文京区 春日について

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【春日】(かすが)1~2丁目                     昭和39年8月1日
 春日殿町。寛永七年(1630)春日局(家光の乳母)の願い出により下男30人が拝領した原
野が町屋となった。明治5年までに長右衛門屋敷と付近の武家地を合せて小石川春日町を称えた。
同11年「郡区町村編制法」により小石川区に所属。同44年「市制町村制改正」により小石川の
冠称を外した。昭和15年餌差町・下富坂町・小石川町の一部を合併して1~3丁目に分ける。同
22年文京区に所属、同39年新住居表示により小石川2丁目と仲町・金富町の全部に、春日町2
丁目・大和町・表町・水道町・大門町・同心町・第六天町の各一部を併せた町域を現行の「春日」
とした。これで1丁目は後楽となり、元々の春日町は本郷2丁目の内に取り込まれてしまった。こ
の町に嘉納柔道の「講道館」がある。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『文京区史』『文京の歴史』など。

 春日の由来
 春日局(かすがのつぼね)の願い出により下男30人の拝領地となったことによる。春日は奈良
県の地名で、由来は「幽処(かすか)=ひっそりとした原始林のある土地」の意。春日局は三代将軍
家光の乳母。しかし本当は母親ではなかったかと疑る向きもある。そう考えれば納得のいくことが
多い。秀忠夫妻が弟忠長を溺愛したこと・忠長が大坂百万石を要求したこと・家光が忠長を切腹に
追い込むこと・家光が祖父家康を異常に尊んだこと・春日局という名称は足利将軍の正室の称号と
して使われたものであること。春日局の墓は湯島4丁目、東京大学の東南、春日通りに面した麟祥
院にある。女性的な静かなたたずまいの寺だ。

   春の日を一町老女残すなり(川柳)
 


■後楽園駅

 春日1丁目2番にある東京メトロ丸の内線・南北線の停車場。昭和29年1月20日の丸ノ内線池
袋~御茶ノ水間開業と同時に設けられた。この区間は、丸ノ内線で最初の開業区間。南北線が乗り入
れたのは、それからだいぶ後の平成8年3月26日のことだ。
 丸ノ内線ホームは高架相対式2面2線ホームで地上2階にある。南北線ホームは島式1面2線ホー
ムで地下6階にある。全てのホームにエレベーターが設置済みである。
 改札口は3ヶ所あり、その他に都営三田線・大江戸線春日駅と直接つながる乗換専用の中間改札が
ある。出口は1~4a・4b~6・8の計8ヶ所。出口は基本的に春日駅と共用であるが、出口番号
はそれぞれ分離されている。
 東京ドームシティの最寄駅のひとつであり、南側にある水道橋駅に対して後楽園駅は北側にある。
東京ドームで巨人戦が開催される日は猛烈に混雑する。プロ野球を外野席で観戦する場合は、水道橋
駅を使うよりもコチラの方がずっと近い。逆にネット裏で観戦する場合は、水道橋駅の方が便利であ
る。
 後楽園駅は、関東の駅百選選定駅。選定理由は「東京ドームと遊園地を抱え開放的な地下空間を取
り入れた駅」となっている。「開放的な地下空間」は南北線ホーム真上の地下5階コンコースのこと
で、非常に高い天井に2本の大きな柱がそびえ立つ様は圧巻。南北に2ヶ所存在するが、ここが地下
であることを忘れそうなくらい広々としている。


■小石川税務署

 春日1丁目4番5号にある。


■牛天神(北野神社)

 春日1丁目5番2号にある。普通「天神」というと菅原道真の霊を祀ったものとされるが、元々は
天から降臨する神、つまり「天の神」を意味し、各地域社会ごとに祭られていたものだ。湯島にして
も北野神社にしても、古くから人々が居住していた水辺の集落だったことから考えて、天から降臨す
る自然神の小祠は作られていただろう。天神信仰の原始形はこうしたものだったが、古代末期菅原道
真の怨霊が雷神信仰と結びついて発展したことから、京都の北野天神社に祀り籠めて怨霊の祟りを鎮
めようとした。そのことが契機となって北野天神が有名になった。近世になって外部との交流機会が
増えるに従い、社格を整える必要に迫られ、北野天神もしくは菅原道真を勧請したというのが本当の
とこだろう。
 小石川のこの辺りも、湯島とほぼ同様な地形で特に入江になっていた。縁起によると、源頼朝が舟
を止めて凪を待っていると、夢枕に牛に乗った天神が出現したことになっている。そのために元暦元
年(1184)頼朝が創建したと伝える。しかし源氏の頼朝が菅原氏の氏の神を祭らねばならないの
か? 石清水八幡だろう。より古くには、山上(伝通院の辺)にあった神木の榎に神が降りたのが始
まりといい、また牛石と名づけられた巨石にも神の依代(よりしろ)としての意味があったかもしれ
ない。牛天神の謂れだ。

 中島歌子の歌碑
 北野神社の54段の急な石段を上ると右手に歌碑「雪中竹」がある。歌子没後の明治42年に弟子
たちが建立したもので、弟子の鍋島侯夫人栄子の字で、

   
きのうちに祢(ね)ざしかためて若たけの 生ひでむとしの光をぞおもふ

 と刻まれている。堂々たる歌碑だ。歌子は、幼名トセ、号は萩園・萩の舎。水戸藩士林忠左衛門の
妻、池田利右衛門養女。加藤千浪門人。御歌所出仕・日本女子大学校国学教授を務める。門人に樋口
一葉がいる。明治36年歿、行年60歳。

 太田神社
 境内にある。高木神社を合祀。

   芸能の神・福の神 太田神社             春日1‐5‐2 北野神社内
   芸能の神天鈿女命と武の神猿田彦大神ををまつる。人々の信仰熱く、関東大震災の頃まで
   は、祭りの日ともなると、未明から深夜まで参拝の人で賑わったという。芸能の神として
   歌舞伎、新劇人など芸能人の信者を集め、名のある役者が度々訪れた。
   なおこの神社は、貧乏神といわれた黒闇天女(弁財天の姉)を祀っていたが、江戸の頃、
   この近くに住む貧乏旗本の窮状を救ってからは、福の神として庶民の信仰を集めるように
   なったという伝説が残っている。
   合祀の高木神社は、旧第六天町(小日向1丁目)にあった五穀豊穣の神である第六天社を
   道路拡張に伴いここにうつしたものである。
                 ━郷土愛をはぐくむ文化財━
                文京区教育委員会 平成元年3月
    


■牛坂

 春日1丁目4・5番(北野神社)と9番(区立第三中学校)の間の坂道。牛は北野神社にある牛石
に因む。

   
牛坂
   北野神社(牛天神)の北側の坂で、古くは潮見坂・蛎殻坂・鮫干坂など海に関連する坂名
   でも呼ばれていた。中世は、今の大曲あたりまで入江であったと考えられる。牛坂とは、
   牛天神の境内に牛石と呼ばれる大石があり、それが坂名の由来となったといわれる。(牛
   石はもと牛坂下にあった)
   『江戸志』に、源頼朝の東国経営のとき、小石川の入江に舟をとめ、老松に繋いで凪を待
   つ。その間、夢に菅中(菅原道真)が、牛に乗り衣冠を正して現われ、ふしぎなお告げを
   した。夢さめると牛に似た石があった。牛石これなりとある。
               文京区教育委員会 平成16年3月
 


■筑波大学附属大塚養護学校 → 附属大塚特別支援学校

 春日1丁目5番5号にある。明治41年東京高等師範学校附属小学校の第三部に、初めて補助学級
の名を冠した教育機関として設けられた。当時の第三部は単級学級(1年から6年まで)、二学級(1
・2・3年と4・5・6年)、複式学級など特殊な学級編成によったもので、研究を目的とした。補
助学級は、知的障害児の特別な教育という意味と、単級編成という意味で、第三部に属していた。同
45年2学級編成となる。大正9年附属小学校全体の機構が再編され、五部組織となり、従来の補助
学級は第五学部となる。
 昭和19年太平洋戦争の激化にともない、一時休校となる。
 同27年社会事情もだいたい安定し、昭和26年大学に特殊教育学科が設けられたことから、その
研究及び実習の機関が必要となり再編。同31年東京教育大学附属中学校特殊学級が1学級新設され
る。同34年大学内に養護学校運営委員会が設けられ、基本方針を打ち出し、附属小学校第五部、附
属中学校特殊学級をそれぞれ従来通り附属小、中学校との密接な関連を維持しながら、それぞれの特
殊学級部とし、統一的な運営をすることとなる。附属中学校特殊学級1学級増設。同35年従来の附
属小学校第五部(二学級)及び附属中学校特殊学級を母体として、養護学校が認可され、同時に小学部
及び中学部で各1学級増設。開校式。同37年高等部2学級新設。同38年幼稚部(5歳児1学級)
が新設され、同39年4月2年保育課程(4歳児1学級)が認められる。8月新校舎1・2号館が現
在地に完成し移転。同41年4月高等部一学級が増設され、幼2、小3、中3、高3の一貫学級編成
となる。8月第2期工事として講堂兼体育館及び作業室などが建築完成、新校舎落成記念式典及び祝
賀会を行う。同45年特別学級1学級新設。同46年特別学級1学級増設。同53年東京教育大学閉
学にともない、新設の筑波大学に移管。同59年3号館(幼稚部教室、遊戯室、小学部高学年教室、
音楽室など)増設。同60年1号館、2号館の改修工事が完了し、3号館増築と併せて落成式。平成
2年創立30周年記念式典。同4年国賓チェコスロバキア大統領夫妻来校。同10年国賓ブレア英国
首相夫妻来校。同11年国賓コロンビア大統領夫人来校。同17年国賓パラグアイ大統領夫人来校。

 校歌「
空には明るい緑の梢」 作詞・青木幹勇  作曲・井上武士
  1.空には明るい緑の梢
    ああ我ら若桐
    香り豊かな花を開こう
    紫の花 桐の花
  2.空に羽ばたく光の翼
    ああ我ら若鳩
    心素直に共に育とう
    真心の友 桐の友


 
特別支援学校とは・・・

 障害により学習上・生活上の困難がある子どもに対して、特別支援教育の理念に則った教育を行う
学校で、平成19年の学校教育法改正によって誕生し、それまでの聾・盲・養護学校を一本化し、そ
れぞれの学校毎に主たる障害種が決められる。在籍する幼児・児童・生徒に教育を施すだけではなく
地域の幼稚園、小・中・高等学校に在籍する幼児児童生徒の教育に関する助言・支援、いわゆる「セ
ンター的機能」も担うよう定義されている。従来の障害に加えて、発達障害などの子どもたちにも、
地域や学校で総合的で全体的な配慮と支援をしていくことになる。なお高等特別支援学校、特別支援
学校高等部では源流留置がない(高等学校とは違い、定期考査をしないところもある)。法施行年に
校名を変更した盲学校・聾学校・養護学校は、既存の学校916校のうち182校、都内では1校。


■小石川区役所跡

 春日1丁目9番21号、文京保健所小石川保健サービスセンターのところにあった。


■萩の舎跡

 
春日1丁目9番27号(ロータリーパレス春日安藤坂)、伝通院参道安藤坂に面してあった中島歌
子が主宰した歌塾だ。樋口一葉が14歳から亡くなるまで学んだところでもある。歌子は幼名を「と
せ」といい、夫と死別後、桂園派の和歌を加藤千浪に学び、自立して萩の舎(はぎのや)を主宰した。
最盛期には梨本宮姫、鍋島・前田両公爵夫人など上流階級の子1000余人で賑わったという。今は
何も残っていない。中島歌子は水戸藩士林忠左衛門の妻だったが、忠左衛門が天狗党に加わって亡く
なったため、実家に戻って歌塾を開いた。

   萩の舎跡                         春日1丁目9番27号
   塾主中島歌子(弘化元年~明治36年)は、幼名とせといい、日本橋に生まれた。水戸藩
   士の夫林忠左衛門が天狗党に加わって獄死したため、実家の旅人宿池田家にもどり、桂園
   派の和歌を加藤千浪に学び、実家の隣に歌塾萩の舎を開いた。
   御歌所寄人伊藤祐命(すけのぶ)、小出粲(つぶら)の援助で、おもに上、中流層の婦人
   を教え、門弟1000余人といわれた。歌集『萩のしづく』(2卷・明治41年刊)など
   がある。明治36年歌子の死去と共に萩の舎は廃絶した。
   樋口一葉(明治5年~明治29年)は、父の知人の紹介で萩の舎に入門した。一時(明治
   23年・18歳)内弟子として、ここに寄宿したこともある。佐佐木信綱は、姉弟子の田
   辺竜子(三宅花圃)、伊東夏子と一葉の3人を萩の舎の三才媛と称した。一葉はここで歌
   作と歌を作るため必要な古典の読解に励んだ。姉弟子の田辺竜子の『藪の鶯』の刊行に刺
   激されて、近世・近代の小説を読み、半井桃水に師事して、処女作『闇桜』を発表(明治
   25年)して、小説家の道に進んだ。
   近くの北野神社(牛天神・春日1-5-2)境内に中島歌子の歌碑がある。
                -郷土愛をはぐくむ文化財-
               
文京区教育委員会 昭和56年3月
 


■春日一丁目児童遊園

 春日1丁目9番29号にある区立公園。昭和45年2月19日開園。


■第三中学校

 春日1丁目9番31号にある区立校。昭和22年
新制中学校として分散校舎で開校、生徒数376
名でスタート。同24年三井邸敷地を譲り受けた現校地に校舎落成。9月20日「三中賛歌」制定。
レコードに吹き込まれて発表された。作詞は野口清教諭、作曲は新島正之による。現在では、応援歌
のような性格のものに変わってきたが、発表は校歌より8年も古く、2番の歌詞には、本校の教育目
標であった「正しく、清く、美しく」が謳われている。

 三中賛歌「富士の高嶺を」 作詞・野口清教諭  作曲・新島正之教諭
  1.富士の高嶺を望みみて
    高き理想に胸ならし
    世界に知識求めつつ
    学び励まんもろともに
    その名も燦と輝ける
    三中 三中 あゝわが母校 
  2.学びの高嶺文の海
    峻しく荒き行末を
    正しく強く美しく
    学び励まんもろともに
    その名も燦と輝ける
    三中 三中 あゝわが母校 
  3.平和の光空に満ち
    若き使命を背に負いて
    心も身をも鍛えつつ
    我等が母校の名を揚げん
    その名も燦と輝ける
    三中 三中 文京三中


 同26年生徒数1780名の区内最大規模校。新校舎落成。校歌は歌詞を広く一般生徒から募集し
同32年9月13日坂田利一教諭ほか5名の校歌選定委員会によって補正して完成した。

 校歌「東雲の空」 作詞・公募校歌選定委員会  作曲・新島正之教諭。
  1.東雲の空ほのぼのと
    明けそめてはや文京の
    安藤坂に聳え立つ
    わが三中の学び校舎
    正しき道を求めんと
    集うわれらに望みあり
  2.真澄の空の陽を受けて
    学びの泉汲みつがむ
    身もすこやかに励みつつ
    自主協同の逞しさ
    その名も高き文京の
    あゝわが三中に誇りあれ
  3.希望の丘に風薫る
    清き心に根ざしよく
    自由の枝を繁らせて
    平和の実求めんと
    われら理想に燃えさかる
    あゝわが三中に栄えあれ


 同35年体育館完成。同37年プール完成。同52年記念碑建立。平成2年コンピュータ室。同9
年創立50周年記念式典。

 校名について
 三中の校地は、三井本家の屋敷跡だ。当時のPTAの熱意と三井家の教育に対する深い理解と厚意
により、この地に「第三中学校」の礎が築かれた。校名はその三井家に因んで第三中学校と名づけら
れた。とは学校の言い分だが、区内3番目の中学校だからだろう。ただそういう理由で、「三」使用
を優先させたということはあるかも知れない。
 


金剛山常泉院
 春日1丁目9番3号にある新義真言宗豊山派の寺。創建年代不詳。卓圍法印が開基となり江戸時代
初期(寛永四年以前)に創建したと伝えられる。御府内八十八ヶ所霊場86番札所。
 「御府内寺社備考」に、

   本所弥勒寺末 小石川不唱小名 金剛山弥勒寺常泉院 起立年代不詳。
   客殿、本尊両部大日如来二体。中尊弥勒菩薩木座像。弘法大師木坐像、
   御府内八十八ヶ所霊場86番札所。
   興教大師木座像。不動明王木立像。愛染明王木立像。地蔵菩薩木坐像。子安観世音木立像。
   閻魔王木立像、丈三尺 首ハ運慶作。
   石地蔵尊、丈二尺五寸。
   宝篋印塔。
   以上酉戌書上


 とある。墓地に
江戸時代末期の侠客〝相政〟こと山中政五郎の墓、明治時代の落語家6代目朝寝
坊夢楽の墓、明治時代の文学者林田春潮の墓、近代登山家小島鳥水の墓がある。

 山中政五郎の墓
 日本橋箔屋町に一家を構え〝日本橋の相政〟で通る。屋号「相模屋」。

 朝寝坊夢楽の墓
 落語家。本名永瀬徳久。素人時代から本名で壮士として政談演説を主催していた。明治17年頃に
長崎で4代目三遊亭圓生の門下で三遊亭圓喬(無断に名乗ったので公認の代数に数えられていない)
と名乗っている。その後活動の拠点を京都に移し、同24年8月に笑福亭圓寿と改名し人気を博して
いた。翌年上京して三遊派に入り、同25年には本名で寄席に出演している。

 その後立花家橘之助と恋仲になり、同26年3月に2人で名古屋へ駆け落ちに走る。ここで2世曽
呂利新左衛門と出会ったのを機に、大阪の寄席に出演するようになる。圓寿から同29年8月には三
遊亭圓相となり、後に東京に戻ってに全亭武生と改め、同31年に6代目夢楽を襲名。同32年、後
の永井荷風はこの夢楽の門下に入って夢之助を名乗っていたが、半年後に寄席に出演していたところ
を父の使用人に見つかったため、家に連れ戻されてしまったという。同39年11月頃から肺病にか
かって体を壊し、翌年死去。享年49歳。

 林田春潮の墓
 明治~大正時代の美術評論家。明治7年長崎県生まれ。本名源太郎。東京専門学校(早稲田大学)
卒業後、同34年都新聞に入社。同紙のほか「中央公論」「中央美術」「読売新聞」などで活動を続
けた。大正11年死去。著書に「日本美術史講談」(共著)。

 小島烏水(新田次郎『剣岳 点の記』の主人公)
 登山家、文芸批評家、随筆家、浮世絵・西洋版画蒐集研究家。明治6年香川県生まれ。本名久太。
横浜商業学校卒業。横浜正金銀行(東京銀行→東京UFJ三菱銀行)入行。定年まで勤め、シアトル
支店長などを歴任。横浜商業学校時代に友人と雑誌『学燈』を編集するなど、早くから文筆に興味を
持つ。銀行に入ってから、明治29年に出した『一葉女史』により評論家として世に注目される。ま
た、登山家としても知られ、同30立川から甲府の昇仙峡まで徒歩で青梅街道を歩く、同32年休暇
に浅間山~木曽へ山旅するなど、旅を趣味とした。志賀重昴の『日本風景論』の影響もあるといわれ
中部地方の山々(日本アルプス)へ入るようになる。木暮理太郎、田山花袋、バジル・ホール・チェ
ンバレン(王堂チェンバレン)、ウォルター・ウェストンと交遊がある。同38年山岳会創設。昭和
6年日本山岳初代会長。

   余が槍ヶ岳登山を思い立ちたるは一朝一夕のことにあらず
   何が故に然りしか
   山 高ければなり
   山尖りて険しければなり

 平成23年6月20日に全国ロードショーの山岳映画「剣岳 点の記」(木村大作監督)の主人公
としてえがかれている。明治40年古来前人未踏の「死の山」といわれてきた北アルプスの名峰剣岳
(2999m)に、不屈の闘志、献身の心、仲間の絆を信じて挑んだ男たちの物語だ。山岳小説の創
始者ともいわれる新田次郎の著作の映画化したものだ。監督は「鉄道員(ぽっぽや)」などを撮影し
てきた撮影技師の木村大作。50年の映画人生すべてをかけて取り組んだ初めての監督作品。
 また浮世絵や西洋版画の収集家・研究家としても知られ、収集した浮世絵や西洋版画のうち900
点余りが、横浜美術館に収蔵されている。沼田英子『小島烏水西洋版画コレクション』(有鱗堂、平
成15年)や横浜美術館編『小島烏水版画コレクション 山と文学、そして美術』(大修館書店、平
成19年)がある。



■日限不動 東光山荘厳院西岸寺
 春日1丁目12番12号にある浄土宗の寺。元和二年(1616)開山単称長察和尚。開基は内藤
家と小田切家。本尊は木造阿弥陀如来立像。高さ3尺 伝恵心僧都作。阿弥陀如来を中心にして向っ
て右に観音菩薩、左に勢至菩薩、さらにその外側に善導大師と法然上人の御像を祀っている。

 最も古いコンクリート造りの本堂
 鉄筋コンクリート造り2階建て(1階は半地下の納骨堂墓地)。昭和2年関東大震災の被害を省み
て、当時としては前例のないコンクリート造り耐震耐火の本堂を建立。本堂の下を納骨堂墓地にして
それまでの外墓地からご先祖一体づつを改めて焼骨にして納めた。
 同20年愚かなアメリカ軍の空爆で被弾、大屋根は焼け落ちたが建物そのものは内部に火を入れず
に焼け残り、本尊とその荘厳、過去帳等を焼失せずに済んだ。同29年に修復、さらに平成8年に大
改修を施し、既に築80年を経た現存する最も古いコンクリート造りの本堂だ。

 日限不動
 寛文十一(1671)年七月朔日 近隣の名家金杉六左衛門が寄進した。六左衛門は我が子の病弱
を嘆き、不動尊に三七日の間昼夜を問わず一心に祈誓をしたところ、その願満の暁、眼前に不動明王
が現れ、

   我を信ずる者は寿命長久福徳円満如意吉祥にして病気病難忽ち平癒せしめ六親眷属七世の
   父母現世に無病息災、悪事災難を除き望みに随い開運安穏をあたう、また我像を建立し菩
   提所に安置すれば信ずる者の諸願速やかに成就せしむ


 とのお告げを蒙むる。我が子の病も忽ち癒えその恩徳を報ぜんがためこの尊像を建立し西岸寺に寄
像したと由緒書きにある。
 昭和20年3月と5月愚かなアメリカ軍の空襲で不動堂は焼失したが、不動本像は石像であったた
め焼け残った。しかし損傷は大きく、平成8年に不動堂を再建した折、新しく唐金で不動像を造り、
その胎内に石像をお納めした。日限の由来は、7日または5日と〝日を限って〟願をかけて祈ったこ
とによる。旧い記録には、特に足痛の病の平癒を祈る者多く、加持の草履を請け、満願の日に新しい
草履を納めたとある。現在は1月28日の初不動の時だけ護摩を焚き、信者の家内安全、商売繁昌、
身体健全、交通安全、心願成就等万事吉祥を祈願している。元日午前0時より祈願法要を勤め2時ま
で開堂、また三箇日は早朝より夕方まで開堂する。開運御守あり。初不動で護摩祈願(護摩札)を希
望する人は前以て、03‐3811‐3715に連絡すれば案内してくれる。


■中央大学理工学部
 春日1丁目13番5号に後楽園キャンパスがある。昭和24年開設。理工学部と大学院理工学研究
科は、中央大学の「知」の創造部門。東京ドームを間近に臨む後楽園キャンパス、3駅5路線が利用
できる交通の要衝にある。ここには研究者、学生、企業が集まり、共に研究し、成果を社会に還元し
続けてきた。中央理工は、「研究」という実学的な教育方法を通じて、学生、教員、そして大学その
ものが成長する姿のありのままを社会に示し、次世代の上昇志向に応えるとは、学校の弁。
中央大学
の詳細は千代田区神田錦町に詳述。

 
●高窪教授殺人事件
 平成21年1月14日午前10時32分頃、1号館4階のトイレで男性が背中などを刺されて殺害
された事件で、この人の身元は、同大理工学部電気電子情報通信工学科の高窪統(はじめ)教授(4
5 電子工学)と判明した。高窪教授は、背中などを少なくとも十数ヶ所刺されており、同11時3
0分搬送先の病院で死亡した。同庁は、同教授が背後から襲われたとみており、富坂署に特捜本部を
設置した。1号館は研究棟で教室は無く、日ごろから所在する人は少ないという。トイレから出てき
た不審な人物が目撃されており、30歳くらいの黒っぽい服装をした男で、逃走経路は不明。キャン
パスに門は4ヶ所あり、何れも春日通りに面しているが、不審者は目撃されていない。通行人が不審
者を見かけたという申し出はなされていない。最寄の地下鉄の駅のトイレに血痕があり、警察は付近
を封鎖して鑑識に入った。
 大学の広報室などによると、同教授は「高機能集積回路」が専門。上智大学大学院理工学研究科博
士課程修了後、平成9年4月に中央大助教授、同15年4月に教授に就任した。祖父・父母・妻が大
学で教鞭を執っている学者一家で、学生にも評判は良く、他人に恨まれる要素は少ない。個人的なト
ラブルか、逆恨みか、勘違いか? 常識的には恨む要素でないことでも軽薄に恨んで、凶暴に走る傾
向があるのが現代社会だから、何が起きても不思議ではない。
 一日経って教授は、背中側に15ヶ所、手や腕などに防御創が5ヶ所ほど、都合20ヶ所ほどを刺
されたり切られたりしていることが判った。また血痕がトイレから直近の中央階段方向にさらに一階
まで、点々とあり、階段を使って逃走したしたものと考えられる。しかしこの血痕は目視できるほど
の大きさはないとのこと。最初の発見者はトイレに向かう時、犯人と思われる男と擦れ違っており、
その直後に倒れている教授を発見している。彼は不審者がエレベーターを利用する様子はなく、階段
を逃げたようだったと答えているとのこと。またその不審者の服装年齢などは、黒のニット帽、黒っ
ぽいコート、20歳代後半から30歳代、身長は170~175cmの「男」に見えたという。
 捜査本部は、「さらなる詳細な検死の結果、細かい傷を数えると、全体で60ヶ所にも及び、馬乗
りになって執拗に5分間以上刺し続けたようだと発表した。であれば、返り血を相当浴びているだろ
うし、そんな人間が真昼間、何処を逃走したとしても見つからない訳はなく、学内にいて〝知らぬ顔
の半兵衛〟を決め込んでいるのではないか?
 また、世田谷区成城2丁目の高窪宅の周辺150m以内の電信柱に、ペイント・スプレーで書かれ
た文字、「殺」が4ヶ所、「死」が2ヶ所、「呪殺」が1ヶ所あることが判り、捜査本部では関連を
調べている。それを目撃した人の話では、犯行のあった14日以前に書かれていたという。実見した
が、最近書かれたものではない。
 成城では、昔、〝世界の三船〟三船敏郎が演技上の対立から黒沢明映画監督の自宅塀に、「死ね」
などの落書きをし、猟銃をぶっ放したとか、糞尿をぶち撒いたという逸話が残っている。

 犯人逮捕
 5月21日深夜、警視庁は中大卒で高窪教授の教え子だった神奈川県平塚市山下、アルバイト店員
山本竜太(28)を殺人容疑で逮捕した。発表によると、山本は「男子トイレで先生を何回も刺して
殺したことは間違いない」と容疑を認めているが、動機については「今は話したくない」と供述して
いるという。山本は1月14日午前10時20分頃、同キャンパス1号館4階のトイレ内で、高窪教
授の背中や胸など数10ヶ所を用意していた刃物で刺して失血死させた疑い。山本は1年留年して平
成16年3月に同大理工学部電気電子情報通信工学科を卒業しており、卒業論文は高窪教授の指導を
受けたという。
 犯人が特定されたのは、同庁に「卒業生に思い込みの激しい人物がいる」との情報が寄せられ、山
本が浮上した。また高窪教授が昨年5月頃、学生らに対し、山本容疑者を名指しして、「大学に来た
ら教えてほしい」などと話していたことが捜査過程で判り、現場に残された大量の血痕や教授の指先
に付着していた微物のDNA鑑定からも容疑が強まったことから、逮捕当日の昼前、山本に任意同行
を求め事情を聞いていた。山本は東京都出身で、卒業後は大手の食品製造管理会社に就職した後、航
空機器製造販売会社など計5社を転々とし、2年ほど前からは、自宅近くのホームセンターでアルバ
イト店員として勤務。事件後も普段通り仕事に出ていた。

 教授学内殺人
 キャンパス内での教授殺人は、昭和62年7月22日朝、広島大学岡本哲彦学部長(61歳)が学
部長室で胸や背中など4ヶ所を刺されて死んでいるのを同大学庶務係りの事務員が発見した。岡本学
部長の死体には砂や水が掛けられており、相当強い恨みのある者の犯行と想定された。死亡推定時間
は前日21日の午後10時前後と見られた。21日の夜、岡本学部長は同大学の藤井教授の教え子た
ちとのコンパに出席。午後9時30分頃学部長室に戻ったところを襲われたと見られていた。捜査本
部は学部長の研究室関係、知人関係を中心に捜査を開始。そして事件から73日後の10月2日、同
学部長の助手である末光博(44歳)を逮捕した。捜査本部は、末光が助教授になれないことを恨ん
で岡本学部長を殺害したと断定。殺人容疑で逮捕したのだった。
 また平成3年7月11日には筑波大学の五十嵐一(ひとし)教授が殺されている。五十嵐教授は当
時小説「悪魔の詩」を翻訳して出版しており、イランのイスラム教シーア派が殺人予告をしていたこ
とから、犯人はイラン人と見做されてはいるが、目撃者もおらず、確実に翻訳に関わっての殺人かど
うかも判っていない。捜査が進展しないまま、平成18年7月11日15年の時効が成立した。


■中央大学高等学校

 春日1丁目13番27号(中央大学8号館)にある私立校。小金井にあるのは「中央大学附属高等
学校」。昭和3年中央大学商業学校創立開校(甲種・商業科夜間4年制)。初代校長に馬場愿治中央
大学学長が就任。同23年通信教育部開設。「中央大学高等学校」と改称(商業科夜間4年制)。同
32年普通科設置。同41年商業科の募集停止。同55年8月文京区春日の中央大学理工学部校舎に
移転。現在に至る。同57~59年東京都高等学校定通制体育大会総合優勝3連覇。同63年創立6
0周年記念式典挙行。平成元年新入生から修業年限3年制に移行。平成4年4年制最終卒業生と3年
制第一回卒業生が同時卒業。同15年理工学部新棟2・3階に高校施設完成。

 制服
 生徒の意見も採り入れてデザインされた制服。男女共、シャツは2色から選択。女子はリボンとネ
クタイを好みに応じて選ぶことができ、替えスカートと夏用リボンも着用できる。ボタンは、家族的
情味を象徴する「もみじ葵」をデザイン化したものを採用している。


■陸軍工科学校跡→ 東京都戦没者霊苑

 春日1丁目14番4号にある慰霊施設。第二次世界大戦における東京都の戦没者の霊が祀られてい
る。東京都では16万余りの戦没者がでた。それを受けて、戦没者の慰霊と平和の願いを込め、昭和
35年6月に忠霊塔建設予定地だったところ(陸軍工科学校跡地)に建立された。老朽化したため大
改修され、同63年3月に完成し現在の姿となる。設計は相田武文。山本健吉による碑文がある。戦
没日本兵の遺品展示室もあるよ。都福祉保健局生活福祉部の所管だから詳細はそちらへ。

 陸軍工科学校
 明治5年フランス陸軍ルボン大尉が、水戸藩邸に伝諸工集所を開設。同18年砲兵工廠生徒学舎設
立。同29年4月7日陸軍砲兵工科学校となり、大正9年8月陸軍工科学校と改称、昭和13年10
月神奈川県高座郡大野村(相模原市の麻布大学のところ)に移転し、同15年に陸軍兵器学校と改称
して終戦を迎えた。最盛期には学生4000人、軍属1000名にも及んだ。
 隣の礫川公園に跡碑が建てられている。

 鎮魂の碑
 参列広場の正面に、池(水盤)を配置し、池の中に高さ3.36mの人工滝がある。滝を背景に、そ
の中心の水面に浮かぶ形で、高さ1.59mの門形の白御影石に囲まれた黒御影石の碑があり、当時の
鈴木都知事による「鎮魂」の文字が刻まれている。黒御影石の面に、山本健吉選書による平和への願
いを記した文章が刻まれている。

   鎮魂

   碑文
   あの苦しい戦いのあと、40有余年、私たちは身近に一発の銃声も聞かず、過ごして来ま
   した。あの日々のことはあたかも一睡の悪夢のように、遠く悲しく谺して来ます。
   だが、忘れることが出来ましょうか。かつて東京都の同胞たちの16万にも及ぶ人々が、
   陸に海に散華されたことを。あなた方のその悲しい「死」がなかったら、私たちの今日の
   「生」もないことを。そして後から生まれてくる者たちの「いのち」のさきわいのために
   私たちは何時までも
   あなた方の前に祈り続けることでしょう。
   この奥津城どころは、私たちのこの祈りと誓いの場です。同時に、すべての都民の心の憩
   いの苑でもありましょう。
   この慰霊、鎮魂の丘に、御こころ永遠に安かれと、茲にこれが辞を作る。
                                       山本健吉

   
由来文
   東京都戦歿者霊苑は昭和6年の満州事変から日中戦争を経て、昭和20年8月の太平洋戦
   争終結までの東京都関係戦歿者約16万人の霊をまつる。
   敷地は、昭和15年に忠霊塔建設予定地に選ばれた小石川陸軍工科学校跡地である。
   昭和35年、ここに東京都戦歿者霊苑が建設されたが、それは歳月の中に老朽した。また
   年々齢を加える遺族が、安全に慰霊祭に参加するための配慮も必要となった。そこで戦歿
   者の慰霊と平和への願いを新たに、このたび全面改修を行い、昭和63年3月に完成した。
   設計は建築家相田武文、碑文は芸術院会員、文化勲章受章者山本健吉、碑銘の揮毫は東京
   都知事鈴木俊一による。私たち都民はこの霊苑につどい、霊前にぬかずき、改めて戦争と
   は何であったかを深く考えたい。戦歿者の御霊にお願い申上げる。お声を風に托して、戦
   争の実態を私たちに語り聞かせて頂きたい。そして私たちが強い意志と英知をもって、平
   和を守るという至情の命題に取り組めるよう、お導きいただきたい。霊苑が戦歿者の御霊
   と私たちの心の通い路になることを願って、ここに謹んでその由来を記す。
                                      角田 房子

 御製碑
 昭和55年11月17日 日本遺族会創立30周年記念式典 昭和天皇御製。


   みそとせをへにける今ものこされし うからの幸をただ祈るなり


■礫川公園
 春日1丁目15番1号にある区立公園。「れきせん」とよむ。昭和39年8月1日都立公園として

開園。同40年4月1日区に移管され区立公園となった。小石川台地の東端に二段構成で造られた。
文京シビックセンタービルの西側に道路を挟んで位置している。歩道部分は広がっていて公園と繋が
り一体的な広場となっている。広場から一段上がった所からは地下鉄後楽園駅への入口へと直接繋が
っている。シビックセンター(文京区役所)を背にして左側の正面には、高さ10mに及ぶ「カスケ
ード(階段水路)」がある。イタリアルネッサンス式の造園手法を取り入れていて、以前は3段の階
段を水が勢いよく流れ落ちていた。駅に近い植え込みには、サトウハチローに因んだハゼノキや東京
では数少ないハンカチノキが植栽されている。
 「礫川」は「小石川」の漢風表現。「礫」は「つぶて」と読み「小石」の意。

 
カスケード
 段をなして落ちる人工の流れ、水階段ともいう。西洋の庭園特にイタリア・ルネサンス式庭園に、
優れた作品が多く見られる。一口にカスケードといっても全長、幅、段差そして階段の数など区々だ。
自然の滝に匹敵する雄大なものもあれば、小規模で可愛らしいものもある。また階段の周辺に彫刻を
施したり、植込みをあしらったりすることでも趣は変わる。現在カスケードは復元リニューアルされ、
春の花と水階段がいっしょに楽しめるようになっている。

 
ハゼノキ
 ウルシ科に属しており、樹高は10mほどになる。枝は疎らに出て、4枚から7枚の小葉が、30
cmの枝の先に羽のような形に集まってつく。5月~6月にかけて開花し、11月頃になると美しい
紅葉を楽しむことができる。またハゼノキの実からは蝋がとれることでも知られているが、今では昔
ながらの手法で蝋燭を作っているところは極僅かしか残っていない。第一ハゼの実を採る人が居なく
なっている。

 
ハンカチノキ
 大きな純白の2枚の包葉がまるでハンカチのように見えことからこの名前がある。4月から5月に
開花し、春風に揺れ動くさまはえもいわれぬ風情がある。

 
春日局の像
 公園内にある高橋剛の銅製立像。昔、春日1丁目の東、本郷1丁目33番の辺りに春日局の領地が
あり、そこに仕える小者たちを住まわしていたので、春日殿町の俗称が起こり、春日の地名の由来と
なった。その縁でこの公園に銅像が建てられた。春日局が何かしたということではない。春日局の墓
は本郷4丁目の麟祥院にある。

   春日局和歌
   
西に入る月を誘い法を得て今日ぞ火宅を逃れぬるかな

 台座銘と副碑の銘文は以下の通り。

   春日局之像
   高橋剛作 題字 文京区長成島正嗣

   
文京区と春日局
   文京区「春日」の地名は、春日局が乳母として仕えた三代将軍徳川家光より拝領した土地
   に由来し昔は春日殿町と呼ばれていました。また春日局の菩提寺麟祥院が湯島にあり、文
   京区は春日局と歴史的に深い縁があります。昭和64年1月より1年間NHK大河ドラマ
   「春日局」が放映されました。文京区ではこれを契機として「文京区春日局推進協議会」
   を設立し区民の皆様と共に区内の活性化、地域の振興を図ることを目的として種々の事業
   を推進しました。ここに本地業を記念して春日局像を建立することにいたしました。
   平成元年12月吉日                文京区春日局推進協議会
                                文京区
                                文京区産業連合会
                                東京商工会議所文京支部
                                文京区観光協会
                                文京区商店街連合会
                                文京区町会連合会
                                文京区旅館協同組合

 
諸工伝習所跡記念碑/陸軍砲兵工科・工科学校跡記念碑
 公園の階段を上がり、左手の突き当たりにある。2つの碑は同じところに建てられている。向かっ
て左が諸工伝習所跡碑、右が陸軍砲兵工科・工科学校跡碑だ。

   諸工伝習所
   明治5年、政府はフランスの砲兵大尉ジョルジュ・ルボンを招聘し、ここに諸工伝習所を
   創設した。その後、名称はいろいろ変わったが敗戦までの73年間、陸軍技術の教育が続
   けられた。ここが近代陸軍技術教育の発祥の地である。
   明治5年「諸工伝習所」開校
   明治23年「陸軍砲兵工科学舎」と改称
   明治29年「陸軍砲兵工科学校」と改称
   大正9年「陸軍工科学校」と改称
   昭和15年「陸軍兵器学校」と改称
   昭和20年8月閉校


 陸軍砲兵工科・工兵学校跡碑の碑裏の碑文。

   ここは近代陸軍技術教育発祥の地である。明治5年7月15日政府は佛国砲兵大尉ジョル
   ジュ・ルボン氏を招聘しここに諸工伝習所を創立してから第2次世界大戦終結までその名
   は陸軍砲兵工科学校、陸軍工科学校、陸軍兵器学校とかわったが、73年間絶ゆることな
   く陸軍技術の教育が続けられた。本年は諸工伝習所創立100周年にあたるのでその教育
   を受けた有志がここに碑を建てて先達の歩みに思いをいたすものである。
   昭和47年7月15日

東京砲兵工廠の射撃場入口跡
 東京メトロ丸の内線後楽園駅のホームから見える土手の一部に煉瓦積みの壁があるが、これは東京
砲兵工廠の射撃場入口跡だ。射撃場は、昭和17年から日本ライフル射撃協会が「小石川トンネル射
撃場」として使用していたが、現在は使われておらず、入口部分はコンクリートで塞がれている。
 なお文京区ふるさと歴史資料館に内部の写真が展示してある。
 このトンネルは初の国産軍用小銃である村田銃の増産体制のために建設されたと考えられ、主に軍
用小銃や機関銃の試射用(訓練・弾道実験等)の場所として使用されていた。戦後、食糧不足を補うた
め椎茸栽培が行われた。関係者によって再開が宿望され、昭和25年4月2日ライフルボア射撃場に
生まれ変わって開場した。トンネルの全長は約280m。3射座で、50m地点に土手・監的壕を築
き、照明や標的を設置した。後に2階建ての管理棟が建設された。
 昭和27年のヘルシンキオリンピックが行われる際には、参加の為に第1回の全日本小銃射撃大会
が開催された。また同29年には第1回全日本学生ライフル射撃選手権大会が開催され、同39年の
東京オリンピックの際には、選手強化拠点として運用された。
 このトンネル射撃場には、後楽園駅からの直通路が存在し、駅から直接訪れることが可能なことや
文京区役所近くの駐車場を利用できるなどの利便性に優れ、多くの人々に愛用されてきたが、平成1
1年3月31日国に返還され、終焉を迎えた。
 現在は国有未利用工作物として関東財務局東京財務事務所が管理している。



■春日駅

 春日1丁目16番17号にある都営地下鉄大江戸線と三田線の停車場。南北線の後楽園駅と繋がっ
てる。昭和47年6月30日三田線(当時は都営6号線)の日比谷~巣鴨間延伸時に設けられた駅。
大江戸線は平成12年12月12日に乗り入れた。
 三田線のホームは相対式2面2線構造で、白山通りの地下1階にある。上下ホームは地下2階の通
路で結ばれている。大江戸線のホームは島式1面2線構造で、春日通りの地下3階にある。ホームと
改札階を結ぶエレベーターは完備されている。改札口は、三田線4ヶ所と大江戸線1ヶ所の計5ヶ所。
その他東京メトロ後楽園駅との連絡改札が地下5階にある。出口はA1~A6の6ヶ所だが、後楽園
駅5・6・8番出口も利用可能。「文京シビックセンター前」という副駅名がある。シビックセンタ
ーとは区役所。地下でも繋がっている。

 
Sizzling Lives
 大江戸線駅構内にある矢荻喜従郎のグラフィックアート。

   Coca‐Cola
         
シーズリングライブス
   
Sizzling Lives
   
シーズリングライブスは立ち上がる躍動感、湧き上がる生命感
   アーティスト矢荻喜従郎
   
2000年


■文京シビックセンター

 春日1丁目16番21号にある文京区民施設とホール、区役所などの公共機関からなる総合施設。
25階の展望ラウンジからは、富士山・秩父連峰・筑波山を望む雄大な330度のパノラマを楽しめ
る。

 
人間・・・夢
 25階の展望ラウンジの壁面を飾る菅井汲の作品。「NOXU」に見えなくもない。菅井は、世界的に

知られる幾何学的形態を描くアーティスト。

 文京シビックホール
 正式名称は「響きの森 文京公会堂旧文京公会堂の跡地に文京区庁舎と一体化した複合施設。
文京シビックセンターの中心施設として、平成6年に新設された1800余席の大ホールを持ちコン
サートや各種催し物が開催される。


■神田上水石樋の石
 春日1丁目16番28号先、春日町交差点角の植栽にある。説明板は以下の通り。

   神田上水石樋の石
   ここに使われている石は、江戸時代に神田上水で使われていた石樋の一部で、昭和62年
   外堀通りの工事中に現在の水道橋付近から発掘されたものです。
   神田上水とは近世都市のの江戸で最初に整備された上水道であり、徳川家康が江戸入りと
   同時に造らせたと言われています。水源となる井の頭池の湧水を、大洗堰(現在の文京区
   関口)を経てから水戸屋敷(現在の小石川後楽園一帯)に入れ、そこから先は暗渠(地下
   の樋)で通しています。この暗渠で使われていたのが石樋(石で作った樋)です。なお、
   お茶の水坂からは、掛樋(木で作った樋)で神田川の上を横断させて、神田・日本橋方面
   に飲料水として給水されていました。                    文京区


■講道館

 春日1丁目16番30号にある柔道のメッカ。柔道の祖嘉納治五郎は、明治15年初めて下谷区北
稲荷町に道場を開いた。その後神田区南神保町、麹町区上二番町、同富士見町と道場を新築移転し、
明治22年本郷区真砂町にあった陸軍省の建物に移ったのが当区内に移った最初だ。その後明治26
年下富坂町に移り、昭和8東京ドームホテル東側の水道橋際に移転し、現在地には昭和33年に移っ
た。510畳の大道場を持つ柔道の総本山。柔道資料館・柔道図書館も併設する。
 柔道とは、それまでにあった小具足・組討・柔術・合気道・合気柔術・竹内流小具足など格闘技の
良いとこ取りをした安全格闘技で、勝負の優劣を競うものではなく、心・技・体を練磨することを目
的としている。東京五輪以来オリンピックの正式種目になっている。お家芸のはずが体力の差は如何
ともしがたく、男女合わせて10ほどもある種目のうち金メダルは三つか四つしか取れない現状だ。
ジュウドー・ニッポンはもう過去の夢?・・・
 大相撲、剣道、合気道、空手も外国人の天下だ。日本の国技は全滅だぁ!
 ユダヤが日本を狙って、日本の技に浸透している。日本を奪い取るためにはニッポンを隅から隅ま
で、心の中まで知り尽くすことだ。そろりそろりと浸透してくるのはユダヤの常套手段だ。キリスト
教という毒振り撒いてヨーロッパを席巻した。ヨーロッパの王家はみんなユダヤ人だよ。勿論アメリ
カはユダヤ人国家さ。日本国民にハーフの割合が高くなる。白人が多くなる。そうしてユダヤがゆっ
くりやってくる。皇室の国際結婚、段取りは着々と進んでいる。

 嘉納治五郎像
 正面にある。昭和35年10月28日治五郎の生誕100年を記念して建てられた朝倉文夫の作。

   生誕百季記念
   
嘉納治五郎先生像
   昭和三十五年十月廿八日
  


■安藤坂
 春日1丁目と2丁目の間の坂道。

   安藤坂
   この坂は、伝通院前から神田川に下る坂である。江戸時代から幅の広い坂道であったが、
   1909年(明治42年)に路面電車(市電)を通すにあたりゆるやかにされた。
   坂の西側に安藤飛騨守の上屋敷があったことに因んで、戦前は「安藤殿坂」。戦後になっ
   て「安藤坂」とよばれるようになった。古くは坂下あたりは入江で、漁をする人が坂上に
   網を干したことから、また江戸時代に御鷹掛けの組屋敷があって鳥網を干したことから、
   「網干坂」ともよばれた。                    文京区教育委員会
 


■河中俊四郎碑
 春日2丁目1番6号春日ビューハイツ横にある。本を開いた形の石碑。

   河中俊四郎翁は明治21年広島県下賀茂村に生る。河中豊助四男。出版報国を念とし、大
   正5年良書普及会を創立。82年の生涯を終えるまで50有余年 唯一筋に良書の刊行を
   通じ 地方自治の振興と警察行政の発展に尽す。その功により昭和41年7月警察協力章
   を受け、特に同年11月勲四等瑞宝章賜興の栄に耀く。真摯誠実勤勉無比 翁の志は財団
   法人河中自治振興財団と共に長く世に伝えられよう
    昭和46年10月                         小林興三次撰
 


■学校図書センター(社団法人全国学校図書館協議会)
 春日2丁目2番7号にある。昭和25年設立。HPによると、

   今日、学校図書館は様々な資料・情報の活用を通して子どもたちの「自ら学ぶ力」をはぐ
   くむ活動の拠点(学習・情報センター機能)、読書を通して子どもたちの豊かな人間性を
   はぐくむ活動の拠点(読書センター機能)として、その役割が大いに期待されている。社
   団法人全国学校図書館協議会(Japan School Library Association(全国SLA)は、
   各都道府県の学校図書館研究団体(各県SLA)と協力して、学校図書館の充実発展と青
   少年読書の振興を図るために様々な活動を行っている。


 とか。


■カラスとトンビの島流し
 春日2丁目4番・21番の辺に、江戸時代「御鳥籠」存在した。「生類憐みの令」の裏については
中野区に記したが、この話はあまり知られてないのでチェックしておく。生類憐みの令は動物保護法
で、役人によっては行き過ぎた取締りをしたため愚法と呼ばれるに至った。従来鳥類については鳥役
人の管理で元々殺生は厳禁だったが、カラスとトンビにおいては江戸市中で被害甚大だったため、カ
ラスとトンビだけは法を無視して捕えることになり、それを集めて一時保管してたのが「御鳥籠」だ。
跡地の現在は、東京メトロ丸の内線のトンネル導入路が掘られて切り通されたので 分断され跨線橋
が架かっている。近くにある金富小学校は禁鳶ではないかと想像する人がいる(実際は金剛寺坂と富
坂の頭文字を合わせた)。さて捕らえたカラスとトンビだが、法令の手前殺す訳には行かない。それ
ではというので島流しとし、人間の囚人と同じ扱いで、真顔で真剣神妙に八丈島に送られたという。
 


宝福山龍閑寺
 春日2丁目6番12号にある浄土宗の寺。


■金富小学校

 春日2丁目6番15にある区立校。校庭は少し離れて東側にある。明治41年4月18日木造2階
建て校舎が誕生した当時、礫川・明化・黒田・第一(柳町)・第二(小日向台)が開校していたが、
公立学校の数は不足していた。前年の法律改正でこの年度から小学校尋常科の修業年限が4年制から
6年制から替わり、小学校の数、施設ともますます不足することとなった。そこで第三小学校の開校
が急がれた。新入生250名、黒田・礫川・私学などから807名が移籍、1057名でスタート、
「東京市こいしかわ金富尋常小学校」として開校した。大正15年講堂を含む北側校舎増改築。昭和
9年職員室を含む西側校舎改築。同16年国民学校令により「東京府東京市金富国民学校」と改称。
12月日米開戦。同18年都制施行により「東京都金富国民学校」と改称。同19年宮城県鳴子温泉
に学童集団疎開。昭和20年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により東京は火の海とされ、8
月日本はならず者国家アメリカの軍門に降り、以後属国とされ、唯々諾々といいなりになる傀儡政権
を保持しなければならない哀れな今日的不幸を背負い込む。同22年アメリカ軍の強制による学制改
革により「東京都文京区金富小学校」と改称。同23年新運動場完成。同25年アメリカの強制によ
り父兄会を廃し、PTAを設立。校歌制定。

 校歌「
その名ゆかしき」 作詞作曲・大槻貞一
  1.その名ゆかしき江戸川河畔
    秀麗富士を仰ぎて建てる
    これぞ楽しき我らが母校
    学ばん我らは金富健児
  2.瑞祥多き五三の桐は
    進む前途に希望の光
    これぞめでたき我らが徽章
    翳さん我らは金富健児
  3.強く正しく朗らかなれと
    学びの庭に手に手を取りて
    これぞ定むる我らが校訓
    守らん我らは金富健児


 同33年創立50周年。同39年プール完成。同42年「母校を忘れずに」碑建立。同43年創立
60周年記念式典。同53年創立70周年記念式典。同54年校舎全面建替えのため仮校舎に移転。
同55年旧校舎解体。同57年新校舎竣工。


 校名の由来
 東京市小石川第三尋常小学校として、開校準備を進めてきたが、開校直前地元の要望により所在地
金富町の金富を冠することになった。因みに地名金富の由来は、明治初年金杉水道町・金剛寺門前・
富坂新町を合併して一つ町とした時、それぞれの頭文字を取って組み合わせたものだ。
 


■新坂(今井坂)
 春日2丁目8番の東側の坂道。昔、この坂上の蜂谷孫十郎の屋敷に、兼平桜と名付けられた大木が
あり、この名前が今井兼平にちなんだものだったので、こう呼ばれるようになったいわれている。
 この坂の西側は、徳川最後の将軍徳川慶喜が明治34年以後住んだところで、大正2年にここで亡
くなった。

   今井坂(新坂)
   『改撰江戸志』には、「新坂は金剛寺の西なり、案[あんずる]に此坂は新に開けし坂な
   ればとてかかる名あるならん、別に仔細はあらじ、或はいふ正徳の頃(1711~16)
   開けしと」とある。新坂の名のおこりである。 
   今井坂の名の起こりは、『続江戸砂子』に、「坂の上の蜂谷孫十郎殿屋敷の内に兼平桜(今
   井四郎兼平の名に因む)と名づけた大木があった。これにより今井坂と呼ぶようになった」
   とある。 
   この坂の上、西側一帯は、現在財務省の宿舎になっている。ここは徳川最後の将軍慶喜が
   明治34年以後住んだところである。慶喜は自分が生まれた、小石川水戸屋敷に近い、こ
   の地を愛した。慶喜はここで、専ら趣味の生活を送り、大正2年に没した。現在その面影
   を残すものは、入口に繁る大公孫樹のみである。 

    この町に遊びくらして三年居き寺の墓やぶ深くなりたり(釈迢空)

   (この町とは旧金富町をさす) 
                文京区教育委員会 平成13年3月

 今井兼平
 いまいかねひら。平安時代末期の武将。正式な名乗りは中原兼平。父は中原兼遠。木曽義仲の乳母
子で義仲四天王の一人。兄に樋口兼光、姉妹に巴御前がいる。信濃国筑摩郡今井(松本市)の地を領
して今井を称した。

  

■徳川慶喜終焉の地
 春日2丁目8番1~5号がそれに当たる。慶喜は水戸徳川藩主斉明の子として江戸藩邸(東京ドー
ムシティ・小石川後楽園・中央大学工学部)で生まれ、一橋家の家督を継ぎ、慶応二年(1866)
15代将軍に就任。翌年大政を奉還したが、大久保利通の策略で妨害され、鳥羽伏見の戦とそれに続
く江戸開府の後、恭順の意を表すことで赦され、水戸にて謹慎の後駿府に隠棲した。明治30年東京
に戻り、同34年この地に移り住み、もっぱら趣味の世界に生きたという。晩年に旧三百諸侯を招い
てパーティを開いた時、薩長土肥の島津・毛利・山内・鍋島は呼んだのに、一人芸州広島藩浅野長勲
(ながこと)だけには招待状を送らなかった。長州征伐の時、広島藩が勝利の帰趨を決めたが、徳川
家を裏切って長州に味方したからだ。もし広島藩が徳川家に味方して長州藩を廃絶していたら、明治
維新はなかったかも知れないし、あってももっと違った形になっていたろう。明治天皇はいなかった
かもしれないのだ。慶喜はよほどそのことを恨んでいた?。そして怨みつつ大正2年11月この地で
没した。享年77歳。墓は谷中霊園に孤立してある。生家の水戸屋敷(後楽園)を懐かしみ、そこに
近いこの地を日々愛していたとか。

   川慶喜終焉の地          文京区春日2-8-7 大蔵省第六天町宿舎
   徳川幕府最後の将軍慶喜は、水戸藩主斉昭の七男として、1837年(天保8年)小石川
   の上屋敷(現小石川後楽園一帯)で生まれた。その後御三卿の一家である一橋家を相続し
   た。ついで幕末の動乱のさなか、長州攻めの陣中で没した14代将軍家茂のあとを継ぎ、
   1866年(慶応2)15代将軍となった。翌慶応3年、大政を奉還し、鳥羽伏見の戦い
   の後、天皇に対し恭順の意を表して水戸で謹慎、その後、駿府(静岡)に隠棲した。18
   97年(明治30)東京の巣鴨に、明治34年、誕生の地である旧水戸屋敷に近いこの地
   に移った。現在も残るイチョウの大木の左手に、車寄せ玄関があった。慶喜は、その後、
   公爵、勲一等旭日大授章を授けられた。1913年(大正2)11月22日、急性肺炎の
   ためこの地で没した。76歳、寛永寺墓地に葬られた。
   平成8年3月                          文京区教育委員会


■大蔵省第六天町宿舎

 春日2丁目8番の一等地にあった。徳川慶喜家だったが、戦後この場所は財務省の管理地になり官
舎が建てられていたが、払い下げるの下げないのと揉めて、財務省が売り惜しんでた。結局国際仏教
大学に払い下げられて消滅した。


■国際仏教学大学院大学

 春日2丁目8番9号(かつての1~9号)にある霊友会の教育機関。平成7年文部省より学校法人
国際仏教学院および国際仏教学大学院大学仏教学研究科の設置認可。5年一貫の教育課程を組み、文
献学と文化学の両方面から仏教学に必要な方法論を修得させる。また博士の学位を取得できるよう専
任の教員が1対1で指導に当たる。同8年港区虎ノ門5丁目3番23号に「国際仏教学大学院大学」
として開学。定員50人の日本で1番小さな大学。同17年より文部科学省私立大学学術研究高度化
推進事業学術フロンティア「奈良平安古写経研究拠点の形成」に選定された。日本中に散らばる古写
経の調査を実施している。同22年現在地に移転。


■小石川高等小学校

 春日2丁目9番5号にあった公立校。明治41年竹早町109番地に開校。昭和3年当地に新校舎
を建て移転。鉄筋コンクリート造り3階建て地下1階の校舎は当時の建築の粋を集めて設計され、近
代的設備を有するモデルスクールとして建設された。同22年戦勝国アメリカの強制による学制改革
により廃校。跡地に小石川工高・小石川高校が同居し、同24年小石川工高が転出。同32年小石川
高校も転出。その後一中、三中が短期間使用した。そのためすっかり荒れ果てて、天井から壁、床が
真っ黒になり傷んでしまった。


■茗台中学校

 春日2丁目9番5号にある区立校。昭和35年小石川高等学校跡地(小石川高等小学校故地故地)
だったところ=同心町20番地(現在地)に「東京都文京区立第十二中学校」として開校。間もなく
「地域と密着させ、個性ある学校にとの関係各位の要望から、校地が茗荷谷の台地に位置するところ
から「東京都文京区茗台中学校」と改称した。開校とともに始まったのが校舎の清掃と整備で、職員
生徒一丸となって努力し、日数を費やして本来の姿に戻してから授業は始められた。生徒は、金富・
小日向・指ヶ谷・柳町・礫川・窪町・その他の小学校からの新入生275名と、一中・三中・五中か
ら移籍の2年生115名でスタートした。通学区は一中・三中・五中から割いたので、新入生は6校
の小学校からやってくることになり、
それは現在も変わらない特色となっている。校舎は、定時制工
高と共用(普通教室9、特別教室1、講堂)したものもあり、専用は普通教室9、特別教室7、管理
室12という状況だった。生徒川森節子作詞作曲「小高い丘」が校歌的に愛唱され、生徒・卒業生・
父母に歌われた。同39年4年間定時制工高との同居が続いたが、小石川工校は新宿区富久町の本校
に移転、念願の完全独立校となった。同40年創立5周年記念式典・校歌制定。これまで歌われてき
た「小高い丘」は生徒会々歌となる。

 校歌「
若い光」 作詞・勝承夫  作曲・平井康三郎
  1.若い光を翼に受けて
    羽ばたく若鶏 伸び行く我ら
    自主の意気 溌剌と
    燃え上がるこの窓は
    世界の空を見晴らすところ
    茗台中学 我らの母校
  2.芽吹く緑も優しく強く
    揃う若竹 根強い力
    新しい日本を
    担うものここにあり
    平和の文化 楽しく築く
    茗台中学 弛まず進む
  3.夏の四阿山 瞼に晴れて
    夢見る若人 変わらぬ誓い
    友情を何時までも
    この胸に何時までも
    称えて歌おう果てない未来
    茗台中学 我らの母校


 同42年プール完成。同43年校庭拡張。同45年創立10周年記念。同48年体育館竣工。同5
5年開校20周年記念式典。


■クラウン カレー専門店エース
(茗荷谷店)
 春日2丁目10番13号原島ビルにある知る人ぞ知る老舗のカレー専門店。味もさることながらリ
ーズナブルな価格で本格的なカレーが楽しめる。店内もきれいで店員の対応もよく、待ち時間も2~
3分で量もまずまず。お勧め。小石川郵便局の反対側にある。
 


■春日二丁目児童遊園

 春日2丁目11番5号にある区立公園。昭和46年3月23日開園。


■多福院
 春日2丁目13番7号にある曹洞宗の寺。狭い路地の奥の安アパートのさらに奥にある。狭い境内
の小さな寺だが墓地だってある。


■金剛寺坂
 春日2丁目17番と20番の間の坂道。

   金剛寺坂
   江戸時代、この坂の西側、金富小学校寄りに金剛寺という禅寺があった。 
   この寺の脇にある坂道なので、この名がついた。小石川台地から、神田上水が流れていた
   水道通り(巻石通り)に下る坂の一つである。
   この坂の東寄り(春日2‐20‐25辺り)で、明治12年に生まれ、少年時代をすごし
   た永井荷風は、当時の「黒田小学校」(昭和20年廃校 現在の旧第五中学校のある所)に
   この坂を通って通っていた。荷風は、昭和16年久しぶりにこの坂を訪ずれ、昔を懐しん
   でいる様子を日記に記している。
               文京区教育委員会 平成元年3月


■永井荷風生育地
 春日2丁目20番25号の辺り。区の説明板が立っている。

   永井荷風(1879~1959)小説家、随筆家。本名:荘吉。別号断腸亭主人など。作
   品には、「アメリカ物語」「腕くらべ」「墨東綺譚」や「断腸亭日記」などがある。
   荷風は、明治12年12月すぐ左の細い道の左側20番25号あたり(旧金富町45番地)
   で生まれた。そして、明治26年飯田町に移るまで、約13年間住んだ。(その間1年ほ
   ど麹町の官舎へ)。明治19年には、黒田小学校(現区立五中の地)に入学し4年で卒業
   して旧竹早町の旧師範学校付属小学校に入った。「狐」(明治42年作)という作品に、
   生家の思い出がつづられている。
    「旧幕の御家人や旗本の空屋敷が其処ここ此処に売り物となっていたのをば、其の頃
     私の父は三軒ほど一まとめに買ひ占め、古びた庭園の木立をそのままに広い邸宅を
     新築した。・・・」
   小石川は、荷風の生まれ育った地で愛着が深く、明治41年に外国から帰ってくると、こ
   の辺りを訪ねて「伝通院」を書いた。
    「私の幼い時の幸福なる記憶も此の伝通院の古刹を中心として。常に其の周囲を離れ
     ぬのである・・・」
                文京区教育委員会 平成5年3月


 とある。


■川口アパート
 春日2丁目21番5号にある民間の集合住宅。昭和40年に建てられた当時「日本の高級マンショ
ンの代表作のひとつ」なんだそうだ。おいらその頃東京にいたけど聞いたことねえよなぁ。春日2丁
目のこのアパート周辺は、永井荷風が幼少の頃を過ごした場所としても知られ、今でも三井邸があっ
たりする土地柄で、セレブリティの家やマンションが多く、高台の閑静な隠れた一等地。停めてる車
もやはり違う。
 このアパートは、作家川口松太郎が初代のオーナーだが、松太郎の息子が、有名な、アラフォー世
代なら誰でも知っている川口浩探検隊で日曜日のお茶の間を毎週ドキドキさせた俳優川口浩ファミリ
ーのアパートなのだ。そして、川口夫妻は無論のこと、野際陽子や加賀まりこなどが住んでいたこと
でも有名だった。おいらの住んでるアパートも昭和42年で、築40年以上。ところがこの頃の鉄筋
コンクリート造りの建物は結構頑丈に造ってあって地震に強い。何度か大きな揺れを経験したが、皹
(ひび)1つ入ってない。老朽化はしてるのだろうが、しっかりとした佇まいとセレブリティな雰囲
気は十分に伝わってくる。まさにモダン建築の象徴そのものだ。


■稲荷蕎麦 萬盛
 春日2丁目24番15号102にある蕎麦屋。沢蔵司が傳通院で修行中、傳通院の門前に蕎麦を商
う店が有り、よく蕎麦を食べに行っていたと記されている。主人もよくその徳を慕って常に供養して
いたとされ、沢蔵司稲荷尊として祀られてから社前に蕎麦を献じていたと記録にある。江戸中期・後
期の縁起、略縁起にもまだ蕎麦の奉納が続いていると記され、明治や昭和初期の記録にも奉納が続い
ていると書かれている。現在でもその日の初茹で(初釜)の蕎麦が朱塗りの箱に収められ奉納され続
けている。縁起や記録からも判るが、開創依頼380有余年連綿と蕎麦の奉納が続いているというこ
とにただただ驚きと共に代々続く店主の信仰、澤蔵司稲荷尊の利益を拝するのみだ。
 伝通院前交差点向かいの茶色のマンション、コンビニの隣りにある。尚、日曜祭日は休みだよ。

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