大卒業生の採用を行わなず、学究者養成所のみとしての大学とすることだ。彼らの頭脳
は大いにりようすべくだが、彼らの悪心は天下国家に必要はない。自民党にも官僚政治家は多い。摘
み出せ!
 「三権分立」と「議院内閣制」は1つの矛盾だ。国会議員が行政府を担うということは、立法と行
政の癒着でしかない。無論国会議員が総理大臣や国務大臣になって構わない。ならなった時点で議員
資格を失うべきなのだ。立法府は行政府の監視機関でもある訳だから。また「行政府の管理職を経験
した国家公務員は国会議員になることはできない」としなければ、これまた行政と立法の癒着となる
ではないか。天下りで税金喰いをやらなかった清廉なる上級職国家公務員経験者は総理大臣に選ばれ
て国務大臣になり得るとすればよいのだ。県知事も国家公務員が天下っているが、紐付きで「地方分
権」はなかろう。東大法学部閥が形作る権力機械(からくり)をこそぶっ壊さなければ、「改革」は
砂上の楼閣さ。しっかり見据えろよ! 東大法学部はオオクボイズム(官僚主義)を実現するためにこ
そ作られたもので、官僚は公僕ではなくて、独善的支配者なのだということを。日本に政党政治はな
く、民主主義もなく、有るのは一君万民の完成された共産主義があるのみ。政治は国会で行われてい
るのではなく、天皇親政が行われているのだ。野田が突然、消費増税や原発再稼動を叫び出したのは
野田の発想ではなく、野田への指示が強制されたためだ。

 
文学部・大学院人文社会系研究科
 明治10年の東京大学設立時からある学部の1つであり、当初は史学哲学及政治学科と和漢文学科
の2学科で構成されていた。同14年には第一哲学科、第二政治学及理財学科、第三和漢文学科の3
学科となり、同18年には政治学及理財学科が法政学部へ移動して第一哲学科、第二和文学科、第三
漢文学科の3学科となった。その後学科が増設が行われていったが、同38年、に第一類(文化学)、
第二類(史学)、第三類(語学文学)、第四類(行動学)の4類に纏められた(それまでの学科は専
修課程となり各類に属する形になった)。その後も専修課程の増設は行われ、平成7年に類が学科へ
改称され、現在に至っている。各専修課程は「○○研究室」と呼ばれることが多い。なお現代文芸論
専修課程は、平成19年4月に西洋近代語近代文学専修課程を改組して設置された専修課程であり、
一国一言語の枠を超えて近現代文学全般を研究対象とする点が特徴である。
   〇思想文化学科
     哲学専修課程
     中国思想文化学専修課程
     インド哲学仏教学専修課程
     倫理学専修課程
     宗教学・宗教史学専修課程
     美学芸術学専修課程
     イスラム学専修課程
   ○歴史文化学科
     日本史学専修課程
     東洋史学専修課程
     西洋史学専修課程
     考古学専修課程
     美術史学専修課程
   ○言語文化学科 
     言語学専修課程
     日本語日本文学専修課程
     中国語中国文学専修課程
     インド語インド文学専修課程
     英語英米文学専修課程
     ドイツ語ドイツ文学専修課程
     フランス語フランス文学専修課程
     スラヴ語スラヴ文学専修課
     南欧語南欧文学専修課程
     現代文芸論専修課程
     西洋古典学専修課程
   ○行動文化学科
     心理学専修課程
     社会心理学専修課程
     社会学専修課程
 の4学科26課程。中でも「イン哲」は狙い目だ。

 
法文1号館

 登録有形文化財。昭和10年完成。設計は内田祥三。以前は経済学部も使用していたために「法文
経1号館」と呼ばれていた。2階にある法25番教室は講演会などがよく行われる大教室であり、入
学試験の時には教室内の様子がテレビで放映される。同教室は「東大ポポロ事件」の現場としても知
られている。法学部の事務室は法文1号館内にある。

 
法文2号館

 登録有形文化財。昭和13年完成。設計は内田祥三。以前は経済学部も使用していたために、法文
経2号館と呼ばれていた。法文1号館と法文2号館は安田講堂を突き当たりとする道を挟んで左右対
称に設計されており、通りに直角に両建物を横切って古風なアーケードが設けられ、内田ゴシックの
真骨頂を示している。列柱には古代ギリシャ風の彫刻が刻まれ、現代では考えられない贅沢な造り。
地下には、銀杏メトロ食堂(旧第一食堂)や東大生協第一購買部などの店舗が設置されている。
 なお文学部の事務室が法文2号館内にある。

 法学部3号館
 登録有形文化財。昭和2年完成。設計は内田祥三、清水幸重。

 法学部4号館
 平成9年完成。設計は大谷幸夫。総合図書館前の広場西側(総合図書館から見て左側)にある建物
であり、東側の文学部3号館と同時に建設された。

 
梅健次郎博士追慕植樹碑
 正門を入ったところのテラスというか、法4号館前のパーゴラのところにある休憩コーナーの脇、
平成22年に生誕150年・没後100年になるのを記念して、博士の愛した木斛(もっこく)を植
樹した。


   梅健次郎博士追慕植樹碑

 銘文は碑の右側にある。


   法学博士梅健次郎先生
    旧松江藩の人
    萬延元年六月誕生明治四十三年
    八月薨去 享年五十一
    民法の大家尓して明治二十三年八月
    以降薨去に至る迄本大學教授た里
    又明治二十六年四月以降法典調査
    会尓在りて新法典乃編纂に參與
    し多大能功績あり


 
法学政治学系総合教育棟
 平成15年完成。正門脇にある。主に法科大学院が使用している。この建物は全面ガラス張りとなっ
ているのが特徴だ。

 ※総合研究棟

 農学部地区にある。法学部・文学部が同居。

 文学部1号館・2号館は、法文1号館・法文2号館。

 
文学部3号館
 昭和62年完成。設計は大谷幸夫。総合図書館前の広場東側(総合図書館から見て右側)に建設さ
れた。法文2号館のアーケードから医学部2号館(本館)前に至る街路の上に建設されたため、法文
2号館と類似するアーチを採用するなど、周囲の景観との調和を意識した建物となっている。

 赤門総合研究棟
 赤門を入った右手の建物。経済学部も同居している。

 
※文学部アネックス
 浅野地区にある。
 


浜尾新の銅像
 法文2号館と安田講堂の南、育徳園の北側に食い込んで建てられている、昭和7年堀進二の作。東
京大学の発展に一生を捧げた浜尾新(あらた)は、嘉永二年(1849)四月二十日兵庫県は豊岡市
京町に、豊岡藩江戸詰めの下級武士浜尾嘉兵治の子として生まれ、5歳の時父を失った。14歳の時
藩主夫人が豊岡に帰ることになり、浜尾は母親ゆうと同行し、豊岡で生活することになった。幼くし
て藩に出仕して、父と同じ記録係を勤めた。藩邸の東側には武術の稽古場と藩校「稽古堂」があり、
浜尾は文武両道に励んだ。また藩邸の北側一帯は武家屋敷で豊岡藩の頭脳集団の住居でもあった。家
老の船木克己、京大学医学部名誉教授猪子止か之助(いのこしかのすけ)、東京大学法学部教授の和
田垣謙三、東京大学医学部眼科の権威河本重次郎、文部大臣の久保田譲、政界のご意見番古島一雄な
ど明治・大正に活躍する秀才たちがごしゃまんといたため、彼らとの交遊は浜尾の人間の幅を広げて
いく要因となった。但馬聖人・池田草庵は稽古堂に出張して講義し、藩の子弟たちに多くの感銘を与
えた。浜尾の知的人格形成は草庵によって形成されたといってもよいだろう。豊岡藩では人材育成の
ために藩費遊学制度を作って廃藩まで、延べ11人の優秀な人材を江戸へ送り勉強させた。浜尾は2
0歳の時選ばれて慶應義塾・大学南校(東大)に学び、主としてフランス語を専攻した。その東京大
学舎監として学生たちの世話係を務める一方、アメリカにも留学もした。同10年出石町出身の加藤
弘之は開成学校(のちの東京大学)の綜理(総長)を命じられ、浜尾は副綜理として、加藤とコンビ
を組んで東大の運営と改革に献身した。その後文部省学務局長も務め、教育改革の一環として美術教
育振興のため、上野に美術学校(東芸大)を創立させた。同26年加藤弘之は東京大学総長を辞任し
、後任に浜尾を推薦、浜尾は45歳にして東京帝国大学総長に就任した。その後少く文部大臣を務めた
後、再び東京帝国大学総長を務めた。加藤・浜尾の同郷コンビは「東京大学育ての親」といえる。
 
浜尾が植えた銀杏並木は東京大学100年の歴史を物語っている。

   
濱尾新先生像

   濱尾新ハマオアラタ
   明治・大正期の教育行政家。但馬国豊岡藩士の子として江戸藩邸で生まれる。慶応義塾、
   大学南校に学ぶ。明治6年アメリカに留学し、翌7年帰国して東京開成学校長心得になり、
   以後同校長補、東京大学法理文三学部綜理補として東京大学創設初期に尽力する。同20
   年ケンブリッジ大学より栄誉学位を受け帰国し、文部省専門学務局長となる。農商務省の
   東京農林学校を廃止して、帝国大学評議会と調整をはかり、農科大学設置に尽力する。同
   26年文相井上毅の懇請によって、第3代帝国大学総長となる。講座制を帝国大学に導入
   し、大学教授会自治の礎を築いた。同30年、約2ヶ月間ながら松方内閣の文部大臣を務
   める。女子教育の奨励などを唱えた。同38年第8代東京帝国大学総長となる。総長在任
   は合計で11年間に及び、帝大総長を象徴する存在となった。土木総長とも称され、大学
   キャンパスの整備、とくに大学のシンボルとなる銀杏並木の植林を推進したとされる。昭
   和8年遺功をたたえる濱尾像が建立された。
 


■なんじゃもんじゃの木

 安田講堂脇の坂道、給水ポンプの隣にある。本名を「ヒトツバタゴ」という。降り積もる白雪のよ
うな花を付ける。中国、朝鮮、台湾などに分布しているが、日本では自生のヒトツバタゴをあまり見
かけなかったことから、その名前を知る者が少なく、「何じゃ?」「何ちうもんじゃ?」と呼ばれた
ことから「なんじゃもんじゃ」と呼ばれるようになった木の1つなんだそうだ。神宮外苑とか、杉並
の大宮神社とか、新井薬師とかにあるよ。


中央食堂
 安田講堂の裏手にある。昭和51年完成。安田講堂前広場の地下に設置されている。内部がドーム
状になっているのが特徴。
 


■ローソン安田講堂店

 安田講堂北側の建物にある国立大学構内第1号店。平成17年3月31日開店。突然出来たように
思われる「東大ローソン」だが、平成16年4月に国立大学が国立大学法人化されたことにより、そ
の資産運用を大学の独自の判断でできるようになったことによるものであり、その恩恵が初めて学生
に目の見える形で実現したものだ。IC学生証ポストペイ機能が使える。 
 


安田講堂(大講堂)

 本郷7丁目3番1号の本郷キャンパスの正門を入った正面にある東京大学のシンボル的存在。東大
には初め講堂がなく、浜尾新が総長になると、大講堂建設を志し、現在地を敷地とする計画で努力し
た。しかし政府はそれを認めなかった。大正10年5月財界の雄安田善次郎が、時の総長古在由秀を
訪れ、匿名を条件で講堂建設費100万円の寄付を申し出た。諸手続きを経てその寄付を受領し、
京大学建築学科の建築家、内田祥三(のち総長)が基本設計を行い、弟子の岸田日出刀が担当、同1
1年12月基礎工事に着手した。
ところが同12年9月1日の関東大震災で建設資材の多くが焼失し
たため、工事を一時中止し、翌13年10月上棟式を行い、同14年完成して7月6日竣工式が挙行
された。初めは条件通り「講堂」としか呼ばれていなかったが、安田が、神奈川県大磯の別邸で右翼
に暗殺されたため、彼を偲び正式に「安田講堂」と呼ばれるようになった。
 玄関に黒ずんでいる箇所と、はげかかった箇所があるが、これは東大紛争最中の昭和43年、安田
講堂事件で警察と学生らが対立した時に投げつけられた火炎瓶の跡だ。
講堂内部も随分傷んだが、昭
和63年~平成6年にかけて、再び旧安田財閥(みずほフィナンシャルグループ)の寄付により改修
工事がなされた。現在も卒業式と五月祭、学術講演会に使われる以外、一般公開は行われていない。
 


東大紛争━安田講堂事件
 昭和40年代前半、高度経済成長の裏で激化の一途を辿っていた大学生による第二次反安保闘争と、
時を同じくして全国の国・公・私立大学において、全共闘や共産党より凶暴な新左翼の学生が徒党を
組み、授業料値上げ反対・学園民主化などを求めて、武力闘争を展開する学園紛争(闘争)が湧き起
こった。全共闘の学生たちは大学当局との団体交渉で自分たちの主張を強硬に唱え、それが認められ
ない場合には大学構内に立て籠もり、机や椅子、書庫などでバリケード封鎖という強硬手段に訴えた。
こうした学園紛争は熱病のように全国に飛火し、最盛期には都内だけでも55の大学がバリケード封
鎖に入り、深刻な社会問題に発展していった。真剣な者もいたが、大半の者は面白半分、青年によく
ある憂さ晴らしで、それがまた別に問題を起こしていた。手当たり次第に女子学生とセックスができ
るというので、思想性も政治性もなく参加する者もいた。
 その中で、東京大学においては、医学部の学生が登録医制度反対などを唱え、いわゆるインターン
闘争に始まる「東大紛争」を展開した。その後闘争さらには激化し、昭和43年3月12日に医学部
総合中央館を、3月27日に安田講堂を一時占拠し、翌日予定されていた卒業式は中止を余儀なくさ
れた。6月月15日再び医学部学生が安田講堂を占拠し、大学当局大河内一男総長は警察力を導入し
これを排除したが、これに対して全学の学生が反発し、7月2日、安田講堂はバリケード封鎖された。
以後大学当局は打開策を弄したが、却って火に油を注ぐ結果を招き、東大全学部ストライキに突入、
主要な建物多数の封鎖が行われ、11月大河内総長以下全学部長が辞任した。後任として法学部の加
藤一郎教授が総長代行に就任し、同44年1月10日、国立秩父宮ラグビー場にて「東大七学部学生
集会」を開催。日共系(民青)や学園平常化を求めるノンポリ学生とは交渉によりスト収拾を行うこ
とに成功したが、依然占拠を続ける全共闘学生との意見の合致は不可能と判断し警察力の導入を決断、
1月16日警視庁に正式に「機動隊による大学構内のバリケード撤去」を要請した。
 警視庁警備部は8個機動隊を動員し、1月月18日午前7時頃医学部総合中央館と医学部図書館か
らバリケードの撤去を開始、投石・火炎瓶などによる学生の抵抗を受けつつ、医学部・工学部・法学
部・経済学部等の各学部施設の封鎖を解除し、安田講堂を包囲、午後1時頃には安田講堂への本格的
な封鎖解除が開始された。しかし強固なバリケードと学生の予想以上の抵抗に機動隊は苦戦を強いら
れ、午後5時40分警備本部は作業中止を命令。18日の作業は終了した。2日目は翌日の午前6時
30分、機動隊の封鎖解除が再開された。この日も学生の激しい抵抗があったが、午後4時前に突入
した機動隊が3階の大講堂を制圧し、午後5時46分屋上で最後まで抵抗していた学生90人を検挙。
東大安田講堂の封鎖解除は完了し機動隊は撤収した。この攻防戦の様子は、浅間山荘事件同様、テレ
ビで中継されたので、噛り付いて見ていた国民も多く、忘れられない事件として記憶に残っている。


■学生自治会、全学連(民青系)脱退

 戦後の学生運動の象徴だった全学連(全日本学生自治会総連合)に所属する東京大学教養学部学生
自治会が、全学連と都学連(東京都学生自治会連合)から脱退することを代議員大会で決定した。同
自治会は理由について「日本共産党による全学連と都学連を通じた不当な支配から脱却するため」と
している。同自治会は全学連の中核的存在。関係者は「全学連にとって存続に関わる問題で共産党勢
力の凋落(ちょうらく)を裏付ける動き」と指摘している。
 全学連は現在、5つの党派が独自に名乗っているが、同自治会が所属していたのは最大組織とされ
る共産党系の日本民主青年同盟系(民青系)全学連。同自治会執行部によると、共産党は長年、学生
党員を正副委員長に就任させることで、党の指示通りに自治会が動くよう画策。直接または全学連、
都学連を通じて署名活動を指示するなどしてきたという。
 平成23年秋、中国籍の委員長を中心に脱退へ向けた議論が高まり、執行部内の党員も党に反旗を
翻して同調。同24年6月14日に開かれた代議員大会で脱退が決議された。しかし共産党東京都委
員会、全学連共に「不当な介入は一切ない」とした。

 全学連
 各大学にある学生自治会の全国組織。学費値上げ反対闘争を背景に、昭和23年に約15
0大学、20万人以上で結成されたが、徐々に対立を深め、共産主義者同盟(ブント)などの各派に
分裂。新左翼系は無党派学生らと全共闘を結成し安保闘争に参加するが、抗争などで弱体化した。民
青系全学連は現在、活動実態のある加盟数を37としているが、実際は10程度とされる。最早全学
連に昔日の勢いはない。権力によって丸め込まれ、学生は生気を奪われてノンポリばかり。これじゃ
あ権力にとって都合はいいが、日本の未来は絶望的だ。権力は最早半島人の為すがままよ。
 集団的自衛権、ユダヤの手先安倍晋三は、自衛隊をドンバチの戦闘の中へ放り込もうというのに、
全学連はウンともスンともいわず、安倍の言いなりに任せている。安倍は朝鮮半島に最も近い山口県
の人間で、日本人ではないことを頭に入れておくべきだ。全学連が静かなのは、これが自然で、全学
連運動はユダヤが在日外国人を使って起こしていたものだからだ。全学連は動かない。真っ当な日本
人の若者が、戦場に駆り出されて血に塗れて死ぬ日も近い。その時、在日外国人は、のうのうと日本
で利権に群がり利益を漁り捲るだろう。税金を納めずに・・・
 


■小柴昌俊先生ノーベル物理学賞受賞記念碑

 安田講堂の裏、評判の悪い理学部1号館との間の植込みを整備して作られた猫の額ほどの小柴公園
に公園造成と一緒に建てられた。小柴昌俊名誉教授は、平成14年「天体物理学、特に宇宙ニュート
リノの検出に対するパイオニア的貢献」によりノーベル賞物理学賞を受賞した。東大出身の受賞者で
は、文学賞の川端康成・物理学賞の江崎玲於奈・平和賞の佐藤栄作に続いて4人目。後に物理学賞の
南部陽一郎がいる。写真入りの記念碑に、

   小柴昌俊先生ノーベル物理学賞受賞記念
   宇宙ニュートリノの検出にパイオニア的貢献
   小柴昌俊理学部名誉教授は、岐阜県神岡鉱山の地下に建設したカミオカンデ検出器を用い
   て、1987年太陽から来るニュートリノの測定を行い、太陽のエネルギーが核融合によ
   ることを実証した。同年2月には、人類史上初めて超新星爆発からのニュートリノを捕ら
   えた。
    これらにより、ニュートリノを用いる新しい活発な研究分野を創り出し、素粒子物理学
   と天文学に重要な発見をもたらした。

 
ニュートリノ

 素粒子の内の中性レプトンの名称。中性微子とも書く。電子ニュートリノ・ミューニュートリノ・
タウニュートリノの3種類、若しくはそれぞれの反粒子をあわせた6種類あると考えられている。ヴォ
ルフガング・パウリが、 中性子のβ崩壊でエネルギー保存則が成り立つようにその存在仮説を提唱し
た。「ニュートリノ」の名は、β崩壊の研究を進めたエンリコ・フェリコが名づけたものだ。フレデ
リック・ライネスらの実験によりその存在が証明された。

 
小柴昌俊先生ノーベル物理学賞受賞記念植樹
 安田慊堂裏。

   
小柴昌俊先生
   ノーベル物理学賞受賞記念植樹

   カイノキ(楷の木)
   Pistacia chinensis Bunge
   平成15年1月16日

 
梶田隆章ノーベル物理学賞受賞
 平成27年10月6日、東京大宇宙線研究所教授の梶田隆章教授(56歳)のノーベル賞受賞が決
まった。平成23年9月「トリノに質量があること」を発見、それが受賞理由だ。小柴昌俊の門下で
子弟での受賞となった。これは日本初。
 梶田が、今、最も力を入れているのは、100年近く前にアインシュタインが存在を予言した重力
波の直接観測だ。時空の歪みが伝わる現象で検出が難しく、成功すればノーベル賞は間違いない。ス
ーパーカミオカンデの近くに建設した巨大な地下望遠鏡「KAGRA」(かぐら)が年内にも試験運
転を開始。29年度には本格観測に入る。


■梶の木

 今では随分減ったそうだが、構内には梶の木が、かなり沢山植えられていた。いまでも、理学部2
号館の向かい側の建物や三四郎池の周りには残っている。この梶の木は、特殊な形をしているので、
すぐに判るが、国語辞典にも絵が載っており、学問にとって意味のある木なのだ。他の植物で、墨書
できる葉は無いがが、梶の葉だけは墨で文字が書ける。大きな葉なので、手習いができることから、
平安時代以来、学生のいるところには、紙よりもずっと安価なものなので、沢山植えられてきた。彼
の冷泉家では、七夕に和歌を書いて梶の葉を星に手向ける行事が今も残っているとのことだけが、こ
の伝統を受継いだものだろう。因みにこの梶の木は茎を織物にもしたようで、百人一首の持統天皇の
和歌に詠まれた「春過ぎて、夏来にけらし白妙の」の「白妙の衣」は、梶の繊維だといわれている。
 


■理学部
 理学部の基本的な教育・研究内容である理学は、自然現象の仕組みを解明したいという人間本来の
知的欲求から出発し、次第に体系つけられてきた学問であり、これまでに新しい自然観を次々と生み
出し、それを元にして工学、医学、薬学、等の応用諸自然科学の発展を支えてきた。理学の諸分野に
おける研究の成果は、それ自体が人類の知的資産の基盤となるだけでなく、数多くの応用的な科学技
術の発展の動機となり続けてきている。さらに新しい素材やエネルギーの開発、グローバルな情報ネ
ットワークの構築、宇宙や地球環境と人類との調和、バイオテクノロジー等の重要課題の解決のため
に理学の役割は近年益々増大している。これらの理学の諸分野は、その学問の進歩と共に分野間の関
係は密接なものとなり、新しい研究分野が築かれることも多くなってきている。
 東京大学理学部に於いては、このような理学を担う人材養成に当たって、夫々の専門分野の基礎知
識を体系的に身に付けさせる一方、狭い分野の知識のみに偏らず、柔軟な発想が出来るような人材を
養成するための教育を行うことを目指している。理学教育の本質は、既に得られた知識を書物で読ん
だり、多くの学生を対象とした大教室での講義を聞いただけでは不十分であり、教育の現場を担う教
員達によって常に第一線の研究活動が行われており、そのような学問的な雰囲気の中で、個別教育・
少数授業・セミナー等での教員との人間的な接触を通じて、学生が自主性を以て真に創造的な学問の
道を学ぶことにある。また理学の研究・教育においては、理論と、実験・観測・野外調査は不可分な
ものであり、理学の分野で活躍できる人材を養成するためには、実習や実験を通じて最上の教師であ
る自然に学生が自ら問いかけ、思索することの重要性を学ぶことが必須だ。「理学」に関する認識か
ら要請される理学部での教育の目的は、
 ①.自然科学を中心とする諸分野の第一線で先端的な研究を行う研究・教育者
 ②.産業界の要請及び諸研究開発機関などからの需要に応じた創意ある人材
 ③.社会の諸方面において理学的素養をもって働く人材
 の養成にある。①は学部卒業後大学院に進学し、将来は大学の学部、研究科、研究所等の大学関係
や諸研究機関に於いて、第一線の開拓的な研究・教育を行うこととなる人材の育成だ。研究者、教育
研究者の養成は、理学部設立当初以来の最も重要な教育目的であり、理学部の大学院への進学率の高
さからも明らかなように、学生にとっても理学部進学の重要な動機となっている。一方、近年の科学
技術の社会における重要性の増大に伴い、②の創意ある研究者、技術者に対して社会や産業界が寄せ
る期待は大きくなっている。また、③に関しては、文化の向上に伴って出版報道関係等の文系の様々
な分野においても、しっかりした理学的素養を身に付けた人材の活躍が期待されており、最高水準の
人材を社会へ送り出し、人類社会に重要な貢献をなすことも、理学部教育の重要な目的だ。

■理学部・大学院理学系研究科
 明治10年の東京大学設立時からある学部の1つであり、特に化学科はこの年に3名の卒業生を出
した唯一の学科だ。当初は数学科・物理学科・化学科(純正化学、応用化学)・生物学科(動物学、
植物学)・星学科・工学科(機械工学、土木工学)・地質学科・採鉱冶金学科の8学科で構成され、
また学部設置とともに小石川植物園が東京大学理学部附属施設となった。同18年には、工学科およ
び採鉱冶金学科が新設の工芸学部に移り、その翌年には数学科、星学科、物理学科、化学科、動物学
科、植物学科、地質学科(同40年地質学科と鉱物学科に分割)からなる「帝国大学理科大学」とな
り、同時に臨海実験所も設置された。大正8年に東京帝国大学理学部となった後は、地理学科(大正
8年設置)、天文学科(同年星学科を改称)、地震学科(同12年の関東大震災後に設置、昭和16
年地球物理学科に改称)、人類学科(昭和14年設置)と学科の新設・改称が行われたが、同24年
に新制東京大学理学部となる際に学科の統合が行われ、数学科、物理学科(物理学・天文学・地球物
理学の各課程)、化学科、生物化学科(動物学・植物学・人類学の各課程)、地学科(地質学・鉱物
学・地理学の各課程)となった。物理学科の各課程は同42年に分割されてそれぞれ独立した学科と
なったが、そのうち地球物理学科は、平成3年に理学部附属地球物理研究施設と統合して地球惑星物
理学科となった。また地学科は、同18年度に改組され地球惑星環境学科となった。地学科時代には
地質学・鉱物学コースと地理学コースのコース分けがあったが、地球惑星環境学科ではカリキュラム
が一本化されコースの区別はなくなった。
 生物化学科は、化学科、生物学科の一部の講座と理工学研究所(現宇宙科学研究所)の一部を改組
して昭和33年に設置された。情報科学科は、同45年に設置された理学部附属情報科学研究施設を
改組して同50年に設置された。平成19年には生物情報科学学部教育プログラムを発展させて日本
の大学では初めての生物情報科学科を新設し、同21年度進学者から受け入れを開始している。
 大学院物理学系研究科は、理学専攻・天文学専攻・地球惑星科学専攻・化学専攻・生物化学専攻・
生物科学専攻の6専攻。

 
附属施設

 植物園(小石川植物園)・同日光分園(日光植物園)・臨海実験所・スペクトル化学研究センター
・地殻化学実験施設・天文学教育研究センター・同木曽観測所・原子核科学研究センター・ビックバ
ン宇宙国際研究センター・超高速強光子場科学研究センター・遺伝子実験施設(昭和58年全学セン
ターとして設置されたが、平成20年から理学部に移管)。


理学部1号館(中央棟・西棟)

 安田講堂の裏にある東大で最も高い建物。小柴ホールがある。

 山川健次郎像

 理学部1号館西棟の正面玄関前にある。本郷キャンパスにある14の銅像の中で最も新しい。平成
18年12月21日山川の孫服部艶子・曾孫福田宏明から寄贈され、佐藤慎一理事・副学長、岩澤康
裕理学系研究科長、副研究科長および物理学専攻長など関係者出席の下、寄贈者の福田および服部よ
り岩澤研究科長に胸像が手渡され、理学部1号館前の植え込みに作られた台座に設置した。東京帝国
大学理科大学校(東京大学理学部)で日本人初の物理学教授となった、明治14年日本人として初め
て物理学の教授に着任、以後東京帝国大学総長を2度(明治34~38年、大正2~9年)務めた。
イエール大学の卒業だが、そのホームページによれば、日本において最初のX線研究を行っている。
在職期間に、田中舘愛橘、長岡半太郎、寺田寅彦はじめ日本の物理学の基礎を作った面々を輩出。会
津の出身で少年時代には白虎隊にも属していた。後に九州帝国大学、京都帝国大学の総長も務めた。

   財團法人日本教化團體聯合會々長
   山川健次郎先生ノ喜壽ヲ祝褥シ
   記念ノ爲ノ之ヲ贈ル
   昭和五年孟冬 男爵山川健次郎喜壽祝賀會

 断り書きが建てている。

   本胸像は、山川健次郎氏の曾孫である福田宏明氏より
   平成18年12月に寄贈されました。

 大学の説明板は以下の通り。


   
山川健次郎
   1854~1931
   会津若松の山川重固の三男として出生。斗南藩学で英学、米国エール大学で土木工学を学
   ばれた。帰国後、明治9年に東京開成学校の物理学教授補を務められ、同14年に東京帝
   国大学総長を務められた。大正12年に再任。また九州帝国大学及び京都帝国大学でも総
   長を務められ、大正4年には男爵となった。本胸像は、山川健次郎氏の曾孫あたられる福
   田宏明氏宅に設置されていたものが、理学系研究科に寄贈されました。
   清廉潔白な人柄は多くの人の信頼を集め、社会を導く人という意味で「星座の人」と呼ば
   れた。大学が自治問題に揺れる中、2度に亘り東京帝国大学総長を務めた。2度目の在任
   中に自治紛争で揺れる京都帝国大学にも総長を依頼され、10ヶ月に亘って東京帝国大学
   と京都帝国大学の総長を兼ねた。九州帝国大学初代総長、貴族院勅選議員、東宮御学問所
   評議員ほか多くの要職を務め、大正4年に男爵の爵位を授与された。多くの弟子を育てた
   ことでも知られており、学問と教育に情熱を注ぎ日本の礎を築いた。
 


■新領域創成科学研究科本郷分室(旧理学部1号館)
 
新領域創成科学研究科は関連する学部をもたない大学院(独立研究科)として、東京大学既存の総
ての部局の全面的な協力のもとに平成10年に設置された。既存の諸専門領域を基礎に遡って組み替
えた領域横断的な教育と研究、すなわち「学融合」を理念に掲げ、新しい学問領域の教育研究を行っ
ている。本館は平成13年に造成された柏キャンパスに移転。それまでは本郷キャンパス内の各所に
間借りしていて、同18年には分室を残して完全に移転した。


 ※理学部2号館

 赤門の方にある。


■理学部3号館

 浅野地区にある。


■海底地震計
 安田講堂と理学部7号館の間に展示してある。海底地震計は海底ケーブルに付属して設置されるが
これが大変なことになっている。太平洋から印度洋、日本海、オホーツク海に網の目のように張り巡
らされている。東シナ海も南シナ海もだ。それに地震計がセットされている訳だが、これが気象庁に
集約されて一括管理されている。地震計には水中環境も探るセンサーが付いているため、水中水上の
浮遊物・移動物の情報も把握することになる。ということはアメリカの原子力潜水艦の隠密行動も総
て把握してしまっているって訳。これが判明したのはつい最近のことで、アメリカ軍が驚愕し、茫然
自失となり、対策に苦慮している。センサーは6、70万個あり、総て深海で取り除くことはできな
いし、日本に無効にしろともいえないし。アメリカが日本の属国となる日も近いか?
 当然中国、韓国、北朝鮮の船舶の動きは、既に30年前から総て把握していたということだ。


■理学部化学東館・化学本館・化学西館・4号館・7号館
 「東大構内」バス停の近くにある。赤煉瓦で覆われたこの建物は大正5年竣工。東京大学における
最初の鉄筋コンクリートによる建築で、関東大震災の被害を殆ど受けなかった。東大最古の校舎で、
内田ゴシックの建物群よりもさらに長い歴史を持つ。設計は山口孝吉。平成6年に内部が改装された。
元々化学教室(化学科)は理科大学本館内にあったのだが、施設面積の拡充のため独自の校舎を建設
し移転した。それが現在の化学東館だ。現在は講座増設により化学教室の規模が拡大したため、隣接し
て昭和37年完成の化学本館・同58年完成の化学西館が建てられ一体的に使用されている。化学西
館(化学西館が建設されるまでは化学本館)が「化学新館」と呼ばれるのに対して、化学東館は「化
学旧館」とも呼ばれる。
 なお化学教室のこれら3館と理学部4号館、理学部7号館は、時計回りに、

   化学東館→化学本館化学西館4号館7号館→化学東館
 の順に一周つながっており、これらの建物を総称して「理学部化学団地」と呼ぶことがある。化学
東館は古典主義建築であり(理科大学本館と建築様式を合わせた)、内田ゴシックの建物が多い本郷
キャンパスでは異彩を放っている。L字型の建物であったが、現在は上述のように両端で別の建物と
繋がっている。バス停のある道路側に玄関があるが、現在は閉鎖されており、両端で繋がった理学部
化学本館または理学部7号館の入口から出入りするようになっている。将来的には理学部化学館一帯
を再開発して高層建造物を建設する構想があるが、化学東館は保存される予定だとか。
 ほんとかいな!

 
エドワード・ダイヴァース像

 化学東館の南側にある。明治6年来日。工学寮、工部大学校、理科大学で化学を教授した英国人。
来日以前から「次亜硝酸塩の発見」等の業績を持つ。同18年イギリス王立協会会員。同32年帰国。
東京帝国大学名誉教師称号を贈られ、翌33年肖像彫刻が建立された。

   Prof. Edward Divers
   1837~1912
   ダイヴァース博士は英国で教育を受け、明治6年来日、工部大学校都検(教頭)を経て、
   東京大学理学部が神田錦町から本郷に移った翌年の明治7年に、名称変更された帝国大学
   理科大学化学科の教授に着任、13年間無機化学の教育と研究に多大な貢献をして科学教
   室の礎を築いた。明治32年帰国後も活発な研究活動を続け、英国化学会副会長、工業会
   会長などを歴任した。この年ダイヴァース博士の功績を称えて東京帝国大学名誉教師の称
   号が贈られた。            制作者 長沼守敬(美術学校教授)1900年
   


環境安全研究センター・アネックス(別館)

 工学部3号館の東、理学部1号館の北東にある理学部所属の建物。 


■東京大学出版会

 理学部のエリアにある。東京大学の出版部に当たる財団法人。東京大学総長を会長とし、主に東京大
学の活動に対応した書籍の出版を行う。昭和26年南原繁総長の発案によって、国立大学初の大学出
版部として設立された。学問の普及、学術の振興」を目的に掲げ、大学の研究成果に基づく学術書、学
内向けの教科書・教材、史料編纂所編纂『大日本史料』等の史料集、一般向けの教養書を主として、年
間百数十点を刊行している。教養学部の「基礎演習」のテキストとしても使用している『知の技法』
はベストセラーとなった。
 昭和33年以来「学術書刊行基金」を設置し、若手研究者による研究成果の刊行に対し助成を行っ
てる。理事を学部や研究所から迎えるなど東京大学本体との関係は深いが、独立した組織となってお
り、月一回『UP』というタイトルのPR誌を発行している。


書籍部
 出版会の直ぐ南、テニスコートの傍にあるブックストア。第二食堂のある棟。出版会の書籍はここ
で購入できる。


■東大生協・第二食堂
 理学部のエリアにある。8時~14時半の営業。


■理学系研究科1号館別館A棟・B棟
 道路を挟んで化学東館の東側にある。


■環境安全研究センター(構内ごみ処理施設)
 理学部エリアの学生食堂の東にある理学部所属の建物。昭和50年設置。同52年蛍光灯など水銀
を含む廃棄物の回収システム開始。同53年センター庁舎完成。センター業務開始(廃液回収、処理、
フェライト処理、有機系廃液噴霧燃焼処理)。同54~56年排水中の水銀対策。同61年実験室室
内空気分析でアスベスト検出。アスベスト問題の発端となる。平成元年本郷キャンパスで古紙の回収
・リサイクル試行開始。同5年4月全学で古紙の回収・リサイクル開始。9月「東京大学ごみ宣言」
を発表し、ごみ分別の徹底。同8年工学部で生活系廃棄物のカート方式による新分別収集システムの
試行開始。同10年バーコードによる廃液回収・処理管理システムを運用開始。同11年実験系指定
プラスチックの高炉原料化リサイクル開始。
 


赤門(あかもん)
 キャンパス南西部にあり、本郷通りに面している。同キャンパスの正門とよく間違われるが正門で
はない。旧加賀藩前田家上屋敷の「御守殿門」であり、文政十年(1827)に第13代藩主斉泰子
が第11代将軍徳川家斉の第21女溶姫(やすひめ)を迎える際に造られた。建築様式としては薬医
門であり、切妻造りで、左右に唐破風造りの番所を置いている。国の重要文化財、旧国宝。元の位置
は東へ15mばかりのところだった。
 東京大学の俗称を「赤門」というのは朱塗りのこの門があるからだ。 戦前の日本国内の大学におけ
る異称にも影響を与え、「○門」という異称を持つ大学が増えることとなった。中央大学を「白門」、
日大を「桜門」というが如しだ。また鉄門(てつもん)は東京大学医学部が自ら名乗る異称だが、こ
れは赤門に影響されて付けられたものと推測される。現在の赤門は、重要文化財としての価値が主で
あり、東京大学を紹介するTV番組などでも、その背景に用いられる。
 赤門の開閉時間は、大扉:平日=7時~18時、 土・日・祝日=閉鎖
          小扉:平日=18時~22時、 土・日・祝日=7時~22時
 22時~翌7時の9時間は完全通行止。但し地震等災害の場合はこの限りではない。なお大扉はオ
ートバイの通行はできるが、小扉は段差があるので車両は自転車までだ。説明板は以下の通り。

   赤門
   文政十年(1827)加賀藩主前田斉泰にとついだ11代将軍徳川家斉の息女溶姫のため
   に建てられた朱塗りの御守殿門であり、重要文化財に指定されています。

   This red lacquered gate "Goshuden-Mon" was built in 1827 for the sake of the 11t
   h Shogun Tokugawa Ienari's daughter,Yo-Hime,who married Maeda Nariyasu,the feuda
   l lord of the Province of Kaga.The gate is legally protected as one of the impor
   tant cultural properties of Japan.
 


■パビリオン

 
法学政治学系総合教育棟と情報学環福武ホールの間、法学部4号館の西側にある四阿(あずまや)。
昭和3年博物館の一部として前庭に噴水を中心としたシンメトリー(左右対称)に配置された。後に
この前庭を分断するように法学部3号館が建てられ、もう一方のパビリオン(四阿)は文学館3号館
建設のために取り壊されてしまった。そのため存在が今一意味がない。つまり殆ど存在価値を失って
いるのだが、建築家安藤忠雄がどのように意図し、残したのか判らないが。実際にはこのパビリオン
の存在で、北隣の法科大学院ガラス棟(法学政治学系総合教育棟)とのショックアブソーバーの役目
を果たしている。


■情報学環・福武ホール

 
法学政治学系総合教育棟とコミュニケーション・センターの間にある半地下と地下2階の建物。ラ
ーニングシアター(地下2階)、ラーニングスタジオ(地下2階)3、ラーニング・ラボ(地下2階)、
UTカフェ「ベルトレルージュ」(1階)・学環コモンズ(1階)・テラス(1階)で構成されてい
る。平成20年3月26日竣工。ベネッセ(福武書店)会長福武徳一郎の寄附によって建てられたの
でその名ながある。設計は安藤忠雄。
 


■旧史料編纂所倉庫→伊藤国際学術研究センター

 赤門を潜った右手の塀際にある建物。


■総合図書館

 正門と赤門の中間辺りにある。関東大震災でそれまでの明治25年に建築された煉瓦造りの図書館
が焼失したため、
ロックフェラー財団の寄付を受け、昭和3年内田祥三工学部教授により、鉄筋コン
クリートの耐震設計で再建された。正面デザインは書棚に並ぶ図書の背表紙をイメージしている。
後改築工事を行う予定があるため登録有形文化財には登録されていないが、他の建物同様、歴史を経
た建物だ。
3階に図書館の模型が飾ってあるが、本当に本棚にそっくりだ。ロックフェラーにも同じ
模型を寄贈してあるらしい。
 また正面玄関のファサードには新海竹蔵(昭和5年第17回院展出品作)のレリーフが埋め込まれ
ている。これ以外も館内は階段の大理石や柱や天井のレリーフ、数多くの貴重な美術品などが展示さ
れおり、見飽きることがない。外から窓越しに洋雑誌閲覧室に飾られた美術品の一部を鑑賞すること
が可能だよ。

 東京大学全体の蔵書数は約8635000冊あるが、その内総合図書館には平成18年現在で約1
210000冊あるそうな。平成16年頃までは国会図書館よりも蔵書が多かったそうだ。
キャンパ
スツアーのコースで入ることが出来るが、通常一般利用は許可されていない。身分証明書を提示し、
予め利用目的を明らかにすれば閲覧室など一部の施設利用が可能だとのこと。挑戦してみい!
                     *
 ※戦後新設された学部・研究所を収容するため、南側(赤門側)に大規模な増築が行われた。現在
増築部には教育学部、大学院情報学環(旧新聞研究所)、社会科学研究所、史料編纂所が入っている。
なお増築部にも内田ゴシックのデザイン様式が用いられている。

 
巨大な鶏(ナレースワン大王鶏)

 入口通路に巨大な鶏の彫像が2羽、門番のように建っている。それも色付けされているモニュメン
トだ。決して東大らしくないところが妙!
 東京農大の博物館脇にもある。
 タイのアユッタヤー王朝第19代目ナレースワン大王(1555~1605)に因んだもの。モチ
ーフは「カイ・チョン」と呼ばれる闘鶏用品種の内の1種で、大王の名に因んだ「カイ・ナレースワ
ン」である。ナレースワンは永い間、ビルマ(現ミャンマー)の属国となっていたアユッタヤーに再
び独立をもたらした救国の英雄で、とらわれの身の幼少期にビルマの副王と戦況を占う闘鶏を行った
際に彼の鶏が勝利したといわれている。そしてのちにアユッタヤーを独立させたことから、「闘鶏」
はナレースワンの象徴となった。
 タイ中部のスパンブリーに建立されてるナレースワン大王記念碑周辺には、大小数千体の闘鶏の置
物が供えられている。これは人々が願掛けを行い願がかなったときに寄進をしたもので、そのことか
らも人々のナレースワン大王に対する敬愛の念が窺える。タイの人々にとっては、とても縁起のよい
ものなのだ。


■水煙

 総合図書館前庭中央部にある噴水。五重塔の相輪(仏塔の最上部に飾られる金属製装飾)を象った
ものだとか。「水煙」とは、元来は火炎を象ったものだが、建物の装飾に「火」と称するのを嫌い、
また「火」を鎮める意味合いも込め「水煙」と呼ぶようになったとか。関東大震災時に多くの蔵書が
焼失したことから「二度と火災が起こらないように」願いを込めたらしいのだが、詳細は不明。
 『東京大学史紀要』第21号(平成15年)
、内田祥三談話(1968)聞き手は『作品集』で解
説を書いた村松貞次郎。「内田祥三談話速記録」(三)63頁から抜粋。


   内田「前の噴水の九輪がありましょ。中央に。あれは岸田君がデザインした。あれはどう
   いうものにしようというんで、少し思い切って日本風のものをやったらどうかといって、
   日本風のものにはいろんなものもあるけど、あんまりそれに執着するといけないけれども、
   五重塔の九輪のところなどはいい参考物になるんじゃないかと言ったら、それじゃそれで
   やりましょうかという話で、現代ある九輪はどこのがいいだろうということで研究したん
   ですが、結局僕は薬師寺だったか、そうでなかったかな、何かもう一つの参考になるんじゃ
   ないかというようなことを聞いて、しかしあんまりそれにこだわると、水煙のまねをした
   ということになっちゃうといけないから、ということで、それでそのものを写したんじゃ
   なくて、二、三参考にして岸田君(日出刀)が図を引いたんです」

 とある。意外に適当なアイデアかもな。理屈は後でつけるのよ。一流は。


■史料編纂所・画像史料解析センター

 
附置研究所の一つであり、日本史に関する史料の編纂と刊行を行っている。起源は、寛政五年(1
793)に開設された塙保己一の「和学講談所」とされる。明治維新後「史料編輯国史校正局」「大
学校国史編輯局」「太政官歴史課」「臨時修史局」などと変遷している。明治21年帝国大学(東京
大学)に修史事業が移管されるが、のちに編年史の編纂は中止と決まり、代わって蒐集した史料自体
を編纂、刊行することになり、同28年文科大学(文学部)に「史料編纂掛」が設置される。同34
年に「大日本史料」「大日本古文書」の刊行を開始、現在まで事業が続けられている。昭和4年に現
在名に改称。戦後は、同25年4月に文学部から独立し、同29年より教授・助教授(准教授)・助
手(助教)の教官制となった。
 研究部、図書部、史料保存技術室、事務室から構成されており、研究部は古代史料部門、中世史料
部門、近世史料部門、古文書・古記録部門、特殊史料部門の5部門がある。また附属施設として平成
9年設立の「画像史料解析センター」を持つ。
 


■教育学部
 現在、社会は想像を絶するといってよいほどのスピードで変化しつつある。人によってはこの変化
は明治維新以来の変革だという人もいる。その中で教育を巡る議論も大きく変わりつつある。現代社
会が大きな問題を幾つも抱えているように、教育を巡っても実に様々な深刻な問題が取り沙汰されて
いる。現代社会の大きな問題の多くが実はその根底において教育と繋がっている。深刻な経済状況の
中で、多くの経済学者やビジネスの専門家達が活発に発言し、問題点を明らかにし、解決のための提
言をしているように、教育に関わる部分についても専門家の提言が求められている。
 東京大学の教育学研究科・教育学部はそのような社会的要求に答えるべく、早くから専門家の養成
に力を注いできた。そして、それは基本的には成功してきたということができる。現在、本研究科・
学部を巣立っていった多くの人々が様々な場所や状況の中で積極的に活動を行っている。無論、それ
は日本人に限られる訳ではない。多くの留学生達が学んだ知識や身につけた技術を故国へ持ち帰って
それを活かすべく頑張っているし、現在も様々な国々よりやってきた人々が真剣に勉学に取り組んで
いる。凡る国に於いて、また特に発展途上国に於いて、教育は国家の命運を担う。その意味に於いて
養成された専門家の質が問われることとなる。明治維新期の我国が、財政的に無謀といえるほど教育
専門家の養成のために投資したのもここに理由がある。このことは過激な変革期である現在も十分に
認識しておく必要がある。併し残念ながらそれにもかかわらず、本研究科・学部は本学の他の研究科
・学部や所謂教員養成系の大学と比べてその規模が非常に限られているという事実がある。極めて限
られた人員と施設の中で有能な専門家達を育ててきたが、さらに多くの優秀な専門家達が必要とされ
ている。然もその必要度は益々増大しつつあり、且つ緊急なものとなってきている。教育に関わる関
係領域は非常に拡大し、また人材に対する要求も複雑化・高度化し、その変化も激しくなってきてい
る。そのことに伴い本研究科所属の教員一人一人に対する負担が過重になりつつある。本研究科に於
ける人員の増員と施設の整備が今ほど求められている時代はない。我々が厳しい自己評価を行いつつ
本研究科・学部の拡充を求める所以がここにある。


文学部教育講座 → 教育学部・大学院教育学研究科

 明治20年エミール・ハウスクネヒトが独逸語学・教育学担当として着任。同26年教育学講座設
置。大正8年教育講座5座となる。

 昭和25年に文学部教育学科(教育5座)を独立させる形で教育学部設置。設置当初は教育学科、
教育心理学科、学校教育学科、教育行政学科、体育学科の5学科で構成された。同23年開設予定の
附属学校(旧制東京高等学校尋常科1、2年の生徒募集)の実質的発足。同26年附属学校の名称を
「東京大学教育学部附属中学校・高等学校」を正式とする。同38年大学院教育学研究科を開設。同
43~44年東大紛争。同57年社会科学研究所の教育学部に隣接する2・3・4階部分が教育学部
に移管される。同58年心理教育相談室開設。
 平成元年東京大学御殿下記念館・体育施設の管理運営担当として助手ポスト配置(学内措置)。教
育学部4階西側部分が教養学部(文化人類学教室)より移管される。パリ第5大学との学術交流協定
締結。教育学部創立40周年記念シンポジウム開催。同6年同7年大学院重点化により、従来の5専
攻を改組、「総合教育科学専攻」の1専攻とし、その下に6コースを置く。学部は「総合教育科学科」
の1学科とし、その下に教育学・比較教育社会学・教育心理学・学校教育学・教育行政学・身体教育
学の6コースを置く。 併せて組織の公称を「教育学部・教育学研究科」から「教育学研究科・教育
学部」と改める。お茶の水女子大学と本研究科との学生交流協定締結。農学部キャンパスに新設され
た総合研究棟の4階部分が教育学部の占有となる(心理教育相談室移動)。同8年「大学総合教育研
究センター」を設置。コンピューター担当助手を配置(学部内措置)。ペンシルベニア大学大学院教
育学研究科と本研究科との学術交流協定締結。同9年「学校教育高度化センター」開設。ティーチン
グ・アシスタント制の開始(学部教育の充実)。同10年教育学部附属中・高等学校創立50周年記
念行事。教育学部附属中・高等学校に、学校教育高度化センター分室として「ほっとルーム(カウン
セリング・ルーム)」開設。同11年学校教育高度化センター主催による国際シンポジウム「変動社
会における青少年問題(暴カ・非行・いじめ等)に関する日米会議」の開催。教育学部創立50周年
記念事業(50周年記念誌の発行、50周年記念シンポジウム・記念式典・祝賀会の開催)。教職担
当教授ポストの配当。経済学部裏に新設される文系総合研究棟の建築開始。同12年教育学部附属中
・高等学校の同附属中等教育学校へ移行。同13年教員の任期制の導入を決定(翌年4月より施行)。
同14年21世紀COEプロジェクト「基礎学力育成システムの再構築」が採択され、「基礎学力研
究開発センター」設置。「21世紀COE基礎学力研究開発センター」主催による国際シンポジウム
「基礎学力の形成―研究と実践の展望」の開催。同16年東京大学、大学法人化へ大学院に臨床心理
学コース新設。同17年大学院に大学経営・政策コース新設。同18年学校教育高度化専攻設置、教
職開発コース、教育内容開発コースおよび学校開発政策コースの3コースを新設。学校臨床総合教育
研究センターを「学校教育高度化センター」に改組。医学部1号館の地階および3階の一部が教育学
研究科の占有となる。同19年シンガポール・ナンヤン工科大学国立教育学院と本研究科との学術交
流協定締結。大学院教育学研究科附属心理教育相談室創立50周年記念事業(年報「50周年記念号」
の発行、50周年記念公開講座、50周年記念式典、祝賀会の開催)。北京大学教育学院と本研究科
との学術交流覚書締結。国立ソウル大学師範大学と本研究科との学術交流覚書締結。 同20年度入
学者より総合教育科学科のコース改組が行われ、基礎教育学専修(基礎教育学コース)、教育社会科
学専修(比較教育社会学コース・教育実践政策学コース)、心理発達科学専修(教育心理学コース・
身体教育学コース)の3専修5コース制となった

 
進学振分けに関しては、どのコースも文科3類の学生を中心とした受け入れを行っているが、身体
教育学コースに関してはその研究分野が、全科類進学枠導入以前から学際的であるため、文科・理科
各類から平等に受け入れている。
 東京大学の教育学部はいわゆる教育学系であり、教育学研究者の養成を主目的としているが、定め
られた科目を履修することで教員免許(社会科、地理歴史科、公民科、保健体育科の中学校・高等学
校教諭一種免許状)を取得することもできる。無論他学部でもそれぞれの専攻に対応した教科の免許
を取得できる。なお、東京大学の教職課程は、教育学部が中心となって運営されており、「教職に関
する科目」の大部分は教育学部科目として開講されている。

 総合教育科学科は、教育学・比較教育社会学・教育心理学・学校教育学・教育行政学・身体教育学
の6コース。
 大学院教育学研究科は、総合教育科学専攻が
教育学・比較教育社会学・教育心理学・臨床心理学
・教育創発学・生涯学習基盤経営・身体教育学・大学経営/政策の8コース。学校教育高度化専攻が、
教育開発・教育内容開発・学校開発の3コースだ


■新聞研究所 → 社会情報研究所・情報メディア研究資料センター

 
平成4年新聞研究所を改組し「社会情報研究所」に改める。平成16年大学院情報学環に統合され
た。


■大学院情報学環・学際情報学府・社会情報研究資料センター
 従来の研究科とは異なる形態の大学院組織として、平成12年4月に設置された。この大学院組織
は、研究組織(教員が所属)である情報学環と教育組織(学生が所属)である学際情報学府という2
つの対をなす機構によって構成されている。この大学院組織は、専門深化と恒常性を基本的な特質と
する従来の研究科の限界を超えて、全学に亘る情報関連の諸領域をネットワーク的に連携させる横型
の組織として設置され、情報学分野の総合的な教育研究を先端的かつダイナミックに推進するにふさ
わしい形態として考えられたものだ。その基本的特徴は、組織構成員の流動性と全学的連携、及び研
究組織である情報学環と教育組織である学際情報学府の両立という点にある。 即ち研究組織である
「情報学環」は、固有の基幹教員と、既存の研究科・研究所等から3年乃至7年の期間を以て情報学
環に定員及び身分を異動する多数の流動教員によって構成されている。ここでは多数の分野横断的な
プロジェクト研究を柱に据え、文系理系の区別を越えた情報分野の学融合を目指している。教育組織
である大学院学際情報学府における大学院学生に対する研究指導は、情報学環の基幹教員と流動教員
が行う。授業科目の担当は、この他、他研究科・研究所等に所属する教員にも委嘱。また副指導教員
制の積極的な運用を図ることによって、情報関連の広範な学問分野を覆う幅広い学際的教育を目指し
ている。研究組織であるこの学環は、学際情報学圏と社会情報学圏という2つの学圏から構成されて
いる。それぞれの学圏はいずれも5つの学域からなる。

 
社会情報研究資料センター
 昭和39年1月に当時の新聞研究所に開室された「プレスセンタ-」が、同42年6月新聞研究所
附属施設「新聞資料センタ-」として正式に発足し、平成4年4月に新聞研究所が社会情報研究所に
改組されるにあたって「情報メディア研究資料センタ-」と改称した。同16年4月大学院情報学環
・学際情報学府と社会情報研究所の統合に伴い、「社会情報研究資料センター」と改称した。
 新聞資料を中心に、各種メディア情報資料を研究のために収集整理し、それらの資料を学
内外の研究者が利用することを目的とする。現在収蔵している資料は製本済み原紙約20000冊、
縮刷版約8000冊、マイクロフィルム約45000巻という膨大な数に上る。

 
ユビキタスな社会‐坂村研究室

 今や携帯電話やICタグ埋め込みカードなど、徐々に浸透しつつあるユビキタスな社会とTRON
を担いでそれを推進する坂村健教授。20
世紀に発達した情報通信技術は社会の情報化を加速し、セ
ンサーやアクチュエータ、通信機能を備えたコンピュータをあらゆるモノや場所に埋め込んで活用す
るユビキタスコンピューティングを経て、21世紀には人間社会の凡る場面においてデジタル化され
た情報を活用するユ「ビキタス情報社会」を迎えようとしている。ここでは、ユビキタス情報社会の
基盤を形成し、様々な課題の解決に向け、情報学を核とした技術や社会、経済に亘る幅広い学際的学
問基盤を確立することを目的としているんだよ。
 で、研究の中心テーマは、社会全体に遍在する様々な情報を構築・統御・利用する機構を確立して
人間生活の質の向上に資することだ。従来からも、世界中でデジタル情報に関わる色々な取り組みが
なされてきたが、記述形式が相互に整合しておらず、その利用技術も未成熟なことから、大量のデジ
タル情報の恩恵をいつでもどこでも享受するにはまだまだ至っていない。そこでここでは、様々なデ
ジタル情報を統合する共通の記述基盤や、それをいつでもどこでも利用する情報の利用基盤を確立し、
普及させることを目指しているのさ。
 ユビキタス情報社会の特色はネ、遍在する多様な情報、或いは情報技術が凡る分野に於ける人間の
活動で活用される点にある訳。それは社会や生活を根底から支える一方で、それ自身を大きく変革さ
せる可能性を持っている。でもね、既存の情報科学・情報工学といった研究分野、それをやや広げた
程度の学際研究では、この課題に対処することには限界があるってことよ。ここでは情報科学・情報
工学と、社会情報学をはじめとする人文社会系の諸学問を融合し、国際的に通用する新しい情報技術
基盤研究や情報社会研究、経済研究、法律研究、文化研究、基礎理論研究などを一体化して密に研究を
推進して行ってる。ここでは、大学院情報学環の学際性を最大限に活かし、ユビキタス情報社会を支
える技術基盤を確立する「ユビキタス情報技術研究」をベースとして、更にユビキタス情報技術を社
会に適用した時の諸課題の解決を目指す「ユビキタス情報社会国際研究」、社会に遍在するデジタル
情報のありかたを研究する「ユビキタス情報コンテンツ形成」の3つのプロジェクトを設置し、世界
最高水準のユビキタス社会研究の拠点を形成するのさ。

 ●
トロン・プロジェクト‐坂村研究室

 トロンプロジェクトは、「フォント・トレーサビリティ・システム」を発表した。同プロジェクト
リーダーで坂村健教授が長年取り組んできたOS「トロン」の多文字技術を他のOSでも利用できる
ようにし、多文字問題・外字問題の解決を助けようというシステムだ。
 トロンとは、TRONで、「The Real-time Operating system Nucleus」の頭文字を以て造語
した略称だ。
 日本で利用される漢字の種類はそりゃ膨大で、PCで区別可能な数を遙かに超えている。また字体
の違いを区別できないといった問題も存在する。こういった問題に対して、印刷業界などでは「外字」
を使って文字を追加することで対処してきた。しかし外字を管理するための「外字表」には管理・整
理の手間が掛かり、坂村は外字表の取り違えが原因となるトラブルの存在も指摘する。
 「フォント・トレーサビリティ・システム」は、こういった多文字に関する問題を解決するために
「TRONコード」を利用して全ての文字を区別し、外字や異字体などを管理するものあり、これを
WindowsやMacOSといった既存のOSでも扱うことのできるようにするためのシステムな
のだ。またユビキタスIDを利用して外字表の管理も行うよ。
 TRONコードでは、既存の文字コードに含まれる文字や新たに作成された外字に対しては、TR
ONコードを使って統一番号を付与する。文字コード間での重複や異字体などに関しては、データベ
ースで管理することで対処する。Unicodeなど既存の文字コードでは、微妙に違う2つの漢字
を異字体とするか別の文字とするかを、議論による判断で決定してきたが、TRONコードでは細か
い違いであっても、全ての文字に一意の文字コードを付与することが大きな特徴となっている。坂村
は「(異字体に関する)学問的な研究を否定はしないが、(細かに異なる2つの文字を)区別するか
しないかはユーザが決めることだ」と主張する。異字体データベースに関しては複数の存在も認め、
異字体に関する複数の説に対応できるものとする。TRONコードのコード割り当てについてはウェ
ブサイト「トロン文字収録センター」で公開されており、文字の読み・大凡の画数・部首などから検
索を行うことができ。TRON以外でもTRONコードに収録される文字の利用が可能となっている。
 


■社会科学研究所

 東京大学の附置研究所の一つで、社会科学の研究を行っている。略称は「社研」ISS。昭和21
年南原繁総長のイニシアチブで、「平和民主国家及び文化日本建設のための、真に科学的な調査研究
を目指す機関」として設置された。

 
日本社会研究情報センター

 平成8年5月社会科学研究所の付属施設として「日本社会研究情報センター」が設立された。研究
実証データと研究関連情報を蒐集・作成して提供すること、国際的な研究ネットワークを形成するた
めの情報基盤を構築することを目的とするこのセンターは、「ネットワーク型組織」「調査情報解析」
という2つの研究分野と外国人客員部門を持ち、次のような特色ある活動を行っている。
 SSJデータ・アーカイブ(Social Science Japan Data Archi
ve)は、統計調査、社会調査の調査個票データ(個々の調査票の記入内容、マイクロデータと呼ば
れる)と調査方法等に関する情報を収集・保管し、その散逸を防ぐとともに、平成10年4月から学
術目的での二次的な分析のために学内外の教員、大学院生等に提供を開始している。センターにおい
ても、国内客員(比較経済政策)によりこれらのデータを用いた研究が進められている。またこの活
動の一環として、米国のデータ・アーカイブであるICPSR(Inter-University Consortium for
Political and Social Research)の国内のメンバーとなり、学内の教員、大学院生等にその所蔵デ
ータを提供する一方、ICPSRに加盟している大学に呼びかけ、同11年年9月にICPSR国内
利用協議会を設立し同協議会のハブ機関としてICPSRとの連絡調整と加盟大学へのデータ提供を
している。さらに、同13年2月にはデータ・アーカイブの国際連合ともいえるIFDO(Internat
ional Federation of Data Organizations for the Social Sciences)への加盟が承認された
 


■育徳堂(弓道場)

 社会科学研究所の東、三四郎池の西にある。鉄筋コンクリート造りで、七徳堂と同じ系統の純和風
御殿造り。弓道場としては豪壮過ぎて、不似合い。道場は簡素な和風の建物の方が似合ってる。これ
で弓道界を支配できないなんて、へなちょこでい。
 


■人力車車庫 → 図書館製本所跡

 赤門左脇にあるコミュニケーションセンターのところがそうだった。


■コミュニケーションセンター

 赤門左脇にある。明治43年に人力車の車庫として建設された建物を、国立大学法人化後に改装。
現存する本郷地区キャンパス最古の建物で、総合研究博物館小石川分館に次いで古い建物となる。東
大グッズの他、大学の研究成果を生かした商品などが販売されている。


■富士山(
駒込富士神社→築山) 撤去
 赤門を入った右手、赤門総合研究棟(経済学部の建物)の辺りにあった。明治の赤門の写真で見極
めることができる。明治36年赤門は旧位置より15mほど西に移設されている。
『江戸名所記』には、本郷にあった小さな山の木の下に富士権現が勧請され、富士参りの参詣者を集
めていたが、寛永(1624~43)の初め頃、その場所は加賀前田家が拝領して下屋敷(後に上屋
敷)となり、駒込に遷った富士権現の社の跡では毎年6月1日に神事をしているとある。富士信仰が
盛んだった江戸時代、各地で富士講が結成されたが、富士山に参拝することのできない人は富士山に
見立てた小山に登ることによって富士山参拝と同じ御利益が得られると考えられていた訳。『江戸名
所図会』でも駒込の富士浅間社について、寛永年中に本郷の加賀前田家の後園から遷されたと記し、
6月1日の富士詣で賑う様子を描いている。本郷邸に遺された山は、明治以降「椿山」と呼ばれるよ
うになり、古墳との見方もあったたが、明治18年に発掘調査した結果、その根拠は得られなかった。
この山は少しずつ縮小され、昭和39年に着工された経済学部棟(赤門総合研究棟)の建築に伴って
完全撤去された。また明治初年以来使われてきた、東京大学一帯を指した「本富士町」という町名は、
同40年の住居表示の施行によって消滅した。かつての「富士塚」と「富士社」があったことに由来
する町名は失われたが、駒込富士神社の石段の脇に、前田家の抱えていた加賀鳶が奉納したといわれ
る石があり、これが「本富士」との繋がりを今に伝えている。
 現在、駒込にある富士神社は、加賀藩上屋敷となる前にこの山の上あった。加賀藩は築山として残
し、明治末に、この場所に東京医学校本館が移転され、史料編纂掛や営繕課として使われた時に一部
山は削られた。春日通りの吉川弘文館の並びに富士神社の名残りが残されている。


■経済学部
 経済学部は、法科大学(法学部)から、経済学科(明治41年政治学科より分離新設)、商業学科
(明治42設置)の2学科を分離して大正8年に設置された。商業学科は昭和37年に経営学科に改
称された。平成19年度には、中央大学、武蔵大学に次いで日本で3番目の金融学科が新設された。
実際の学生受け入れは平成21年度進学者から募集された。
 大学院に関しては、昭和28年に新制大学院として社会科学研究科が設置され、その中に経済学に
関する専門課程が設置された。同38年社会科学研究科の分割が行われ法学政治学研究科、社会学研
究科が設置されると共に、経済学部の上に位置する大学院として経済学研究科が設置された。その後
平成8年に大学院重点化が完了した(経済理論専攻、現代経済専攻、企業・市場専攻、経済史専攻の
4専攻)。同17年には経済学部金融学科設置に先駆けて、同研究科附属施設である金融教育研究セ
ンターと共に金融システム専攻が設置された。また、企業・市場専攻は同19年に経営専攻に改称さ
れた。

■赤門総合研究棟
 赤門を入って右手にある建物で、経済学部本館として昭和45年に完成した。完成当初は「経済学
部新館」とも呼ばれていたが、現在は経済学研究科棟が新しく建設されたために、「旧館」や「赤門
棟」となどと呼ばれている(ただし経済学部便覧には、改装されていない7教室や6教室のある部分
が「別館」と表記されている)。同59年には香山壽夫の設計により西側が増築された。経済学部本
館が建てられるまでは、この場所には椿山と呼ばれる丘があった。
 平成15年に隣接して経済学研究科棟が完成し経済学部の大部分が移転したため、経済学部本館は
平成16に改修され、文学部、経済学部、教育学部、社会科学研究所が共同利用する総合研究棟となっ
た。この改修は主に耐震補強を目的とするものだったが、同時に周辺の建物(医学部2号館(本館)、
教育学部など)のいわゆる内田ゴシックに合わせた景観修復も行われたと評価されている。1階には
経済学部の掲示板があり、3階に入口がある経済学部図書館は移転せず現在も東端の一角を書庫とし
て占めている。また3階には経済学研究科棟との連絡通路が設けられている。


■経済学研究科棟

 赤門を入った右手にある。平成15年完成、通称「新館」。14階建てで、1階はコミュニティラ
ウンジ、地下1階と2、3階は教室と演習室が中心であり、4階は金融教育研究センター、経済学部
の事務室はなぜか不便な5階にある。7階から14階までは主に教員研究室とそれに付随する施設で
占められている。1階には電算室もあり、ラウンジではグループで談笑や打ち合わせをしたり、一人
で読書や勉強をする学生の姿が見受けられる。



■経済学部学術交流研究棟・小島ホール
 平成21年春の完成。学士会分館のビアガーデン跡地に建設され、完成後「小島ホール」と命名さ
れた。金融教育研究センター(4階)、経営教育研究センター(5階)、日本経済国際共同研究セン
ター(6階)などが経済学研究科棟より移転した。
  


■国立大学協会 学士会館分館 閉鎖
 学士会館とは、旧帝大系大学である北海道、東北、東京、名古屋、京都、大阪、九州、京城、台北
の各大学卒業者(戦前の学士)と、前記大学の大学院出身の修士または博士、前記大学で教授、准教
授(助教授)乃至は学長の職にあった人たちによる、大学の域を超えた一種の同窓会組織だ。名称に
「学士」とあるが、この「学士」とは大正7年の「大学令」以前の、学士号が帝国大学の卒業生にの
み与えられた時代の名残を留めるものであり、入会は上述の条件を満たした者のみに許されるエリー
ト組織のこと。
 東大構内というか、端っこに分館が存在したが、東京大学の「赤門周辺地区再開発計画」により平
成21年3月を以て閉鎖。


■理学部2号館
 赤門を入った右手赤門総合研究棟の南側、理学部エリアから随分離れたところにある。

 
医学部薬局の基礎
 理2号館前に据えてある。

   医学部薬局の基礎
   このレンガ積は明治45年までに建設された旧帝大医学部薬局の基礎で、2002年薬学
   系総合研究棟の発掘調査で出土したものである。
   レンガ建造物は、一般的に外壁、外壁腰部の上部構造と地中基礎の下部構造から構成され
   るが、調査では、外壁腰部と地中基礎部分が確認された。
   このレンガ積「イギリス積」と呼ばれる工法で構築され、深さ約1.8m、幅0.7mの溝
   掘削した後、溝の中にセメントを流した上にレンガが積まれていた。医局基礎の北側は砂
   利と泥を混ぜた上にコンクリートを流し込んでいるのに対し、南側は砕石の上に流し込ま
   れており、構造上の違いが認められた。
   使用されたレンガは、型枠にレンガ粘土を入れて叩きこんで整形したいわゆる「手抜きレ
   ンガ」で、桜の刻印がある小菅収監製が使用されていた。ちなみに前田侯爵邸懷徳館のレ
   ンガ基礎には日本煉瓦製造会社製の機械整形レンガが使用されている。
 


■赤門倉庫のエントランスポーチと階段
 理学部2号館脇にある。

   赤門倉庫のエントランスポーチと階段
   このパーゴラは、元は赤門倉庫のエントランスポーチでした。鉄骨をリベット接合によっ
   て組み合わせ、波型の鉄板による屋根が貼られていました。ベンチはその正面入口階段で
   あり、石材を組み合わせて造られています。ともに赤門倉庫の改修に伴い、この地に移築
   されました。
   赤門倉庫は、東京帝国大学文科大学史料編纂掛(現在の史料編纂所)の書庫として大正5
   年に建てられました。当時、史料編纂掛の本庁舎(現在の総合研究博物館小石川分館)と
   は廊下で結ばれており、一階奥の防火扉を供えた保管庫には、とりわけ貴重な史料が収蔵
   されておりました。
   ポーチ正面トラス梁の右部分に山形に開けられた穴は、渡り廊下の屋根の接続部分の痕跡
   です。ポーチは手前の二本の柱と書庫の煉瓦壁によって支持されていました。この度移設
   にあたって、煉瓦壁の代わりとなる鉄骨造りの門型フレームを新設し、パーゴラとなった
   ポーチを支えています。柱の足元には、曲線を用いた鋳鉄製の柱礎があり、意匠上の特徴
   となっています。


 ※文中「供えた」とあるのは「備えた」の誤記。東大ともあろうものが。


■本部棟
 龍岡赤門を入った左手にある。昭和54年完成。設計は丹下健三。その名の通り、大学本部として
使用されている。地上12階建ての高層建築であり、完成当時は東大構内では珍しい存在だった。



■第2本部棟
 理学部5号館として昭和51年に完成した。設計は丹下健三。本部棟に隣接しており、建物のデザ
インも類似している。当初は理学部数学科・地学科(地球惑星環境学科)の校舎として使用されてい
たが、数学科は駒場キャンパスの数理科学研究棟へ移転し、地学科は理学部(新)1号館へ移転した
ため、第二本部棟となった。現在は、大学本部関係の組織や公共政策大学院、留学生センター、情報
学環の一部のプロジェクトなどが使用している。


■薬学部
 薬学は、医薬の創製からその適正使用までを目標とし、生命に関わる物質及びその生体との相互作
用を対象とする学問体系だ。本学部は創薬科学及び基礎生命科学の発展に寄与する研究者、医療行政
に貢献する人材、高度医療を担う薬剤師の養成を教育研究の目的とする(薬学部規則第1条の2)
 薬科学科
 薬学がカバーすべき広範な基礎科学の教育に重点を置き、高い能力を持った研究者、医療行政に貢
献する人材を輩出する教育・研究を行う。
 薬学科
 薬学がカバーすべき広範な基礎科学の教育に加え、病院や薬局での実務教育を通じて高度で実践的
な医療薬学の知識と技術を身に付けた薬剤師資格を有する医療従事者、研究者を輩出する教育・研究
を行う。
 薬学は医学とともに疾病の治療と健康の維持を目標とする自然科学であり、医薬の創製、生産、管
理、適用並びにそれを受ける生体の仕組みの解明を目的としてこれに必要な基礎学を動員体系化した
総合科学だ。医学が主として人間を扱い、薬学は、ヒトのモデルとして動物および物質を扱い上記目
標に迫ろうとするものだ。一方、近年種々の生物現象ないし医学上の諸問題が分子レベルで解明され
つつあり、またバイオテクノロジーの急速な進歩と相俟って、化学と生物学に基礎をおく薬学出身者
の活動範囲はますます拡大する傾向にある。こういった中で東大薬学部では、常に優れた医薬の創製
と生産を念頭におきつつ生命科学の学問的な基礎を教授し、生命現象を物質的側面から理解し、解明
して行く方向の幅広い研究を行っている。生命の神秘に感動し、それをより豊かな人間社会の建設に
向けて役立てて行こうとする者にとっては魅力ある学部だろう。21世紀を迎えて、医療チームの一
員としての病院薬剤師(薬の専門家)の果たすべき役割にも期待が集まっている。薬学部においても
少数ではあってもこのような人材の養成を視野に入れていることを附記しておく。  

 青山胤道像 移設
 現在の薬学系研究科総合研究棟の前にあった。バス通りから一段高い木陰に葉巻を手にした青山先
生だ。移設され、構内のバス通り終点(東大構内)の病院第一研究棟まえの植栽の中に建つ。 

 薬学系総合研究棟
 龍岡門を入って本部棟の次に左手にある。

 薬学部本館
 医学部域の東にある。

 薬学部資料館・薬学部図書館
 薬学部本館と薬学系総合研究棟の間にある。図書館は2階だ。

 薬学系研究科先端創薬棟
 薬学部資料館と薬学部本館の間にある小さな建物。
 


■医学部
 安政五(1858)五月神田お玉ヶ池に「種痘所」を設立。11月種痘所は、神田相生町からの出
火により類焼したが、伊東玄朴の家などで業務を継続。万延元年(1860)幕府直轄となる。文久
元年(1861)十月「西洋医学所」と改称。教育・解剖・種痘の3科に分かれ西洋医学を講習する
所となった。同3年(1863)二月「医学所」と改称。
 明治元年7月横浜軍陣病院を神田和泉橋旧藤堂邸に移転、これを「大病院」と称し、医学所は大病
院に附属。同2年2月医学所は、大病院と合併して「医学校兼病院」と改称。12月「大学東校」と
改称。同4年7月文部省が設置され、「東校」と改称。同5年8月学制が布がれ、「第一大学区医学
校」と改称。同7年5月「東京医学校」と改称。同9年11月東京医学校校舎、寄宿舎及び病院を本
郷本富士町旧加賀藩邸内(現在地)に新設、移転。同10年4月東京開成学校と東京医学校が合併し
て「東京大学」となり、東京医学校は「東京大学医学部」と改称。同19年3月東京大学医学部は「帝
国大学医科大学」となった。同30年6月「東京帝国大学医科大学」と改称。大正8年4月「東京帝
国大学医学部」と改称。同6年2月1号館竣工。同11年1月医学部脳研究室が、堀越久三郎氏の寄
付により発足。11月医学部2号館(本館)竣工。
 同22年東京帝国大学は、東京大学と改称。同25年看護婦養成施設「医学部附属看護学校」と改
称し学校として設置。同28年衛生看護学科設置。7月東京大学に新制の大学院設置、生物系研究科
医学専門課程博士課程開設。医学部脳研究室が、医学部附属脳研究施設として管制化。同31年4月
「医学部附属助産婦学校」設置。同33年4月医学部薬学科「薬学部」として独立。5月東京大学医
学部創立100周年記念式典。同36年東京大学医学部創立100周年記念事業の一つとして医学部
総合中央館(医学図書館)竣工。4月医学部附属医用電子研究施設設置。同40年4月医学部附属音
声・言語医学研究施設設置。衛生看護学科を保健学科と改組。大学院が改組され、生物系研究科医学
専門課程は医学系研究科となる。医学系研究科に保健学専門課程設置。同41年9月医学部3号館竣
工。同46年4月医学部附属動物実験施設設置。同48年医学部動物実験棟竣工。同58年医学部3
号館別棟竣工。同60年医学部国際交流室設置。同62年4月大学院専門課程は専攻となる。
 平成4年4月保健学科が、健康科学・看護学科に分科。医学系研究科に国際保健学専攻設置。7月
医学部放射線研究施設設置。同7年大学院講座制への移行に伴い、第三基礎医学、社会医学、第三臨
床医学、第四臨床医学の4専攻を廃止し、病因・病理学、社会医学、生殖・発達・加齢医学、外科学
の4専攻に改組。同8年大学院講座制への移行に伴い、第一臨床医学、保健学、国際保健学の3専攻
を廃止し、内科学、健康科学・看護学、国際保健学の3専攻に改組。同9年大学院講座制への移行に
伴い、第一基礎医学、第二基礎医学、第二臨床医学の3専攻を廃止し、分子細胞生物学、機能生物李、
生体物理医学、脳神経医学の4専攻に改組。この改組に伴い、脳研究施設、医用電子研究施設、音声
言語医学研究施設の3施設廃止。同11年医学系研究科に医学科・歯学科・獣医学科以外の学部学科
卒業者を対象とする医科学修士課程設置。同12年「医学教育国際協力研究センター」設置(学内共
同教育研究施設)。同14年医学部附属看護学校、医学部附属助産学校閉校。同15年「疾患生命工
学センター」設立。 
 

 医1号館
 昭和6年完成。設計は内田祥三。現在は、隣接して平成14年に建設された地上14階建ての医学
部教育研究棟と一体利用されている。

 
医2号館(医学部本館)

 赤門を入って正面、三四郎池の南側に位置する建物。医学部2号館が正式な名称だが、医学

部本館とも呼ばれている。初代の本館は、東京医学校本館として建てられ、現在小石川植物
園内に移築され
ている。昭和12年に竣工した内田祥三の設計。戦前と戦後の医学部を見てきた貴重な建物

だ。医学部事務室がある。

 東京大学医学部附属病院150周年記念モニュメント「明日の医学と医療を拓く」
 赤門を抜けて医学部2号館へまっすぐ進むと、2つの円錐が間にある銀の球体を支えるという形を
した灰色の彫刻が見える。その彫刻は一見すると奇妙で、周囲のレンガ作りの建造物ともまったく合
っていない。本郷キャンパスに並ぶ歴代総長や著名な教授たちの彫像群(例えば、工学部キャンパス
にある建築家ジョサイア・コンドル像といった)の中で、一際異彩を放っているこの非肖像の彫刻に
はどのような意味が込められているのか。
 このデザインは、東京大学医学部附属病院150周年記念事業の一環として、平成20年に開催さ
れた記念碑の学生コンペの優勝者平野智子(医学部4年)による。手を取り合って、一つの球を支え
る二人は、全体として医学(Medicine)の〝M〟を象り、向かい合う二人(2つの円錐)は
医療者と患者、研究と臨床、教育と研究といった医療における関係性、医療に関わる全ての協調関係
を象徴している。そして2つの間で輝く銀の球体は医学に抱かれ支えられる命を表すという象徴的な
デザインとなっている。眼差しの先に映る「命」は医学の腕に抱かれ医療の懐に癒され、「明日の医
学と医療を拓く」という意味がある。

   明日の医学と医療を拓く
   平野智子(平成20年度医学科4年)
   医師と患者 臨床と研究と教育
   かかわるすべての人々が
   向き合い手を携え創り出す
   M‐Medicine
   まなざしの先に映るいのちは
   医学の腕に抱かれ医療の懐に癒される
   健やかで安らかな明日へ
   ここに願いをこめて
   平成20年5月
   
医学部・医学部附属病院創立150周年記念事業
   
「学生提案モニュメント公募企画」最優秀作品

 解剖台の記念碑。
 本館東側ポーチ、2号館裏手入口の玄関アーチ内の壁際にある。解剖台に顕彰文が書かれた珍しい
ものだ。この解剖台で、三浦守治教授、山極勝三郎教授自身の解剖が行われたとか。当時の医学部教
授は死後、研究のために解剖されることを希望した。記念碑は、長與又郎教授によって設計され、こ
こにとりつけられた。東大医学部の病理解剖の歴史を感じさせる貴重な記念碑となっている。

   謀事熟慮深思 行事公明正大 年事堅忍不抜

   この解剖台はわが病理学教室を創設し東京帝国大学の病理学の教授の椅子に初めて就かれ
   つる三浦先生その後を継ぎて癌に関する世界的業績を挙げられつる山極先生教室を拡大し
   完備しわが国病理学の光輝を内外に発揚せられつる長與先生の三先生が多年傍に立ちて親
   しく後進の研究を指導振奨せられし所のものなり且つ三浦山極両先生は身を斯学の為に献
   ぐべくその最期をこの台上に横たへられきかくも尊き台なるをもて三先生の偉大なる功績
   を伝へまく不朽の記念として茲に之を保存すわが教室に入らむ者は朝に夕に恩徳を仰慕す
   べきなり                      昭和十六年十二月 病理学教室

   コノ解剖臺ハ故 長與名譽教授ノ 設計ニカカリ大 正四年五月舊病 理學教室解剖室
   ノ改裝時ヨリ昭 和十三年五月新 教室移轉ノ直前 マデ二十三年間 使用セラレタ同
   型ノモノ四臺中 ノ一ツデアル


 
研究実験棟

 第一号館の東側にある14階建ての建物。

 医3号館
 研究実験棟の南にある。同41年竣工。

 
医3号館別館

 第三号館の裏手にある。同58年竣工。

 
医4号館
 ここにはなく、龍岡門の東、附属病院敷地にある小さな建物。

 
医5号館

 第三号館の裏手、看護学校・助産婦学校の跡地にある。

 生命科学実験棟
 生命

 医学部教育研究棟
 科学

 医学部国際共同研究棟
 医学部国際共同研究棟

 
隈川宗雄像

 七徳堂の斜め前、医学部図書館と医学部2号館本館の間の道沿いにある銅像。小さめながらスマー
トで洗練された銅像だ。台座の株に銅版の鶏のレリーフは何を意味するのか?
 隈川は、福島藩医原有隣の次男。明治2年隈川宗悦の養子となる。同16東大医学部卒業。同17
年から明治23年までベルリン大に留学。同24年帝国大学医科大学教授となり医化学講座を担当。
同年医学博士の学位を受ける。大正6年東京帝大医科大学学長。学士院会員。


   隈川宗男
   福島県福島町の出身。明治16年に東京大学医学部を卒業。翌年より5年間ベルリン大学
   に留学し、ザルコフスキー教授のもと生化学を研究した。帰国後の明治23年、医科大学
   病理化学上取調嘱託(講師)に任ぜられ、わが国における生化学の開拓者となった。同年
   駒込病院医長、明治24年に帝国大学医科大学教授に就任した。明治30年に医化学講座
   が生理学講座から独立すると、最初の教室主任となった。糖の定量法(Pavy‐隈川‐
   須藤法)で知られる。大正6年、青山胤通教授の後任として医科大学学長に就任したが、
   半年後の大正7年4月に病没した。

 
医学部総合中央館・医学図書館

 医学部第2号館(本館)の東、七徳堂の南、薬学部の北にある。三四郎池に近い。昭和36年完成。
医学部創立百年記念事業の一環として建設され、平成20年に耐震改修工事が行われた。基礎医学・
健康科学系の各校舎と、附属病院(臨床医学系)の中間に位置するため「総合中央館」と呼ばれてい
る。建物の東南角地にベルツとスクリバの銅像があった。

 健康と医学の博物館
 伊賀図書館の地下1階にある。東京大学医学部附属病院150周年記念事業の一環として平成22
年に開館した。

 医学部図書館創立20周年記念プレート
 健康と医学の博物館の門壁に貼られている。

   BIBLIOTHECA MEDICA
   19     1961    81
   VNIVERSITATIS TOKYOENSIS

   東京大学医学部図書館
   創立二十周年記念
   昭和五十六年十一月三日
 

■御殿下記念館

 三四郎池の東、御殿下グラウンドの地下にあるスポーツ施設。昭和63年に東京大学創立100周
年記念事業の一環として建設された。設計は芦原義信。仮称は「本郷記念館」であり、当初は弥生キャ
ンパスのグラウンドの一部を転用して建設する計画だったが、その後、現在のように変更された。プ
ール、ジムナジアム、トレーニングルーム、クライミングウォール、ボルダー壁などの施設がある。
ジムナジアムはバスケットボール、バレーボール、バトミントン、卓球、クライミングウォールなど
様々なスポーツを楽しむことができる。バスケ、バレー、フットサル用のボール、卓球用セットの貸
し出しもしているので、手軽にスポーツを楽しむことができる。
 また化学東館寄りのエントランスおよびモール街は、内田祥三の設計により昭和8年に建設された
グラウンドの土溜めを兼ねていた運動場付属屋を改修したものである。


■御殿下グラウンド

 三四郎池の東にある。証明設備付き人工芝グラウンド。芝は従来のものよりハイクォーリティな6
cm余の「ロングパイル人工芝」になった。まるで天然芝のような感触でプレイすることができる。
フットサル、サッカー、アメリカンフットボールに対応している。御殿とは山上御殿のことで、明治
26年から関東大震災まで、山上会館のところにあった会議場だ。


■七徳堂
 
御殿下グラウンドの南側、医学図書館の近くにある武道場。東京都選定歴史的建造物。昭和13年
完成。設計は内田祥三であるが、ゴシック建築ではなくではなく和風建築だ。名称の由来は『春秋左
氏伝』宣公十二年の「武有七徳」であり、 東京帝国大学教授塩谷温により命名された。

 
ヒポクラテスの木の碑
 七徳堂の裏にある。木はプラタナス(スズカケノキ)で、いうなれば「ヒポクラテスに縁あるプラ
タナスの木」で、そんじょそこいらのプラタナスとは訳が違うということ。ヒポクラスという学名、
樹名の木という訳ではない。

   ヒポクラテスの木
   (スズカケノキ)
   Platanus orientalis L,
   このヒポクラテスの木は、昭和30年篠田秀男がギリシアのコス島の原木の種子を持ち帰
   り日本で発芽させて育てられた株からの採り木の一つである。昭和46年3月緒方富雄名
   誉教授は篠田博士に乞うてこれをゆずりうけ、5年たらず手もとで育てて、この度医学図
   書館前に植えたコス島株とともに寄贈された。
   この場所を選んだのは、ベルツ、スクリバ調教師の記念像と呼応してすこやかに育ってく
   れるのを期待してのことである。この機縁を与えられた緒方名誉教授と、この株を教授に
   贈られた篠田博士に深甚の謝意と敬意を表してこのことをしるす。
   昭和50年11月29日                      東京大学医学部

 
ヒポクラテスの木

 ベルツとスクリバの銅像の隣、中央館前の右手の植込みにある。エーゲ海に浮かぶギリシャのコス
島は、医聖ヒポクラテスの故郷だ。この島に、ヒポクラテスが、その木陰で若い医人に医の道を説い
たという謂われのあるプラタナス(鈴懸)の木がある。その子孫の巨樹は、『ヒポクラテスの木』と
いわれ、医の道を伝えるものとして、ヨーロッパで最も神聖な木とされている。

 [緒方株] 昭和51年に初代医学部図書館長だった緒方富雄は、ギリシャのトーマス・ドクシア
ディス博士からコス島育ちの苗を贈られ、自宅で4年間育て、東大医学部図書館前に植樹、今日3階
以上の高さに大きく育っている。

   ヒポクラテスゆかりの地で育った株がここで茂る機縁をあたえられた緒方名誉教授と、そ
   の株を教授に贈られたDr.Thomas Doxiadisに深甚の謝意と敬意を表し
   てこのことをしるす。
   1975年11月29日                      東京大学医学部


 この説明板は昭和50年に建てられたことになっているが、苗が贈られたのは同51年、それで4
年間自宅で育てたというから、ここに植えたのは昭和55年だ。つまり1980年だ。どっちが間違
えているのやら・・・、この他に、

 [篠田株」 昭和30年慶応義塾大学出身の産婦人科医篠田秀男が、コス島で実を採取し日本で発
芽させ、母校慶応義塾大学、地元の山形大学などに植樹したのが日本における「ヒポクラテスの木」
の初めだ。

 [蒲原株] 同44年に新潟の整形外科医蒲原宏も種を持ち帰り発芽させ新潟大学、九州大学、岡
山大学などに植樹た。

 [小林株] 昭和52年日本赤十字100周年事業に、小林隆院長(東大産婦人科名誉教授)は緒
方富雄の提言を受け、ギリシャ赤十字に依頼し、苗と多数の種を贈られた。日赤本社、日赤医療セン
ター、国会図書館、京都大学などに苗を植樹する一方、実生苗や挿し木苗を、各地の日赤病院を中心
に配布した。平成2年、同7年に日本ギリシャ協会がコス島より苗を導入し、東京医科歯科大学、筑
波大学、大分大学などに植樹した。
 これらの他にも広島の原田株や京都の武田株などがある。
 

 
ベルツとスクリバの銅像

 バス通りの左側、運動場の手前にある。バス通りを挟んだ向かい側は病院。このベルツ・スクリバ
の銅像は、以前は、現在の医学図書館(病理学教室があった場所)が建っている崖の下にあった。
 エルヴィン・ベルツは内科教師として26年間、ユリウス・スクリバは外科教師として20年間、
学生の指導と診療に当った。2人は最後まで教鞭をとったドイツ人教師であり、我国の医学教育に多
大な貢献をした。その偉徳を永遠に残すために銅像が建てられた。ベルツ、スクリバ両名誉教師の胸
像除幕式は、明治40年4月4日に盛大に行われた。その場所は、現在地より少し南に寄った医学図
書館の東南角だった。像は、右がスクリバ(フロックコート)、左がベルツ(背広)。この除幕式に
は、スクリバ未亡人の安子と三男ヘンリーが参列したという。
 ベルツは、ドイツ人で、明治9年に来日、最初は東京医学校で生理学と薬物学を教えたが、翌年の
東京大学医学部発足に伴って内科学の教壇に立った。当時の医学教育は、まだ日本人教授が足りなか
ったため外国人教授に期待するところが大きく、ベルツは産婦人科学まで任されていた。教授職は同
35年に退いたが、そのまま日本に留まり、宮内庁侍医も務めた。同38年帰国。同44年没。
 スクリバは、明治14年から東京大学医学部で外科の教鞭を執り、眼科・皮膚科も担当した。ドイ
ツ人で、ベンツ同様、当時日本人教授が不足していた状況で外科教育の発展に残した功績は大きく、
退職後は聖路加病院の外科主任も務めたが、同38年、57歳の若さで亡くなった。
 銅像は、明治40年に日本医学界への貢献を称えて建立された。ベンツ像・スクリバ像ともに台座
を備えた胸像で、画家・彫刻家の長沼守敬の製作だ。ほぼ同時期に東大に在籍し教壇に立った2人の
像は、並んで御殿下グラウンド脇に設置されている。像の解説文には「内科学外科学を教授指導しわ
が国近代医学の真の基礎を築いた恩人」とある。

   エルウィン・フォン・ベルツ
   
Erwin von Baelz
   南ドイツのビーティッヒハイムで生れる。チュビンゲン大学医学部に入学し、ライプチヒ
   大学医学部を最優秀の成績て卒業した。ライプチヒ大学病院に入院した第1回医学留学生
   の相良元貞を診察したことがきっかけとなり、明治9年に下谷和泉橋時代の東京医学校に
   招聘された。明治35年までの26年間、内科学の教育と診療にあたり、わが国の内科学
   の礎を築いた。明治14年以後は東京大学医学部の外国人教師の主任を務めた。ツツガム
   シ病、肺ジストマ、温泉療法、人類学、民族学などを研究し、世界で最初に肺吸虫卵を発
   見した。退任後は侍医を務め、明治38年に帰国した。「ベルツの日記」は日本の近代化
   記録した歴史的資料として知られる。大正2年に大動脈瘤で没した。

   ユリウス・カール・スクリバ
   
Julius Karl Scriba
   ヘッセン大公国ラインハイムに生れる。ハイデルベルク大学で医学を学び、フライブルク
   大学外科で助手を務めた。明治14年に来日し、20年間にわたり東京大学医学部で教育
   ・診療に従事し、わが国の外科学の礎を築いた。無菌手術とエスマルヒ躯血帯を用いた無
   血手術を導入したといわれる。明治24年に大津で襲われたロシア皇太子の治療と明治2
   8年に日清戦争の講和会議に出席して狙撃された李鴻章の治療のため、政府より派遣され
   た。明治34年に東京帝国大学での任期が終了、その後、聖路加国際病院主任に就任した
   が、明治38年に肺結核と糖尿病により鎌倉で没した。青山霊園外国人墓地に眠る。


 水原秋桜子句碑
 ベルツ、スクリバの胸像横にある。句はこの胸像を詠んだ。

   
胸像を ぬらす
    日本の
       花の雨
        秋櫻子


 秋桜子の本名は水原豊といい、明治25年10月9日、旧神田区猿楽町12番地に生まれた。芥川
龍之介と同年だ。生家は産婦人科医院を経営し「二流どころの医院で、門内に桜の木があり、その落
花が往来を敷いていた」という。大正3年東京帝国大学医科大学に入学し、卒業後、同8年1月、血
清化学教室(三田定則教授)に入り、助手だった緒方益雄の勧めで「木の芽会」に入会し、俳句をは
じめた。当時の血清化学教室には、後に法医学教授となる古畑種基も在職し、その第二代教授が緒方
富雄だ。大正10年4月「ホトトギス」の雑詠欄(虚子選)に投稿した4句が入選し、5月には例会
に出席するようになった。同11年東京大学俳句会を復活し、同13年血清化学教室から産婦人科学
教室に移っている。 

 
大聖寺藩江戸上屋敷址碑
 ベルツ・スクリバの銅像のある広場にある立派な石碑。バス通り向うの医学部附属病院がある辺り
が、大聖寺藩の上屋敷(松平飛騨守=加賀前田家支藩)があった場所で、碑には、大聖寺藩に所縁の
九谷焼が埋め込まれている。明治16年頃の構内地図によると、この辺りには、寄宿舎や脚気病室と
なっている。

   加賀大聖寺藩
   
江戸上屋敷址

 そして九谷焼の皿が埋め込まれている。

   (藩)大聖寺まちなみ景観整備委員会
             会長 久藤豊治
   
一 里 塚
          加賀市長 矢田松太郎


 接続して黒御影石の由来碑に以下の記載がある。

   大聖寺藩由来記
   寛永十六年(1639)六月二十日加賀藩三代藩主前田利常公は47歳の若さで小松に隠
   居し、嫡子光髙に加賀藩80万石を、二男利次に富山藩10万石を、三男利治に大聖寺藩
   7万石を与え分封した。大聖寺藩領は江沼郡全域(133ヶ村)と郡谷村及び能美郡6ヶ
   村を加えたものであった。9代藩主利之の文政四年(1821))新田1万石、加賀藩か
   ら現米2万俵を受け、加賀藩からの願出により幕府から十万石の待遇を公認された。以降
   14代利鬯(としか)まで10万石として、明治4年廃藩置県により大聖寺県となるまで
   続いた。
   九谷焼は初代藩主利治が後藤才次郎に命じ、領内九谷村に窯を築き産出したと伝えられて
   おり、その窯跡は国指定史跡「九谷磁器窯跡」として残されている。
   この地大聖寺藩江戸藩邸(5997歩)跡を史実の証として石碑を設立し、後世に伝える
   ものである。
   平成10年1月

 
その碑裏。

   協力された方
   東京大学医学部
   加賀市
   小林組(小松市)
   かみでグリーンサービス(加賀市)
   東出左官工業所(加賀市)
   二代西川愛石(加賀市)陶芸家
   (藩)大聖寺まちなみ景観整備委員会

   題字 加賀市長 矢田松太郎書   

 ミュルレル像
 バス通りから医学図書館へ上がる角の崖上。東京大学創立130周年記念事業の一環である『知の
プロムナード』として整備。木立の崖は、花壇で綺麗に整えられた。また崖には、階段が設けられ、
ミュルレル像、下山順一郎像を見に行くのが楽になった。このように整備される以前は、崖の周辺は
木や草が生い茂り、像は木陰に埋もれていた。台座には、解剖学教授を務めた田口和美(墓は染井霊
園)の子で書家の田口茂一郎(米舫)の手になる碑文がある。田口茂一郎は、田口硯臣と共に『美術
解剖学』(明治25年)を著している。田口米舫の墓は、谷中の全生庵にあり、田口硯臣の墓は染井
霊園にある。ベンヤミン・カール・レオポルト・ミュラーは、プロイセン王国・ドイツ帝国の軍医。
外科医。お雇い外国人として来日し、近代日本の医学教育制度を整備した。

   ドクトル レオポルド・ミュルレル
   
Doctor Leopold・Mǜller
   明治2年、明治新政府はドイツ医学の採用を決定し、ドイツ北部連邦公使に2名の医学教
   師の派遣を要請した。明治4年8月ミュルレル(陸軍上等軍医正・外科)とホフマン(海
   軍軍医正・内科)が来日し、下谷和泉橋の東校(東京大学医学部の前身)に着任した。
   ミュルレルは文政七年(1824)ドイツのマインツに生まれ、ボン大学とベルリン大学
   で医学を学び、プロシア陸軍軍医学校教官、普仏戦争では野戦病院長を務めた。文部卿(大
   臣)直属のミュルレルとホフマンは、わが国の医学教育に全権をもち、苛酷なまでに峻厳
   な改革を行った。約300名の東校の在学生は59名を残して退学とし、新たに予科3年
   (翌年2年に変更)、本科5年の課程を定めた。また「薬学」は医学と密接に連携する自
   然科学の独立文科であるとし、製薬学校設立を提案した。これにより明治6年第一学区学
   校に濟薬学科(東京大学薬学部の前身)が設置された。ミュルレルは3年間の契約終了後
   明治8年に帰国。明治26年ベルリンで没した。三回忌に当たる明治28年10月、日本
   の医学・薬学の恩人として、胸像(制作藤田文蔵)をこの高台に設置した。胸像は戦後盗
   難にあったが、昭和50年に復元された。

 台座に「鋳造 後藤勉」に刻んである。

 下山順一郎像
 胸像で、薬学系総合研究棟東側にミュルレル像の奥に置かれている。医学部製薬科の第1期生。医
科大学薬学科教授となり、薬学部の創始者として顕彰されている。銅像は、武石弘三郎の作。幕末に
尾張藩校助教であった犬山藩士の子として誕生。明治6年に第一大学区医学校製薬学科に入学、同1
1年に首席で卒業した。その後ドイツに4年間留学し、帰国後は新設された医科大学校薬学科の教授
(新設された生薬学の初代教授)に就任した。同21年には東京薬科大学の前身である私立薬学校に
なるなど、以後も日本の薬学発展に尽力した。日本初の薬学博士号を取得している。私財を投じて薬
草園を開設するなど、薬用植物の研究や栽培に大きな足跡を残している。

   下山順一郎
   嘉永六年(1853)尾張犬山で生まれた博士は、明治3年犬山藩の貢進生に選ばれ、大
   学南校(東京大学の前身)に入学した。明治6年9月学則の改正により、第一大学区医学
   校製薬学科(東京大学薬学部の前身)に転学し、明治11年3月同学科の一期生として卒
   業、医学部第一回学位授与式では卒業生を代表して答辞を朗読した。博士は明治19年、
   かつて3年留学したドイツのストラスブルク大学よりDoctor der Philos
   ophi、明治32年にはわが国の医学博士第1号を授与された。博士は明治14年医学
   部助教授、明治20年医科大学薬学科教授、明治26年薬学第一講座(生薬学)教授とし
   て教育・研究に尽力されると同時に、東京薬学会(現日本薬学会)の創立や、私財を投じ
   た薬草園(是好薬園)の開設等を通し、後輩の育成にあたった。博士は、在職中の明治4
   5年2月急逝。先生を偲ぶために大正2年薬学科教室玄関脇に胸像(制作武石弘三郎)を
   設置した。その後建物の整備に伴い、この場所に位置を変更した。

 
懐徳館・懐徳園
 江戸時代、現在の本郷キャンパスは加賀前田藩の上屋敷だった。明治になり、その敷地の大半は東
京大学のキャンパスとなったが、前田家も本郷キャンパスの南西隅に屋敷として、和館(明治38年
竣工)、西洋館(明治40年年竣工)を構えた。同43年には明治天皇の行幸があり、それに合わせ
て、日本庭園が整備され、懐徳館庭園(懐徳園)はこの時に現在の姿となった。大正15年駒場の土
地(駒場公園)との敷地交換に際して、西洋館・和館も大学に寄贈された。その後、「懐徳館」と命
名され、迎賓館として使用されることになる。因みにこの名前は、論語の「君子懐徳」から名づけら
れた。併し、懐徳館は昭和20年の東京大空襲によって焼失してしまう。東京大空襲では懐徳館以外
の本郷キャンパスの建物は被害を免れた。
 現在ある和風の建物は昭和26年に建築されたもの。普段は入ることはできないが、11月に行わ
れるホームカミングデイでは、一般公開される。

 西洋館基礎
 また総合研究博物館増築時に出土した西洋館の基礎が、総合研究博物館の近くに保存されている。

 
春日門
 平成19年に産学連携プラザの横に新設された歩行者・自転車専用の門。本郷キャンパス最南端の
門で、キャンパス北辺の言問通りからは、1km弱離れている。春日通りから直接キャンパス内に入
ることができ、本郷三丁目駅から産学連携プラザや総合研究博物館等に行くのに便利だが、キャンパ
ス中心部への道は解り辛くなっている。以前はこの場所には鉄塀の一部を扉にした歩行者用の小さな
門があり、「不浄門」と呼ばれていた。詳しい由来は不明だが、皇居などには艮(北東方向)の方角
に「不浄門」という名の門があり、そこから死者を送り出す風習があった。本郷キャンパスの不浄門
は南の方角にありましたが、かつては前田家の大名屋敷内で誰かが亡くなったときに、この付近にあ
った門から亡骸を送り出していたのかもしれない。春日門となった今ではその面影はなくなった。

 東洋文化研究所
 昭和16年年11月26日東洋文化の総合的研究を目的として東京帝国大学に設置創設された。哲
学・文学・史学部門、法律・政治部門、経済・商業部門という部門体制で、附属図書館内に研究室、
書庫、事務室を置いて発足した。同24年新たに3部門が増設されたのを機会に、研究組織を細分化
し、哲学・宗教部門、文学・言語部門、歴史部門、美術史・考古学部門、法律・政治部門、経済・商
業部門の6部門に再編成した。同時に、本拠を文京区大塚町の外務省所管の旧東方文化学院(現拓殖
大学)の一部に移し、これまでの附属図書館内研究室を分室として,研究の充実・発展を図った。
 序で同26年人文地理学部門と文化人類学部門が加えられた。これを契機として、,従来の専門体
系のみによる部門構成を、汎アジア経済部門、汎アジア人文地理学部門、汎アジア文化人類学部門、
東アジア政治・法律部門、東アジア歴史部門、東アジア美術史・考古学部門、東アジア哲学・宗教部
門、東アジア文学部門という地域区分を加えた8部門に再編成した。地域部門の充実を図る将来計画
に基づいて、同35年には南アジア政治・経済部門、同39年には東北アジア部門、同43年には西
アジア歴史・文化部門、同48年には東南アジア経済・社会部門、同53年には西アジア政治・経済
部門が増設されて、13部門を擁するに至った。
 その後,アジア地域全体が世界の中で占める重要性が大きくなったことを受けて、本研究所が我国
のアジア研究の中枢的、指導的役割を果すために、研究内容の充実、規模の拡大を含む組織上の再編
成を行うことが必要となった。そこで,同56年に新しい構想に基づく大部門制を採用し、それまで
の13部門を、汎アジア部門、東アジア部門、南アジア部門、西アジア部門の4部門に統合して再出
発した。さらに平成23年にはアジア研究における新たな研究対象、研究方法、研究分野を切り拓き
アジア研究の新たなビジョンを社会に向けて提示することを目的に、新たに新世代アジア部門が設置
された。

 
唐獅子像
 東洋文化研究所の入口にある石像。

 総合研究博物館
 学内共同利用施設の一号機関として設置された総合研究資料館の改組拡充により、平成8年春に国
内で最初の教育研究型ユニヴァーシティ・ミュージアムとして誕生した。東大には、明治10年の創
学以来、総数にして600万点を超える各種学術標本が蓄積されており、その内、当館に収蔵されて
いる学術標本は、設置時当初の推計240万点に、その後の収集・寄贈・寄託標本が加わり、現在で
は優に300万点を超える数にまで達している。
 当館が掲げる目標は、これら「学術標本=モノ」を機軸に、高度でオリジナリティに富む博物館活
動を推進することにある。世界的水準の学術研究を各分野ごとに追究展開することはいうまでもない
が、加えて、博物館活動そのもののなかに、他所に見いだしがたいクリエイティビティを生み出すこ
とにもまた努力の一端を傾けている。その意味で、ミュージアム活動の領野の拡大と先駆性の追求も
また、総合研究博物館の果たすべき使命の一つといってよい。
 総合研究博物館は研究部と資料部の2組織から成り立っている。前者にはキュラトリアル・ワーク
研究系、博物資源開発研究系、博物情報メディア研究系の3系があり、ミュージアム・テクノロジー
寄付研究部門も、ここに付設されている。後者の資料部は、各学部・研究科の教員からなる地学系、
生物系、文化史系の3系17部門からなっている。研究部は専任9名、客員2名(非常勤)の教員か
らなり、資料部17部門との連携の上に、専門分野として動物学、人類学、古生物学、考古学、美術
史・博物館工学、建築史、情報科学、展示空間デザイン、建築情報デザイン、文化資源学、博物資源
学の各域をカバーしている。
 総合研究博物館では、伝統的に、各専門領域における海外学術調査が、標本の調査・収集並びにそ
れらに関する一次研究において、中心的な役割を担っている。大学院教育に於ける標本利用実績とし
ては、博物館への改組以来の10年間で、修士論文100件程度、博士論文50件程度を挙げること
ができる。また当館収蔵標本の館外展示への貸与や各種出版物への写真提供など、公開教育への寄与
は、平成17年度実績で、年間100~150件程度、500点以上に上っている。
 研究部では、狭義の専門領域枠内の標本利用に止まらず、学術標本の幅広い教育研究利用、デジタ
ル技術による情報化、展示等による公開活動とその方法論的研究、博物館コンセプトそのものの探求
も行っている。これら多様なミュージアム活動の一環として、「実験展示」の呼び名の下で、博物館
への改組以降、平成18年4月に至るまでに62回に及ぶ各種展覧会を開催してきた。これらの中に
は、すでに20回を数える「東京大学コレクション」展のシリーズ企画展、先駆的な「デジタル・ミ
ュージアム」展、全学的な「学位記」展、従来顧みられることのなかった「学誌財」展、学術とアー
トの斬新的なコラボレーション展、大学院教育プログラムによる企画展などが含まれ、また最近では
先端的展示空間デザイン技術を駆使し、最先端の学術研究成果を一般の人々にも理解可能な形に「翻
訳」してみせる新しい展示手法の研究展示も試みられている。(総合研究博物館HPより)

 懐徳門
 平成19年完成。大江戸線の出入口そばに設置された。周囲には総合研究博物館、理学部2号館な
どがある。旧懐徳館洋館の煉瓦造りの遺構が利用されている。駅の出口から本来は赤門を通り抜けて
東大構内へ入るのが一般的だが、これにより、懐徳館は勿論のこと、経済学部棟や理学部棟・総合博
物館へアクセスがし易くなった。こちらはスロープになっているので、車椅子の方でも入ることが出
来る。

 盲長屋(養育院)
 維新後も道路側に窓がない長屋が残り、明治5年10月15日から5日間、「乞食物貰之者」を収
容して救済した。養育院の走りだ。浅草溜に移転。
 


■育徳園

 東京大学の中に残された加賀100万石前田家の上屋敷内の江戸第一の名園。加賀藩は、天正九年
(1581)八月織田信長が前田利家に能登一国を与えたことに始まる。現在の赤門から池にかけて
の一帯の地は、大坂の役後に将軍家から賜ったもので、この屋敷は明治維新後に大部分が新政府の官
有地に転ぜられるまで存在していた。育徳園は、寛永十五年(1638)、豪奢で風雅を好んだとい
う4代目藩主前田利常の時に大築造された。彼の死後、名君綱紀(5代藩主)の時にさらに補修され
た。当時は諸藩邸の庭園中第一の名園と謳われた。園中に八景、八境の勝があって、その泉水・築山
・小亭等は数奇を極めたものだといわれている。だがこの屋敷は安政二年(1855)の大地震で大
損害を被り、明治元年4月の火事で、大部分の建物が類焼して無残な姿になってしまった。明治7年
に東京医学校(東大医学部の前身)へ移転される直前の敷地は、「荒漠タル原野」と化していたそう
だ。
 だが度重なる災害の中でも、育徳園の池と樹木は残存していた。現本郷キャンパスの建物の配置は、
この旧加賀藩邸の敷地の配置に大きく影響されている。育徳園心字池は現在の三四郎池で、その東に
広がっていた馬場は、明治32年頃拡張されて現在の運動場となった。
 

 心字池 → 三四郎池

 赤門を入って左手奥にある。平面の形が「心」という文字を象っており、正式名称を「旧加賀藩上
屋敷育徳園心字池」という。心字池は、庭池の一つの形式で池の平面形としてはよくある形だ。山手
台地を浸食した谷に湧出する泉で、東大構内に湧水は数多くあった。池の畔に碑がある。
 題字は前田利祐書、平成14年4月 財団法人前田育徳会建立。

   舊加賀藩上屋敷育徳園心字池

   平成14年4月
   財団法人 前田育徳會建立
   題字 前田利祐書

 説明板は以下の通り。

   三四郎池
   加賀藩主前田氏が、現在の赤門から池にかけての一帯の地を将軍家から賜ったのは、大阪
   の役後のこと。園池を大築造したのは寛永15年、その性、豪宕で風雅を好んだという当
   主前だ利常のときである。彼の死後、綱紀がさらに補修して、当時江戸諸侯邸の庭園中第
   一と称せられた。育徳園と命名され、園中に八景、八境の勝があって、その泉水・築山・
   小亭等は数奇をきわめたものだといわれている。池の形が「心」という字をかたどってお
   り、この池の正式名称は「育徳園心字池」なのだが、夏目漱石の小説「三四郎」以来、三
   四郎池の名で親しまれている。

   The Story of Sanshiro Pond
   The Maeda family was given the property which is now the Sanshiro Pond by th
   e Shogun after the fall of Osaka Castle in 1615.The Pond and surrounding G
   arden were greatly embellished in the days of Maeda Toshitune who was known fo
   r his lavish style. After the death of Toshitsune. Tsunanori did additiional 
   work on the garden. The garden came to be known as the mosr beautiful one among
    on the gardens of Edo (Tokyo). Named "Iku Toku En" or "Garden of Teachi
   ng Virtue", the garden featured the traditional 8 Iandscapes and 8 borders, an
   d it's pond, artificial hills asd pavillions were known for their originality.
   The contours of the pond are in the shape of the chinese character"Kokoro (or 
   Shin)" or "Heart".The official name of the pond is"Iku Toku En SHINJ
   IIKE" or "HEAR丁 CHARACTER POND of Garden of teaching Vir
   tue". However,Shince the publication of Natsume Soseki's "SANSHIRO" 
   it has come to be known under the name of "Sanshiro Pond".
 

 夏目漱石の小説『三四郎』、その
2章より、

   三四郎は池のそばに来てしゃがんだ。非常に静かである。電車の音もしない。 
    三四郎がじっとして池の面を見つめていると、大きな木が幾本となく水の底に映って、
   そのまた底に青い空が見える。


 その3章により、


   赤門をはいって、二人で池の周囲を散歩した。その時ポンチ絵の男は、死んだ小泉八雲先
   生は教員控室へはいるのがきらいで、講義がすむといつでもこの周囲をぐるぐる回って歩
   いたんだと、あたかも小泉先生に教わったようなことを言った。

 300分の1本のヒマラヤスギ

 三四郎池の鬱蒼と繁った森の中だから、背が高い一方でヒマラヤスギの特徴である下枝は殆どない。
周囲の木陰が作るヒマラヤスギの根元には、忘れられた石碑が1つ。


   明治40年(1907)の春故濱尾總長閣下が私にヒマラヤ杉の插木を命ぜられました。
   そこで私は三百餘本を插しましたが、ただ一本を残して他は皆根を下ろしませんでした。
   その一本が即ち此の樹です。大正12年(1923)9月1日の大震火災の時にも焼けず
   元氣よく成長して、恰も大學の前途を祝福するやうです。ことし昭和3年(1928)9
   月許しを得、此の碑を樹の側に建て、由緒を記すことヽなりました。
                            四十年来の大學の老僕 松本百蔵


 〝老僕〟とあるが、松本百蔵は山上会館に定年まで勤めあげた学僕だ。〝学僕〟とは、師の下(松
本の場合は山上会館)で働きながら学問をする人のことで、現在でいえば「研究助手」とでもいうか、
違うか? 碑文にあるように、第8代総長浜尾新が、宮内省の庭師から「ヒマラヤスギは挿し木が可
能だ」と聞き、当時理科大学に植えられていた8本のヒマラヤスギから枝を落とし挿し木するよう命
じた、ようだ。当時農学部(駒場)では、幾度となくヒマラヤスギの挿し木を試みては失敗を繰り返
していたので、到底不可能だと主張する中、松本は学内の2ヶ所に計300本の挿し木をし、丹念に
面倒を見たのだが、根を生やし成長した、たった一本が、このヒマラヤスギという訳。
 大正15年姉崎正治教授並びに三上参次教授に記念碑を寄付し「記念樹にしたい」と申し出、昭和
3年に願いが叶ったという次第。昭和3年は、姉崎正治と三上参次両教授にとっては総合図書館復興
の記念すべき年でもある。記念碑の碑文は三上参次教授の筆、石と銅板は中村清春教授が選んだとの
こと。

 松本が丹誠込めて育てた300分の1本は、震災と戦争を経て100歳を超えて尚、「若いもんに
は負けんよ」といわぬばかりに21世紀に入った現在も、遠慮気に頭1つを出して頑張っている。

 山口青邨の句碑
 東大銀杏会の前身は、東大ホトトギス会(山口青邨創設)であり、青邨亡き後、有馬主宰は東大銀
杏会と名付けて15周年を迎えた。昭和61年に建てられた青邨句碑の作品は、昭和16年日米開戦
の時に作られた作品だ。明治以来日本の欧米化のために官僚を送り出してきたことに対する青邨の強
い思いが厳しい抑制的表現の中に込められた名句だ。20世紀はユダヤ(アシュケナジー)による戦
争の時代であり、その過ちをこの作品は語りかけている。


   
銀杏散る真っただ中に法科あり(山口青 

 山上御殿→山上会議所跡

 明治26年から関東大震災まであった和風建築。東北端にあった富山藩邸の建物を移築改造初め大
学仮本部として使用され、その後会議所として利用された。震災で壊滅後、「山上会議所」として再
建され、増改築を繰り返しながら昭和60年前後に取り壊された。
 山上会館にある食堂は「御殿食堂」という。

 
山上会館
(さんじょうかいかん)
 設計は前川國男。東京大学創立100周年記念事業の一環として、昭和61年に三四郎池畔の山上
会議所跡地に建設された。会議室や食堂、宿泊室などがある。現在も「山上会議所」と書いた文献や
パンフレット、案内書がある。混同しているのだろう。
 また龍岡門付近には山上会館龍岡門別館がある。ローソンのあるところだ。

 有馬朗人の句碑
 平成17年12月22日教職員、卒業生、東大銀杏会有志の後援を得、有馬朗人日本科学技術振興
財団会長(元東大総長・文部大臣・科学技術庁長官・俳句同人誌「天為」主宰)の句碑が
山上会館の
庭園に建てられた。当日行われた句碑開きには、林元副学長をはじめ東京大学の関係者の参列も得て
多数の関係者が会し、厳かに開催された。


   銀杏散る万巻の書のページあり
(有馬朗人)


 有馬の句は、青邨の句意とは打って変わり、21世紀ノ新しい時代の希望に満ちた未来に対する東
大の役割の大きな変化を高らかに詠っている。この地において、過去の過ちを超えて、世界の発展の
ための拠点として広く多くの人々に情報発信せよ、そうして東大は世界の平和に貢献できるんだよと
いうことをしめしているのだ。

 
 
加賀藩石垣遺構

 山上会館の裏手に一部が残っている。

   この石垣は、東京大学山上会館の建設に伴う発掘調査で発見され、その一部を移築復原し
   たものである。東西方向に北面して約15mにわたって検出された。三段目まで現存して
   いたが、本来はもっと高く、上に瓦葺き建物が存在した可能性がある。石材は溶結凝灰岩
   および安山岩で、採石時の鑿跡と刻印が認められる。
   刻印には金沢城と共通するものがある。江戸時代初期の構築と考えられるが、前田家の史
   料、絵図には記載が観られない。
   昭和61年7月                             東京大学


■東京大学医学部附属病院
 安政六年(1858)「神田お玉ヶ池種痘所」を設立。文久元年(1861)「西洋医学所」と改
称。同3年「医学所」と改称。明治元年横浜軍陣病院を神田和泉橋旧藤堂邸に移転して「大病院」と
命名医学所は大病院に附属させる。同2年2月医学所を大病院に併合させ医学校兼病院とする。12
月「大学東校」と改称。同4年「東校」と改称。同5年「第一大学区医学校」と改称。同7年「東京
医学校」と改称。
 同9年東京医学校校舎・寄宿舎及び病院を本郷本富士町の旧加賀藩上屋敷に新営移転。同10年開
成学校と東京医学校を合併し「東京大学」開学。大病院を「東京大学医学部附属病院」と改称。同1
1年神田に附属病院を設立「東京大学医学部附属第二病院」とし、本郷を「東京大学医学部附属第一
病院」とする。同19年東京大学は「帝国大学」、医学部は医科大学となり、第一病院・第二病院は
「帝国大学医科大学附属第一・第二病院」に改称。同26年「帝国大学医科大学附属病院・分院」と
改称。同30年京都大学新設により帝国大学を「東京帝国大学」と改称。病院を「東京帝国大学医科
大学附属病院」と改称。大正8年医科大学を「医学部」」と改称、病院を「東京帝国大学医学部附属
病院」と改称。昭和22年東京帝国大学を「東京大学」に、病院も「東京大学医学部附属病院」に戻
称。平成13年分院を本院に統合。同19年院内保育園「いちょう保育園」開園。同23年総合周産
期母子医療センターに指定。

 龍岡門
 キャンパス南部にある門。昭和8年完成。設計は内田祥三。名称は門周辺の旧地名「龍岡町(湯島
4丁目)」に由来する。近くに「鉄門」と呼ばれる門があったため、龍岡門の通称が鉄門であると混
同している人が多い(龍岡門周辺に多くの施設をもつ医学部の通称が「鉄門」であることも影響して
いる)。確かに『昭和十四年四月 東京帝國大學産婦人科教室 第十八回助産婦復習生』のアルバム
には「鐡門」と説明されている。嘗ては門扉が付いていたが、門柱間を広げる工事を行う際に撤去さ
れ、現在は門柱のみとなっている。常時開放されており、一般車両も入構できる。付近には医学部・
薬学部の施設の他、大学本部(本部棟・第二部棟)がある。医学部附属病院も近く、同病院に車で来
院する時は龍岡門から入場することになる。門の右手の建物が、夜間外来患者診察所の建物。現在広
報センターとして使用。

 
東京大学中央道路
 学校域と病院域を分ける。バス通りでもある。

 外来患者夜間診察所 → 東京大学広報センター
 南研究棟と共に、岸田日出刀の設計。岸田日出刀は内田祥三の門下生。ゲート・ロッジというヨー
ロッパ領主の館の門脇の建物を意識した構成を有していると思われる。様式的には鉄筋コンクリート
構造を前提としたマッシブな(重量感のある)構成を採る。大正15年1月の竣工。旧医師会事務局
でもあった。平成7年に改修され、広報センターとなった。同15年度に東京都選定歴史的建造物に
指定された。

 山上会館龍岡門別館
 広報センターの先の右手にある。


 南研究棟
 龍岡門寄りの建物で大正14年竣工。デザインは前田日出刀。。「耳鼻咽喉科及整形外科病室」と
して建築された。現在は臨床系の研究棟として利用されている。森鴎外の『雁』に登場する岡田の下
宿は、この辺りにあったた。旧鉄門も、この辺りが入口で、正面に東京医学校本館があり、左手に第
一醫院があった。

 設備管理棟
 南研究棟と鉄門の間にある。

 佐藤三吉銅像 移設
 設備管理棟の近くにあったが、第一研究棟前に移した。


■外来病棟

 龍岡門から入って南研究棟の北の建物。バス停東大病院前の側だ。

■管理研究棟
 旧附属病院。外来診療棟の北側の建物。関東大震災の復興計画に基づき、昭和13年竣工。アケー
ドを抜けると正面にスカイツリーが見える。不思議に低く感じる。附属病院が本郷台地にあることが判る。

 「長崎への医学の伝来」のレリーフ
 管理研究棟入口左のアーケード上部。彫刻家日名子実三の制作。

■第1研究棟

 管理・研究棟の北側の建物。

 「診断・治療・予防」のレリーフ
 第一研究棟入口左のアーケード上部。彫刻家新海竹蔵の制作。

 佐藤三吉像
 像は胸像で、構内バス通りの売店の向かいに置かれている。幕末に大垣藩士の子として誕生。明治
15年に東大医学部を卒業した後、ドイツへ留学して最先端の医学を学んだ。帰国後は医科大学教授
として後進の育成に努め、明治34年には東京帝国大学付属病院の院長に就任。外科の権威として、
日本の医学界の近代化に尽力した。台座のレリーフは手術中の佐藤。

 青山胤通像 ✓
 像は胸像で、佐藤三吉像の左並びに置かれている。幕末に苗木藩士の3男として誕生。明治15年
に東京大学医学部を卒業後、恩師であったエルヴィン・ベルツの推挙を受けてドイツへ留学、内科を
専攻した。帰国後は東京帝国大学医学大学校内科学教授(のち学長)として教鞭を執る一方で、伝染
病研究所所長などを歴任し、日本の医学発展に尽力した。日本最初の癌研究機関である癌研究会の設
立者の一人でもある。残念なことに、森鴎外と共に脚気を感染症と固執して医学を遅らせた。日露戦
争戦病死者の半分は脚気による死亡者であり、白米を食べさせたことが原因であった。海軍では高木
兼寛の食事説を採って麦飯に切り替えて被害者は出なかった。

   君美濃人明治二十一年
   任東京帝國大学醫科大
   學敎授二十四年綬醫學
   博士■補附屬醫院長後
   補醫科大學長在官三十
   載門人遍于天下■名布
   于中外大正六年特授男
   爵十二月二十三日薨距
   生安政六年五月十五日
   享齡五十又九君既逝僚
   友門下■■建像乎大學
   域内以表遍慕之

   大正九年
   新海竹太郎作


 傍らの大学の説明板。

   青山胤通
   
1859~1917
   美濃国苗木藩士の三男として江戸麻布の下屋敷に生れる。明治15年に東京大学医学部を
   卒業。明治16年にベルリン大学に留学し、ウィルヒョウ教授らについて内科学と病理学
   を学んだ。帰途、パリでシャルコー教授にも教えを受けた。明治20年に帰国後、帝国大
   学医科大学教授に就任、明治25年より和泉橋の第二医院内科を主管した。明治26年講
   座 の発足により内科第二講座教授(後に第一講座教授)に就任した。明治27年春香港
   のペスト流行に際し、北里柴三郎博士と共に派遣され病理解剖を担当したが、自ら感染し
   た。医科大学学長16年間務め、医学界に影響力を発揮した。この間、文部省に移管され
   た伝染病研究所の院長も兼任した。明治36年第一回日本内科学会会長、明治41年癌研
   究会初代会頭。在任中の大正5年胃噴門癌で没した。


■鉄門(てつもん 旧正門)
 龍岡門よりも東の医学部附属病院中央診療棟南側に、明治12年から大正7年まで存在していた。
鉄門の外側の民有地を大学が購入し、大学の敷地を門で区切っておく必要がなくなったため、撤去さ
れた。現在ある鉄門は、平成18年5月31日に同位置に再建されたものだ。なお本郷通りに面する
現在の正門が設置されるまでは、鉄門が本郷キャンパスの正門とされていた。かつて医学部本部棟が
この付近にあったため、「鉄門」は東京大学医学部、あるいは東京大学医学部医学科卒業者の代名詞
となっている。現在では、医学部教育研究棟内に「鉄門記念講堂」も存在する。

■中央診療棟1・2
 外来病棟の奥というか東の建物。低い方が1、高い方が2。救急車は2に入る。

 相良知安先生記念碑
 入院棟Aの玄関近くに建つ。池之端門を入って直ぐの丘の上に昭和10年から建ててあったが、平
成21年東大病院の創設150周年記念事業の一環として移設した。
 相良知安は、佐倉順天堂で佐藤泰然、長崎精得館でオランダ人医師ボードウィン(ボードワン)に
より医学を学ぶ。明治維新に際して、イギリス医学ではなくドイツ医学の採用を進言しその説が採用
された。明治初期の医療行政において文部省医務局長などの役職を経験したが、強引なドイツ医学の
採用の進言の経緯でウィリスを推していた西郷隆盛や山内容堂の体面を潰したことで薩摩閥、土佐閥
の恨みを受け、明治3年知安の部下の大学会計の不正疑惑に連座して収監された。この時の弾正台長
は土佐閥の河野敏鎌だった。後に石黒忠悳、江藤新平らの献策により出獄が適い復職が叶うも、同6
年に第一大学区医学校校長と文部省医務局長兼築造局長を罷免される。この理由は前述のドイツ医学
採用の経緯や、明治6年政変(征韓論争)で下野した親友の江藤新平を支持したことなどの理由が考
えられる。その後は文部省内の閑職で過ごし、明治18年文部省御用掛として編輯局勤務を最後に一
切の官職から退いた。後年は頑迷な性格により世に受け入れなくなり、官界を去り晩年は、妻を郷里
において芝区神明町(当時は古川の川岸は貧民窟として知られていた)の長屋に愛人と同棲し、生活
に困窮し、筮竹を片手に遊女相手の街の占い師に身を窶したといわれる。64歳で、勲五等瑞宝章授
与される。同39年インフルエンザに罹りひっそりと死亡した。死後、明治天皇の勅使が「祭粢料」
を持って陋宅を訪れた。近所の人々は、長屋に住むうらぶれた老人が嘗ての政府の顕官であることを
知り驚いたという。墓は佐賀市の城雲院に建てられている。戒名は鉄心院覚道知安居士。

   
相良知
   
安先生
   
記念碑

                         枢密顧問官正二位勲一等忠悳 題額
   明治維新ノ初政府将ニ和蘭医学二代フルニ英吉利医学ヲ以テシ医学教育ノ目的ヲ一新セン
   トス時ニ世上頻ニ独逸医学ノ宇内ニ傑出セルヲ説クモノアリ又来朝中ノ一外人モ亦頗ル之
   ヲ賛スルアリ茲ニ於テ廟議断然独逸医学ヲ採用スルコトニ決シ普魯西公使ニ嘱シ医学教師
   ヲ聘セントス適普仏戦争起コルニ会シ其事行ハレス明治四年ニ及ヒテ始メテドクトルミュ
   ルレル来朝スルアリ遂ニ其提案ニ據リ本邦医学教育方針ノ確立ヲ見ルニ至レルカ其制度ハ
   一ニ独逸ニ則リタルモノナリ此間ニアリテ斡旋努力幾多ノ反対論ヲ説服シテ政府ノ企畫ヲ
   達成セシメタルモノヲ相良先生ト爲ス先生ハ実ニ本邦ニ独逸医学ヲ輸入シタル恩人ナリ先
   生知安弘庵ト号ス佐賀藩医ナリ明治二年一月召サレテ医学校御用掛ヲセラレ医政ニ鞅掌ス
   尋テ大学少丞ニ任せラル五年十月第一大学区医学校学長ニ逼リ翌年文部省築造局長ニ任シ
   医務局長ヲ兼ヌ先生ノ医務局長タルヤ建議シテ上野一帯ノ地ニ医学校及大学病院ヲ新築シ
   長橋ヲ不忍池ニ架シ以テ交通ニ便ナラントセリ而カモ一部ノ反対ニ遇ウテ果ス能ハズ先生
   乃チ政府二逼リ其代償トシテ本郷ノ旧加賀藩邸ヲ得テ以テ医学校建設ノ地ニ充テンコトヲ
   請ヒ之ヲサル九年ニ至リ医学校及病院ノ新営始メテ成ル是レ今日ノ帝国大学所在ノ地タリ
   先生ノ文部ニ官スル部下ノ屠スル所トナリテ奇禍ヲ蒙レルコトアリ冤雪カレテテ出仕スル
   コト両度ニ及へルモ皆久シカラスシテ之ヲ罷メ遂ニ韜晦シテ復タ出テス三十三年政府其前
   功ヲ録シ勲五等ニ叙シ双光旭日章ヲ賜フ三十九年六月十四日病ンテ殞ス享年七十一特旨ヲ
   以テ正五位二叙セラル先生人ト爲リ剛毅果敢甚ダ才幹アリ狷介孤峭極メテ自信ニ篤シ是ヲ
   以テ世ト相容レス轗軻其身ヲ終フ深ク惜ムベキナリ先生ノ歿ヲ距ル茲ニ二十有余年後進ノ
   徒先生ノ本邦医学制度創設ノ際ニ於ル功績ノ湮滅ニ帰センコトヲ慮リ相謀リ貲ヲ醸シ石ヲ
   帝国大学ノ庭中ニ樹テ之ヲ表彰セントシ文ヲ予二徴ス予不文敢テ當ラスト雖モ爰ニ先生ノ
   事歴ヲ畧賀シテ以テ後毘ニ諗クト爾カ云フ
              東京帝国大学名誉教授正三位勲一等医学博士 入澤達吉撰
                                      野村保泉刻


 傍らの説明板に曰く。

   相良知安先生記念碑
    明治維新後、わが国の医学教育はオランダ医学からオランダ医学へ転換する方針であっ
   た。しかしながら明治2年医学取調御用掛に任ぜられた佐賀藩医の相良知安(さがらちあ
   ん)の強い進言により、当時隆盛を示していたドイツ医学の採用が決定した。これにより
   明治4年プロシアの軍医ミュルレルとホフマンが招聘された。相良は明治5年に医学校校
   長を任ぜられ、さらに文部省医務局長を兼任した。現在の上野公園の一帯に医学校と大学
   病院の建設を計画したが容れられず、本郷旧加賀藩邸を代替地として請願し許された。相
   良の尽力により東京医学校は明治9年に下谷和泉橋通りから本郷に移転し、明治10年に
   東京大学医学部となった。
   本記念碑は明治4年に入澤達吉名誉教授の撰文によって池之端門上の高台に建てられた。
   近年は樹木と建物に隠れ、その存在は忘れられていたが、わが国の近代医学史を記す貴重
   な史料であることに鑑みこの地に移した。
   平成19年3月                  東京大学医学部・医学部附属病院

   
相良知安先生記念碑             枢密顧問官正二位勲一等忠悳 題額
   明治維新ノ初政府将ニ和蘭医学二代フルニ英吉利医学ヲ以テシ医学教育ノ目的ヲ一新セン
   トス時ニ世上頻ニ独逸医学ノ宇内ニ傑出セルヲ説クモノアリ又来朝中ノ一外人モ亦頗ル之
   ヲ賛スルアリ茲ニ於テ廟議断然独逸医学ヲ採用スルコトニ決シ普魯西公使ニ嘱シ医学教師
   ヲ聘セントス適普仏戦争起コルニ会シ其事行ハレス明治四年ニ及ヒテ始メテドクトルミュ
   ルレル来朝スルアリ遂ニ其提案ニ據リ本邦医学教育方針ノ確立ヲ見ルニ至レルカ其制度ハ
   一ニ独逸ニ則リタルモノナリ此間ニアリテ斡旋努力幾多ノ反対論ヲ説服シテ政府ノ企畫ヲ
   達成セシメタルモノヲ相良先生ト爲ス先生ハ実ニ本邦ニ独逸医学ヲ輸入シタル恩人ナリ先
   生知安弘庵ト号ス佐賀藩医ナリ明治二年一月召サレテ医学校御用掛ヲセラレ医政ニ鞅掌ス
   尋テ大学少丞ニ任せラル五年十月第一大学区医学校学長ニ逼リ翌年文部省築造局長ニ任シ
   医務局長ヲ兼ヌ先生ノ医務局長タルヤ建議シテ上野一帯ノ地ニ医学校及大学病院ヲ新築シ
   長橋ヲ不忍池ニ架シ以テ交通ニ便ナラントセリ而カモ一部ノ反対ニ遇ウテ果ス能ハズ先生
   乃チ政府二逼リ其代償トシテ本郷ノ旧加賀藩邸ヲ得テ以テ医学校建設ノ地ニ充テンコトヲ
   請ヒ之ヲサル九年ニ至リ医学校及病院ノ新営始メテ成ル是レ今日ノ帝国大学所在ノ地タリ
   先生ノ文部ニ官スル部下ノ屠スル所トナリテ奇禍ヲ蒙レルコトアリ冤雪カレテテ出仕スル
   コト両度ニ及へルモ皆久シカラスシテ之ヲ罷メ遂ニ韜晦シテ復タ出テス三十三年政府其前
   功ヲ録シ勲五等ニ叙シ双光旭日章ヲ賜フ三十九年六月十四日病ンテ殞ス享年七十一特旨ヲ
   以テ正五位二叙セラル先生人ト爲リ剛毅果敢甚ダ才幹アリ狷介孤峭極メテ自信ニ篤シ是ヲ
   以テ世ト相容レス轗軻其身ヲ終フ深ク惜ムベキナリ先生ノ歿ヲ距ル茲ニ二十有余年後進ノ
   徒先生ノ本邦医学制度創設ノ際ニ於ル功績ノ湮滅ニ帰センコトヲ慮リ相謀リ貲ヲ醸シ石ヲ
   帝国大学ノ庭中ニ樹テ之ヲ表彰セントシ文ヲ予二徴ス予不文敢テ當ラスト雖モ爰ニ先生ノ
   事歴ヲ畧賀シテ以テ後毘ニ諗クト爾カ云フ
              東京帝国大学名誉教授正三位勲一等医学博士 入澤達吉撰
                                      野村保泉刻


 
ベルツの庭石
 中央診療棟2の前(南)の道路分離帯の植栽にある。元は臨床試験棟の辺りにあった富山藩邸の庭
石だ。

   ベルツの庭石
   この庭石は不忍池を見下ろす高台に据えられたものである。庭園は明治9年に来日したド
   イツ人教師ベルツ博士の住む教師館に接しており、博士も庭仕事を好んだといわれる。
   庭園のあった御殿は日本語で教育を行う医学別課の教場として使用された。医学別課の廃
   止に伴い、明治26年に御殿は現在の山上会館の地に移築され、残された庭石は、博士に
   因み「ベルツの庭石」と呼ばれるようになった。庭石はその後長く院内の崖地に放置され
   ていたが、平成18年9月中央診療棟2の竣工に際しこの地に移設された。
   平成19年3月                  東京大学医学部・医学部附属病院

■中央棟南・一般駐車場棟
 管理研究棟の奥というか東にある。


■内科研究棟
 第一研究棟の東側にある建物。

■入院棟A
 中央診療棟の東の高層ビル。


■中央棟東
 中央棟南・一般駐車場棟の東にある建物。


■入院棟B
 中央棟東にある建物。

■東研究棟
 内科研究棟の東、入院病棟の北にある建物。


■臨床試験棟
 東研究棟の東にある建物。


■富山藩上屋敷跡→別課生教場跡
 富山藩邸は、池之端門を入って左手の崖上(本郷台地の端)、臨床試験棟の一帯にあった。富山藩
10万石は加賀前田家の支藩だ。
 医学別課教場とは、医学を日本語で教えた場所。富山藩屋敷(松平大蔵大輔跡)の庭園跡にあった
ベルツの庭石は、現在、病院・入院棟Aの前(車道中央地帯)に移設されている。


■ドナルドマクドナルド・ハウス東大
 池之端門近く。東大本郷キャンパス内の入院患者とその看護家族ための滞在施設。平成23年12
月、東大と公益財団法人のドナルド・マクドナルド・ハウス・チャリティズジャパンが設立。


■ベルツ博士教師館跡
 現在の看護婦宿舎の辺りにあった。この一帯は富山藩上屋敷のあったところで、ここからの不忍池
・上野の山(上野台地)の眺望は、素晴らしかったに違いない。ここにあった「ベルツの庭石」は、
中央診療棟2の南の道路分離帯の植栽に移されている。


■看護職員等宿舎
 敷地の北端、池之端門の一帯にある。


■最先端臨床研究センター 
 病院敷地の最北西側にある。


■相良知安先生記念碑 移転
 池之端門を入った前の小高い丘の上にある。昭和10年3月建立。入澤達吉撰文。題額は石黒忠悳
による。記念碑のまわりは、落葉が堆積しており、古いものが大切にしない東大の本領が発揮されて
いた。日本を駄目にしたのは、幕末以来の長州田布施システム、秘密結社長州黒手組(安倍晋三)と
その手先となった一部の東大閥だ。評判の悪さを気にしたか、平成21年東大病院の創設150周年
記念事業の一環として、入院棟Aの玄関付近に移設した。


東大裏門 → 池之端門
 病院敷地の東北角にある東大の東門。出た先が台東区池之端なのでこの名がある。


※東京大学医科学研究所
 港区白金台4‐6‐1にある。こちらにも附属病院がある。
 

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