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■谷端川(小石川・千川分水・千川・大下水) むかし人が住みついた頃は幾条かの流れがあったことは否めない。どの流れを谷端川と呼んだか判 らないが、室町時代には一本の川に整えられて小石川と呼んでいたようだ。『南総里見八犬伝』に小 石川に舟を浮かべて投網を打つ場面があり、滝沢馬琴が考証にうるさかったことを考えると、そんな 規模の川だったのだろう。大正時代に猫又橋の辺りでしばしば洪が水になって住民が被害を受けたと いう記録もある。千川上水から養い水(加水)を受けたのが「谷端川」で、谷端川は「小石川」の源 流、豊島区要町2丁目14番の粟島神社の弁天池を水源とし南に流れて長崎鼻を迂回すべく西武線椎 名町駅の西で線路を越え、駅南をぐるりと回って山手通りを越し東に流れて北に向きを変え再び線路 を越えて、山手通りに沿いつつ北上する。この辺りが大湿地帯だったころ池袋・金井窪・巣鴨の地名 が生まれたと思われる。川は池袋3丁目の区境を明治通りまで行って大塚に入り、南に下り、小石川 植物園(白山御殿)南の千川通りを流れ、伝通院寿経院の裏を通り、小石川1丁目の道路のところを 行き、水戸屋敷に入って後楽園の池水を潤して神田川に落ちた。いつしか水量不足となったものと見 え、弁天池の北、要町交差点の辺りで千川上水から養水を受けた。それで谷端川も、小石川も「千川 分水」「千川」と呼ばれるようになった。千川上水を開鑿したのは金七・茂兵衛の二人で、金七は練 馬に住んだが茂兵衛は小石川指ヶ谷肴町に住居を構え「千川屋敷」と俗称された。町場に入って「西 大下水」と呼ばれたのは「上水ではない」の意で、現代人の認識する汚水のながれる下水ではない。 まあいわば立ち小便をしたからといって首を刎ねられることはないということだ。また現代の汚水と 違って化学物質が入っていないので、それほどの汚水でもない訳だ。昭和6~9年に暗渠になり、そ の上を千川通りと称する都道補助79号線が走っている。 |
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■礫川浮世絵美術館 小石川1丁目2番3号小石川春日ビル5階にある。浮世絵は、身近な江戸時代の庶民風俗を描いた 絵画だ。その殆どが木版画で、版元の企画により、歌麿や北斎、広重などの町絵師が下絵を描き、彫 師・摺師との共同制作による、誰もが安価で気安く入手でき楽しめたものだった。海外では、浮世絵 は日本文化の代表として芸術性が高く評価されると共に、印象派に大きな影響を与え、ゴッホが模写 したことは有名。この美術館は、浮世絵の正しい理解と啓蒙をめざし、毎月約40点づつ新しい企画 で入れ替えして展示している。開館時間:11時~18時 休館日:月曜日と毎月26日以降月末 入場料500円(団体400円)、学生400円(団体300円) 問い合わせ03‐3812‐7312 |
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■はつね広場 小石川1丁目9番14号にある区立公園。平成16年3月8日開園。 |
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■塩大福・豆大福 小石川1丁目14番7号にある和菓子屋「浅田屋」の名代商品。明治30年創業以来100年余に 亘り愛されている大福餅だ。塩味と甘味のバランスのとれた餡を、杵つき餅で包んだ。1日100個 しか作れないため、近くに行くことがあったら、3時までに行って食うてみてみい。遠方の人は絶対 に予約せえよ。03‐3811‐6151 |
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■柳町遊び場 小石川1丁目23番2号にある小さな区立公園。平成3年4月1日開園。 |
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■柳町小学校 小石川1丁目23番16号にある区立校。「やなぎちょう」と読む。明治の中頃には小石川区内の 小学校は礫川・明化・黒田の3校だった。東京市の発展に伴い転入者が増え、宅地化が進み、就学児 童は増加の一途を辿り、この3校だけでは収容しきれなくなっており、私立の小学校に委嘱する状態 だった。そこで明治31年に小学校新設の議が小石川区会に起こり、翌年必要度の高い柳町に決定し た。校地については難航したが、柳町28番地の壁紙製造所一帯540坪を買収し、同34年着工、 10月に校舎が完成して「東京市第一尋常小学校」として開校。229名の児童でスタートした。同 37年高等科を設置し「東京市第一尋常高等小学校」と改称。同38年金富尋常小学校が新設され、 ナンバースクール名を廃し、地名を冠することになり「東京市柳町尋常高等小学校」と改称。同39 年夜学校併設。大正8年後援会新設。同10年校舎増築。同14年創立25周年記念式典。校歌(旧 校歌)制定。 昭和6年創立30周年記念式典。同9年養護学級設置。同16年国民学校により「東京市柳町国民 学校」と改称。12月日米開戦。同17年プール完成。同18年夜学校廃止。都制施行により「東京 都礫川国民学校」と改称。同19年宮城県鳴子町(鹿島屋・玉屋滝島)に集団疎開。同20年5月2 7日海軍記念日愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校舎は全焼し一切が灰燼に帰す。8月 日本はならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦、以後哀れにも悲しくも属国とされ、唯々諾々とアメ リカのいいなりとなる保守傀儡政権を保持せざるをえない今日的不幸を背負い込む。 同22年アメリカの強制による学制改革のため「東京都文京区立柳町小学校」と改称。同23年こ れもアメリカの強制により後援会を解散し、PTAに変える。同25年校歌制定。 校歌「仰ぐ青空」 作詞・西條八十 作曲・渡辺浦人 1.仰ぐ青空 明るい心 今日も揃った元気なわれら ああ学校は楽しいところ 柳 柳 柳町 みどり芽をふく柳のように ほがらに伸び行く小学生われら 2.友は仲良し 手に手をとって 磨く心と鍛える体だ ああ学校は楽しいところ 柳 柳 柳町 伸びて未来の 日本を担う 希望は輝く小学生われら 同29~34年校舎改築。同38~41年鉄筋コンクリート造り校舎に建替え。同45年プール完 成。同46年創立70周年記念式典。同48年4特別教室増築。同56年80周年記念式典。同60 年体育館改築。平成13年創立100周年。 |
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■小石川一丁目児童遊園 小石川1丁目24番16号にある小さな区立公園。平成3年4月1日開園。 |
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■富坂 小石川2丁目と春日1丁目の間の坂道。別名: 西富坂・飛坂・鳶坂 距離:422m 高低差:15 m28cm。小石川2丁目1番1号の標識は以下の通り。 「とび坂は小石川水戸宰相光圀卿の御屋敷のうしろ、えさし待ちより春日殿町へ下る坂、 元は此処に鳶多くして女童の手に持たる肴をも舞下りてとる故とび坂と云」と「紫一本」 にある。鳶が多くいたので、鳶坂、転じて富坂となった。 また春日町交差点の谷(二ヶ谷)をはさんで、東西に坂がまたがって飛んでいるため飛坂 ともいわれた。そして伝通院の方を西富坂、本郷の方を東富坂(真砂坂)ともいう。都内 に多くある坂名の一つである。 この近く礫川小学校裏にあった「いろは館」に島木赤彦が下宿し、〝アララギ〟の編集に あたっていた。 富坂の冬木の上の星月夜 いたくふけたりわれのかへりは 島木赤彦(本名=久保田俊彦 1876~1926) 平成12年3月 文京区教育委員会 |
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■堀坂 小石川2丁目3~5番と20番の間の坂道。初め「宮内坂(くないざか)」、別に名主の名前から 「源三坂」と呼ばれていた。堀坂と呼ばれるようになったのは文政の頃から。坂の途中左手に菊池寛 の旧宅跡がある。坂上の角に三浦梧楼終焉の地の石碑があったが、何時の間にか撤去されてしまい行 方不明だ。 堀坂(宮内坂 源三坂) 「堀坂は中富坂町の西より東の方、即ち餌差町に下る坂をいふ。もと其の北側に堀内蔵助 (2300石)の邸ありしに因れり。今坂の中途に〝ほりさか〟と仮字にてしるしたる石 標あり。此坂は従来宮内坂又は源三坂と唱へたるものにて。堀坂といへるは其後の称なり といふ」(『新撰東京名所図会』) この場所の北側に旗本堀家の分家利直(後に利尚、通称宮内)の屋敷があったことから、 この坂は別名「宮内坂」と名づけられた。また、当地の名主鎌田源三の名から「源三坂」 ともいわれた。「堀坂」という名称は、文政の頃、堀家が坂の修理をして「ほりさか」と 刻んだ石標を建てたことからいわれるようになった。 坂下に“こんにゃくえんま”の伝説で名高い「源覚寺」がある。 文京区教育委員会 平成16年3月 ●ほりさかの碑 行安看護婦家政婦紹介所の建物の道路に面した壁際にある。文政の頃建てたというから、元からこ こにあったのかどうかは不明。 |
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■菊池寛旧居跡 小石川2丁目4番12号(小石川区中富坂3番地に大正7年9月から)→ 小石川2丁目4番3号 (小石川区中富坂17番地に大正9年2月から)に住んでいた。大正11年秋に小石川区林町19番 地に転居した。 菊池寛は、大正~昭和時代の小説家、劇作家。明治21年生まれ。第3・第4次「新思潮」同人。 大正7年「忠直卿行状記」などの明確なテーマをもった小説で認められる。同9年「真珠夫人」を書 き、通俗小説に転じる。同12年雑誌「文芸春秋」を創刊して、芥川賞、直木賞、菊池寛賞を創設。 芸術院会員。昭和23年死去。61歳。香川県出身。京都帝大卒。本名は寛。ほかに戯曲「父帰る」 小説「恩讐の彼方に」など。 悪妻は百年の不作であるという。しかし女性にとって、悪夫は百年の飢饉である |
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■小石川大神宮 小石川2丁目5番7号佐々木ビルB棟にある。 |
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■島木赤彦旧居跡(いろは館) 小石川2丁目10番1号(小石川区上富坂町23番地)のいろは館に下宿していた。明治27年長 野師範学校に入学、卒業後小学校の教員生活を送ったが、子規の影響で伊藤左千夫に師事。左千夫の 死の翌年の大正3年4月上京、いろは館に下宿。その年の秋、八丈島に渡り、帰って白山御殿町に居 住。同年、再びいろは館に下宿。同9年ごろから「アララギ」の編集に専念。また童謡を作り多くの 人から愛唱された。 |
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■礫川小学校 小石川2丁目13番2号にある区立校。「れきせん」と読む。「礫」とは「小石」の意で、江戸の 文人が「小石川」を漢風に「礫川」と書き換えて、その気になっていたことによる。初めは「こいし かわ」と読んだが、同7年から「れきせん」と読み替えることにした。 明治6年伝通院境内の開山堂を借り受けて「第一大区第四中学第三番小学礫川学校」として、第一 番湯島、第二番錦華に続いて3番目に開校した。時に児童数65名。教科は、読書・習字・算数の初 歩を教え、授業料は三段階で50銭・25銭・12銭5厘で徴収した。同9年に第1回の卒業式が行 われ18名が卒業した。修業年限が6年になるのは明治40年になってからだ。 同9年児童数増加(273名)のため校地の拡張が求められ、区内有志者の寄付金1588円を得 て、校舎建築用地の下付を東京府に願い出たところ、小石川表町44番地の伝通院学頭寮弘教館所在 地500余坪を下付されたので、同建物を購入し、大修理を施して移転した。これは現在地の一部だ。 同10年東京府から1542坪を下付され、その一部を売って経費に充てた。夜学を開設し昼間学業 に従うことのできない者に授業した。同11年最初の全科卒業生7名。同12年学制を廃し教育令施 行。学区番号がなくなり「東京府小石川区礫川小学校」と改称。同14年初めて級長を置く。同15 年初めて校長を任命、それまでは主宰訓導といった。同16年西南隅に平屋校舎を増築。新たに体操 術を実施。教科に英語が加わる。一部2階建て木造校舎を増築。同19年小学校令により「東京府礫 川尋常小学校」と改称。同20年初めて「運動会」を飛鳥山公園で行う。同22年東京市制実施によ り「東京市小石川区礫川尋常小学校」と改称。同23年洋風2階建て新校舎9教室落成。「教育に関 する勅語」発布。同25年教科に唱歌・裁縫・図画を加える。同27年校章制定。同32年学校医が 置かれ初めて身体検査実施。同33年教師の宿直開始。同34年水道敷設。同35年創立30周年記 念式典。新入学児童多数のため二部授業実施。10月2階建て校舎4教室増築。同38年水戸藩邸跡 の砲兵工廠で火薬庫爆発があり校舎の一部破損。同41年小学校令改正により修学義務年限6年とな る。同41年東南アジアからの留学児童を引き受ける。同42年校舎増築。同44年卒業生の寄付に より校旗作製。 大正2年実業専修学校を併設。同3年雨天体操場(体育館)の物置から出火、折からの東南の風に 煽られて校舎を全焼。そのため柳町・金富・指ヶ谷・高等小学校に分散して間借り授業。同4年隣地 の海軍大将三須宗太郎宅500坪を購入し、新校舎を建築、全生徒1200名余が帰校。同5年後援 会を組織。同11年創立50周年記念式典。校歌制定 校歌「明治六年の弥生月」 作詞・訓導 寺田代治 作曲・音楽訓導 水谷志奇男 1.明治六年(むとせ)の弥生月 都の春に先駆けて 萌え出で初めし教え草 果てしも知れぬ武蔵野の 広き恵みに潤いて いよよ豊けく育(おお)したつ 2.開山堂の昔より 教えの御勅(みのり)かしこみつ 月日は巡り年ゆきて 幾その移り織りなせる 百有余年の永き史 いよよ励みて飾らなむ 3.小石川瀬の石(いわ)走り 清(さや)かに響く其の下(もと)に 慈(なさけ)に生(お)うる撫子(なでしこ)は 天津日影の隈もなき 御代の光に照り映えて いよよ床しく薫るらむ 同年12月電話設置。同12年児童図書館を開館。児童の自治当番制を実施。25mの標準プール 完成し、プール開きの当日関東大震災が発生し使用不能となる。同13年2月プール改修完了。寒中 水泳会を行う。9月プール開き第1回水上競技会を開催。同2年日本初の難聴学級を併設。区の水泳 大会を当校プールで挙行。同16年国民学校令により「東京市礫川国民学校」と改称。12月日米開 戦。同18年都制施行により「東京都礫川国民学校」と改称。同19年宮城県鳴子町(遊泉閣・姥の 湯〈源蔵湯〉)に集団疎開。同20年5月27日海軍記念日愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆 により校舎は全焼し一切灰燼に帰す。8月日本はならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦、以後属国 とされ、唯々諾々とアメリカのいいなりになる保守傀儡政権を保持せざるをえない今日的不幸を背負 い込む。 同21年御殿町国民学校の廃校により吸収、柳町国民学校に間借りして授業。同22年占領軍アメ リカの強制による学制改革のため「東京都文京区立礫川小学校」と改称。同23年5月後援会を解散 し、アメリカが強制したPTAに変更。7月岩井臨海学校(民宿)開始。同25年完全給食実施。同 26年教員の宿直制を廃止し警備員を置く。同27年東京都小学校音楽中央大会に出演、最優秀賞を 受賞。創立80周年記念式典。同29年4月表町校舎改築第1期工事4教室落成。10月第2期工事 13教室落成。同30年ドイツ人イースト・エーシア・ミッションの所有地384坪を購入し校地拡 張。同31年第3期工事8教室落成。同32年第4期工事4特別教室・資料室など落成。同35年体 育館落成。給食調理室改築。同47~48年校舎全面改築・鉄筋コンクリート造り校舎となる。日本 初の小学校プールは解体される。同48年創立100周年記念式典。同50年防火用井戸掘削。大・ 小ブール完成。体育館用倉庫完成、校庭整備舗装。小鳥小屋、理科観察用池、学校園など新設。 平成8年創立135周年記念式典。 ●周辺のこと 開校から昭和の初めころにかけて、小石川区役所は歩いて3分程の安藤坂にあったし、郵便局も警 察署も銀行も伝通院の門前町に並び建ち、市電(路面電車)は、高等師範行きと早稲田からの引込線 があるという具合に、この辺りは小石川区(文京区西半)の政治・経済・文化・交通などの大中心地 だった。繁華街としては大塚(大塚3丁目)の方が華やかだったかもしれないけどね。近くには伝通 院の大伽藍に加えて、樋口一葉の生家礫川堂、幸田露伴邸、紅屋菓子店、水戸家江戸屋敷庭園「後楽 園」などがあった。また秋から冬の季節には、江戸川橋から早稲田にかけて眺望する富士が特に美し く、葛飾北斎は「礫川雪の旦」と題して美しい富岳の姿を残してらぁね。 現在の周辺の様子は、春日通りを隔てて文京三中・筑波大附属大塚養護学校、その下に小石川区役 所跡、現在小石川保健所が建っている。春日通りを西に進むと学芸大附属竹早小・中・高等学校、小 石川郵便局、〝天下の拓大〟拓殖大学、跡見学園、貞静学園、お茶の水女子大学、筑波大学学校教育 部などがあり、逆に東に富坂を下れば、中央大学理工学部、礫川公園、文京区役所、後楽園、東京ド ーム、後楽園遊園地などがある。学校の前には富坂警察署、古流アカデミー、伝通院経営の淑徳学園、 澤蔵司稲荷、柳町商店街と続く。 ●日本最古の小学校プールがあった 大正12年8月我国の小学校では最初のプールが完成し、開場式の予定された9月1日に関東大震 災が起きて亀裂が入り、水が溢れ出して式は中止された。翌13年2月に改修が終わり、寒中水泳会 をやって気炎をあげ、7月にプール開きの式を行った記録に残っている。梶田充允訓導(教諭)の猛 特訓は、学校では語り草になっている。昭和2年7月小プールを増設、それから50年経った同48 年校舎改築の際に老朽化のため取り壊された。 |
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■富坂警察署 小石川2丁目14番2号にある。明治8年「警視庁第四方面第四署」として開署。同14年「第四 方面小石川警察署」となり、翌年に赤レンガ造りの平屋の庁舎が現在地に完成。同43年小石川区内 に富坂・指ヶ谷・白山・大塚・小日向の5署が設置されたが、大正2年6月には、統廃合により「小 石川富坂署」と小石川大塚署の2署に統廃合された。 昭和12年「富坂警察署」と改称、現在に至っている。 |
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■浪越学園・日本指圧専門学校 小石川2丁目15番6号にある。指圧師浪越徳二郎が残した遺産だ。日本で唯一の専門学校。指圧 とは、読んで字の如く「指で圧す治療法」。指圧の精神は、相手に対する思いやりと労わりの心。 指圧の心は母ごころ おせば生命の泉湧く のスローガンが物語っている。指圧は、指のふれあいを通じて人に喜びを与え、自分も喜びに生き ることが出来る素晴らしい技。相手に注ぐ愛があってこそ一層の効果を生み出す。地球汚染や環境破 壊が進む中で、世界の人々の心と体を癒す指圧。指圧は医療の原点だ。指圧をすると、人体の疲労物 質の80%までがグリコーゲンに転化、60兆余の細胞が活性化する。指圧は、自然治癒力を呼び起 こし、病気の予防、治療に効果を上げ、健康な体作りに役立つ最も自然な科学的な治療法だ。その一 流スペシャリストを育成する日本で唯一つの専門学校であり、カリキュラム、講師陣とも非常に充実 していて国内のみならず世界から高く評価されているんだよ。国際大会も開かれているし、世界のあ ちこちに学校も設立した。 |
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■光雲寺 小石川2丁目16番2号にある浄土宗の寺。詳細不明。 |
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■上富坂教会 小石川2丁目17番33号にある日本基督教団の伝道所。詳細不明。 |
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■六角坂 小石川2丁目17番と18番の間の坂道。 六角坂 「六角坂は上餌差町より伝通院の裏門の前に出る坂なり、古くより高家六角氏の屋敷の前 なる坂故にかくいえり」(『改撰江戸志』)とある。『江戸切絵図』(万延二年(186 1)の尾張屋清七板)をみると、この坂が直角に曲がっているあたりに、六角越前守の屋 敷があったことがわかる。 餌差町は、慶長年間(1596~1615)、鷹狩りの鷹の餌になる小鳥を刺し捕らえる ことを司る「御餌差衆」の屋敷がおかれた所である。近くに歌人島木赤彦が下宿し、『ア ララギ』の編集にあたった「いろは館」があった。 文京区教育委員会 昭和63年3月 |
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■三浦梧楼終焉の地の碑 撤去→再置 小石川2丁目20番10号の西南の角地に建っていたが、一時撤去されていた。現在旧位置より北 へ15mのグランツオーベル小石川の角地に移設された。 観樹と号す。現在の山口県萩市に陪臣(家臣の家来)の子として生まれる。藩士でなければ明倫館 に入学できないので、藩士五十部吉平の5男三浦道庵の養子となり、明倫館で学んだ。奇兵隊に入隊 して第2次長州征伐や戊辰戦争に従軍。維新後は兵部省に出仕、明治7年には陸軍省第三局長として 台湾出兵に反対。同9年萩の乱の鎮定に赴き、翌年の西南戦争では第三旅団長として各地を転戦、城 山を陥落させた。同11年中将となり、西部監軍部長。長州出身ながら藩閥政治に反対する立場をと り、また山縣有朋とは奇兵隊時代から不仲であったこともあり、谷干城・鳥居小弥太・曽我祐準らと 共に反主流派を形成し、月曜会の中心人物として山縣有朋・大山巌らと対立した。同14年の開拓使 官有物払い下げ事件では、上記3人と連名で、議会開設及び憲法制定を訴える建白書を提出し、翌年 陸軍士官学校長長に左遷された。同18年に陸軍卿の大山と共に欧州の兵制を視察し、同19年に帰 国、陸軍改革の意見書を提出したが、同20翌年に熊本鎮台司令長官に左遷される。同21年予備役 に編入。同年から明治25年まで学習院院長。同23年7月に子爵による互選で貴族院議員に選出さ れたが、翌年9月に辞職する。明治28年9月1日在朝鮮国特命全権公使に就任。公使館付武官で朝 鮮政府軍部顧問の楠瀬幸彦中佐や、邦字新聞「漢城新報」社長の安達謙蔵らの協力を得て、同年10 月8日の閔妃暗殺を指揮したとされ(乙未事変)、事変後、関わったとされる他の日本人とともに日 本に召還され広島で投獄された。翌年広島地裁や同地で開かれた軍法会議の結果、証拠不十分として 日本人関係者は全員無罪となり釈放された。同43年には枢密顧問官に就任、また宮中顧問官などの 要職を歴任する。大正期には「藩閥打倒」を唱え、政界の黒幕としても活動、政党政治期(及びその 直前期)の大正5年と同13年の2度に亘り、対立する政党間の党首会談の仲介などを行った。特に 後者の会談は後に「護憲三派」結成の合意がなされた会談として歴史に名を残している。最晩年に口 述筆記で、著作を2冊出版している。大正15年没。 昭和八年一月十八日 三浦梧楼卿終焉之地 三浦梧楼終焉の地 三浦梧楼(観樹と号す)将軍は長州(山口県)萩に生まれ、文久三年十九歳の時、高杉晋 作の率いる奇兵隊に参加し大活躍した。明治維新後は陸軍省に入り陸軍中将に昇進した。 退官後は貴族院議員、学習院々長、枢密院顧問官などを歴任、子爵に列せられ、政界軍部 に於けるご意見番として隠然たる努力があった。嘗て本町会の設立に当って非常に力を貸 して町会長に推戴した等も伝えられている。大正15年当地で亡くなられたので、ここに 生前尽された将軍の偉徳を偲んで碑を建立した。 昭和57年8月吉日 富坂二丁目町会 |
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■龍頭山宝珠院善雄寺 小石川2丁目22番2号にある浄土宗の寺。深蓮社信誉笈廓上人が開山となり元和年間(1615 ~24)神田駿河台に創建、元和七年当地へ移転したという。『小石川區史』に、 龍頭山寶樹院善雄寺。浄土宗鎮西派、總本山知恩院末。本尊は阿彌陀如来である。當寺の 開基は元和年中で三橋但馬之輔が寺地を寄進し、深蓮社信譽上人を開山とし、駿河臺に一 宇を建立した(開基の歿年が元和三年だから、それ以前に建立されたものと思はれる)元 和七年、お茶の水總堀堀鑿のため御用地となつたので今の地へ移轉し、承應三年境内を拝 領地として賜はつた。開山信譽上人は慶安四年二月十九日寂で、『文政書上』には境内拝 領地九百七十六坪半と記されてゐる。當寺には幕末の畫家福田半香の墓がある。 とある。 ●福田半香の墓(半香翁墓碍銘) 江戸末期の南画家。遠江国(静岡県)見附の生まれ。名は佶、字は吉人、通称は恭三郎。暁斎、暁 夢生とも号した。初め掛川藩(静岡県)の絵師村松以弘、次いで勾田台嶺に学び、天保年間(180 4~44)に入ってから渡辺崋山についた。蛮社の獄(1839)で蟄居後の崋山を田原(愛知県) に訪ね、画事でもって慰めた。当初花鳥画も描いたが、崋山同門の椿椿山がこれを得意としたため、 山水画に変わり、崋山没後は水墨の山水画をよくした。 |
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■こんにゃく閻魔 常光山源覚寺 小石川2丁目23番14号にある浄土宗の寺。寛永元年(1642)伝通院3世定誉随波の開山。 参道右手に墓地。正面に閻魔堂。左に鉄筋コンクリート7階建てビルの本堂兼庫裏 |
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●こんにゃく閻魔 木造閻魔大王坐像は区有形文化財。100.4cm、ヒノキ寄木造りで鎌倉時代の作。 寛文十二年 (1672に仏師竹内浄正が修理。玉眼嵌入。右目部分が割れて黄濁しているが、これには伝説があ る。宝暦の頃(1751~61)眼病を患った老婆が思い余って閻魔大王に21日間の祈願を籠めた ところ、夢枕に大王が現れ「われの日月に等しき両眼のうち、一つをえぐり取って汝に授くべし」と いったという。そして夢のお告げの通り、老婆の眼は満願の日に完治した。老婆は大王の慈悲に感謝 して、改めて本堂の像を見ると大王の右眼が盲となっていたので、以来老婆は好物の「こんにゃく」 を断ち、それを供えるようにしたというのが、こんにゃく閻魔の由来。こんにゃくは「困厄」だとい う。 |
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●塩地蔵 境内左手奥にあり、塩で埋まっている。寺が開かれた寛永元年(1624)以前よりこの地にあっ たという。地蔵の体に塩を盛ってお参りすることからその名があり、古来より塩は清めとして用いら れ、参詣者が身体健康を祈願したようだ。 ●毘沙門天堂 境内右手奥にある。小石川七福神の1。 ●汎太平洋の鐘(梵鐘) 元禄三年(1690)粉河丹後守の鋳造により奉納される。理由経緯は不明だが、昭和12年サイ パン島の南洋寺に吊るされる。同19年サイパン島軍民玉砕し、鐘は消失する。同40年ミツエ・ヘ スターが、アメリカテキサス州オデッサ市で発見。同49年カリフォルニア州オークランド市のD・ V・クレヤーがサンフランシスコのさくら祭に出展後、好意を以て返還した。帰還時には鐘楼はなく 粗末な構造物にぶら下げられていたが、現在は立派な鐘楼に吊るされている。 ●嫁入橋 千川(小石川大下水)に架かっていた源覚寺の参道橋。源覚寺橋ともいうが武家方持ちというから、 近所の侍屋敷が架橋管理したものなのだろう。嫁入りの名の謂れは、明治の初めこの近くに住む士分 株を持った大地主北村家が嫁を迎えるに当たり、関係する店子一同で改装して祝った。橋は親柱に擬 宝珠を取り付けた立派なものだったという。長さ1丈2尺(約3m60cm)×幅6尺余(2m弱) この橋を渡って嫁いできた嫁さんは、昭和18年ごろ80歳余で亡くなったとか。橋も川も昭和9年 には無くなった。 |
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■小石川七福神 平成7年に始まった新しい七福神だ。 小日向深光寺(恵比寿) 徳雲寺(弁財天=蛇男) 極楽水/宗慶寺(弁財天・寿老人) 真珠院(布袋尊) 福聚院(大黒天) 源覚寺(毘沙門天) 東京ドーム22番ゲート(福禄寿)。 |
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■善光寺坂 小石川2丁目と3丁目の間を東から西に上る坂道。坂の中ほどの北側に坂名の由来となった小石川 善光寺がある。また坂上部に慈眼院「澤蔵司稲荷」があり、澤蔵司の修行僧の姿をした稲荷大明神が 伝通院で浄土宗を学んだとの言い伝えが「江戸名所図会」等にある。その澤蔵司の魂が宿っていると いう椋の木があり、椋の木のある坂上から更に進むと伝通院前に出る。 善光寺坂 坂の途中に善光寺があるので寺の名をとって坂名とした。善光寺は慶長七年(1602) の創建と伝えられ、伝通院(徳川将軍家の菩提寺)の塔頭で、縁受院と称した。明治十七 年(1884)に善光寺と改称し、信州の善光寺の分院となった。したがって明治時代の 新しい坂名である。坂上の歩道のまん中に椋の老木がある。古来、この木には、坂の北側 にある稲荷に祀られている、澤蔵司の魂が宿るといわれている。なお、坂上の慈眼院の境 内には礫川や小石川の地名に因む松尾芭蕉翁の句碑が建立されている。 一しぐれ 礫や降りて小石川 (はせを 芭蕉) またこの界隈には幸田露伴・徳田秋声や島木赤彦、古泉千樫ら文人、歌人が住み活躍した。 文京区教育委員会 平成13年3月 |
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■とうがらし地蔵 霊応山福聚院鎮護寺 小石川3丁目2番23号、伝通院の中門(正面入口)左前にある浄土宗の寺。伝通院末で、本尊は 三国伝来の大黒天だ。三国伝来とは、インド、中国、韓国を経てきたということだ。寺伝によれば、 この大黒尊像は第36代孝明天皇の時代に、高麗の大臣、録来の土古という人が日本に帰化し、朝廷 に仕えた際に護持した大黒天であるといわれている。その後近江国蒲生郡より江戸に移され、安永四 年(1775)伝通院第36世霊応上人が、現在の福聚院の地に祀り、江戸七福神の一つとして知ら れるようになった。 この大黒天は身に甲冑を着用し、外からの災難を防ぎ、右手に宝袋、左手に宝棒を護持して、福録 を与えるといわれていた。特に、60日毎に回ってくる甲子の日には参拝者も多く、縁日もたった。 永井荷風の作品に 最初のロマンチズムを伝えてくれたのは大黒天の縁日に欠かさず出て来たカラクリの見世 物と辻講釈の爺さんとであった とある。今でも甲子の日には家内繁栄、商売繁盛、心願成就、病気平癒、交通安全、厄除祈願など の護摩札祈願をしている。「小石川七福神」の一つとしての大黒天木造大黒天坐像は、区の有形文化 財だ。本堂の右に安置してある。境内は福寿幼稚園の園庭となっていて幼稚園は右手にある。境内に とうがらし地蔵がある。 ●大黒天坐像 像高(右足下より)47.2cm。ヒノキ材、漆箔、彩色。小像ながら簡素な彫法により彫刻的量感 がよく表れてて、見るべきものがある木造彫刻で、特に数少ない古式武装神スタイルを整えているこ とと、その製作年代を鎌倉時代に遡ることなどを含め貴重な文化財だ。 大黒天信仰は8世紀にわが国に伝わり、以来、大国主命伝説と習合して寺院の食堂に祀ると繁栄を 招くといわれている。江戸時代になって民間信仰として広まり農神として祀られ、七福神の仲間に数 えられるようになった。しかし、本来は仏法護持の戦闘神として憤怒形をしているものであることを 考えると、この大黒天像は本来のスタイルを尊重している坐像だといえる。 ●とうがらし地蔵 むかし唐辛子の好きな婆ちゃんがいた。持病の咳で苦しみ、医者に唐辛子を禁じられた。死後遺言 により地蔵を祀ったら、誰いうと無く「お参りすると咳が出なくなると伝えられ、祈願する人が増え たとか。全快のお礼に唐辛子を数珠繋ぎにして地蔵の首に掛けるという風習になり、何時からとも無 く「とうがらし地蔵」「咳止め地蔵」として崇められ親しまれている。 |
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■見樹院 小石川3丁目4番14号にある浄土宗の寺。鎖国令の出た寛永十年(1633)九月十六日丹波国 (京都府)桑田郡、亀山城主大給松平左近将監源成重が卒し、その法名を見樹院殿覚誉円徹大禅定門 と称して、小石川伝通院に埋葬した。 廷宝三年(1675)になり、後嗣である豊後国府内(大分市)城主大給忠昭が、見樹院殿霊位の 追善供養のため、伝通院山内に大給松平成重を開基とし、諦誉直絃上人を開山上人として迎え別院を 建立、見樹院と称えた。これが現在の見樹院の始まり。以後大給家代々の菩提所となると共に、伝通 院の塔頭寺院となった。 明治維新の廃仏棄釈、戦災等で往時の威勢は失せ、関東大震災後、諸般の事情により寺域が縮小さ れ、墓地がコンクリート製の堂内に納められることになったため、多摩墓地などへ墓所を移転する檀 家も出た。太平洋戦争後は、全檀家が協力し再建に着手、昭和37年に墓地改装から、本堂、庫裡の 新築など復興に努め、浄土宗開宗八百年、見樹院創建三百年に当る昭和49年、昭和20年5月25 日の愚かなアメリカ軍の空襲により焼失した戦前の堂宇以上の床面積を持つまでの立派な伽藍に整備 された。 ●大給松平成重 文禄三年(1594)~寛永十年(1633)。江戸時代前期の大名。松平一生(徳川氏の一族) の嫡男。慶長九年(1604)父の一生が死去したため、その後を継いで下野国板橋に1万石を領し た。同十九年(1614)大久保忠隣改易の連座で里見忠義が改易されると、その城受け渡しと破却 に任に当たった。同年冬からの大坂冬の陣では小田原城の守備を、翌年の大坂夏の陣では本戦に参加 し、首級を12を挙げる活躍を見せ、その功により、元和三年(1617)三河国西尾2万石に加増 移封された。同7年(1621)にはさらに2000石加増され、都合22000石で丹波国亀山藩 に移封された。寛永三年(1626)徳川秀忠・徳川家光父子の上洛に付き従うなど活躍し、寛永十 年(1633)40歳で死去した。法名は見樹院殿覚誉円徹大居士。最初は深川の法禅寺に葬られた が、後に小石川伝通院に改葬されている。 |
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■無量山法蔵院 小石川3丁目5番4号にある浄土宗の寺。詳細不明 |
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■無量山真珠院全忠寺 小石川3丁目7番4号にある浄土宗の寺。水野隼人正忠清(徳川家康生母・於大の方の甥)が開基 となり正保四年(1647)に創建したという水野家の菩提寺。入口右に「小石川七福神」の布袋尊 が、左には平和観音を安置。観音の並びに地下道入口がある。その先に墓地、浄土苑、月かげ会館が ある。本堂は正面で鉄筋コンクリート作りで、円形の面白い形をしている。本堂の右は庫裏。墓地に 水野忠清(沼津藩祖)、鈴木茂三郎(社会党委員長)、山岸徳平(国文学者)などの墓がある。 ●水野忠清(隼人正) 天正十年三河生まれ。刈谷藩主水野惣兵衛忠重の四男。大坂夏の陣に旗本先備えとして従軍。元和 二年(1616)父祖以来の功により三河刈谷藩2万石を与えられる。寛永九年(1632)三河吉 田4万石に移封、同十九年信濃松本藩7万石初代藩主。正保四年没。行年66歳。この系統は6代ま 松本藩主を務めるが、7代忠友の時沼津藩に転封となり幕末まで維持する。それで忠清が沼津藩祖と いわれる。 ●鈴木茂三郎(もさぶろう) 大正から昭和時代の社会運動家、政治家。明治26年愛知県生まれ。早大卒。新聞記者を経て無産 政党の結成にかかわる。太平洋戦争後、社会党の結成に参加し、昭和21年衆議院議員に当選(以後 9回連続)。同26年党委員長となり、平和4原則をかかげる。同年の社会党分裂後、左派社会党委 員長。同30~35年統一会党委員長。同45年死去。77歳。早大卒。著作に『ある社会主義者の 半生』などがある。 ●山岸徳平 昭和時代の国文学者。明治26年新潟県生まれ。東京帝大卒。学習院、東京教育大の教授を経て、 実践女子大教授、学長を務めた。上代から近世までの日本文学全般および漢詩文を研究対象とし、特 に『源氏物語』の研究で知られる。昭和62年死去。93歳。号は岸廼舎(きしのや)。著作に「堤中 納言物語全註解」「近世漢文学史」などがある。 |
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■三百坂 小石川3丁目8番と4丁目2番の間の坂道。 三百坂 別の名を 三貌坂ともいう。文京区教育委員会の坂名標によると、「江戸志によると、松 平播磨守の屋敷から少し離れたところにある坂です。松平家では新しく召し抱えた〝徒の 者〟を屋敷のしきたりで早くしかも正確に役に立つ者かどうかを試すために この坂を利 用したという。主君が登城のとき 玄関で目見えさせ、後衣服を改めて、この坂で供の列 に加わらせた。もし、坂を過ぎるまでに追いつけなかったら罰金として三百文を出させた。 このことから家人たちは「三貌坂」を「三百坂」と唱え、世人もこの坂を通称とするよう になった。 文京区教育委員会 昭和55年1月 |
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■淑徳学園中学校・高等学校 → 淑徳SC中学部・高等部 小石川3丁目14番3号にある伝通院が運営する私立校。明治25年尼僧輪島聞声(もんじょう) により「淑徳女学校」として創立。同26年「淑徳婦人会」創設。同39年高等女学校令により「淑 徳高等女学校」と改称。淑徳家政女学校」を併設。大正9年輪島聞声遷化(死亡)。 昭和3年モダンな新校舎落成。同4年制服が和服から洋服に。同10年制服制定。同13年浄土宗 教育資団に経営移管。同20年愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により校舎全焼。 同22年戦勝国アメリカの強制による学制改革により「淑徳学園中学部」設立。校舎復興。同23 年「淑徳学園高等学校」設立。財団法人淑徳学園に経営移管。同31年高校の制服が背広型に変更。 同33年高等学校専攻科を設置。 平成4年創立100周年記念式典。同19年新校舎竣工。同20年から完全中高一貫教育校となり 「淑徳SC中学部・高等部」と改称。 校歌「嵐を凌ぎ」 作詞・武島羽衣 作曲・坂本その 1.嵐を凌ぎ霜に耐え 気高く清く真心の 珠を磨けと万代(よろずよ)に 鏡を示す法(のり)の月 2.あゝ法の月仰ぎつつ 才の技ぶり智の香り 徳の実 円(まる)く結ぶべき 花の乙女と咲き出でん ※SCは「Successful career= 出世・人生的成功」 板橋の淑徳中学校高等学校は、姉妹校ではないが、同じ「淑徳女学校」から派生した女学校だ。 |
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■無量山 伝通院 寿経寺 小石川3丁目14番6号にある浄土宗の大寺。でんずういん。京都知恩院末の古刹。応永二十二年 (1415)浄土宗七祖の了誉聖冏(りょうよしょうげい)上人が当地の極楽水(現在の吉水山宗慶 寺のところ)に草庵を結んで開創し、無量山寿経寺と称した。慶長七年(1602)八月生母於大の 方を亡くした徳川家康は、遺言通り遺骸を伏見から江戸に運ぶと、大塚の智香寺(智光寺)で火葬、 位牌は蒲郡の極楽寺に置き、関宿の光岳寺など各地に菩提寺を建立した。翌八年(1603)遺骨を 現在地に埋葬すると、増上寺の開山西誉聖総の切望により堂宇を建立すると寿経寺を移し、母の法号 「伝通院殿容誉光岳智光大禅定尼」に因んで院号を伝通院とした。関東十八檀林の第一とされ、本堂 ・方丈・開山堂・学寮など100余の建物群が甍を競い、それはそれは盛観だったという。寛永寺・ 増上寺と並んで「江戸三霊山」に数えられ、徳川氏に縁の女性・子供の多くが埋葬されている。朱印 830石を拝領、徳川家の菩提所となり、数多くの末寺を擁していた。江戸三十三観音霊場12番札 所。 明治23年淑徳女学校、現在の淑徳SCを創始した。永井荷風が随筆『伝通院』を書き、「バリに ノートルダムがあるように、東京には伝通院がある」と絶賛した。夏目漱石も若い頃にこの近くに下 宿していたため、小説『こころ』で伝通院に言及している。幸田露伴一家は大正13年年に伝通院の 近くに転居して、現在も子孫が住んでいる。戦災で堂宇悉く灰燼に帰したが、昭和24年本堂を再建、 同63年新しい世紀の宗教活動に対応できる新本堂を建立。平成9年に繊月会館を建立。同11年に は観音堂を建立し現在に至っている。 ●古泉千樫の歌碑 山門脇にある。元々は墓地右奥の千樫の墓所にあったものを移設した。 雑然と鷺は群れつつおのがじしあなやるせなき姿なりけり |
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●ジョセフ岡本三衛門神父供養碑 入口を入って左手隅に隠すようにしてある。墓石様の碑の正面に「入専浄真信士霊 貞享二年乙丑 七月二十五日」とあり、説明板が添えてある。ジョセフ岡本は、ジュゼッペ・キアラというイタリア はシシリー島出身の宣教師で、寛永二十年(1643)マカオから5人で美大島に渡り、直ぐ捕まっ て拷問され全員棄教、キアラは正保三年(1646)江戸小石川の切支丹屋敷に外部と遮断され幽閉 された。そこは切支丹取締の総元締切支丹奉行井上筑後守の下屋敷(切支丹屋敷)だった。井上が狙っ たのは司祭たちの本心の如何に拘わららず転んだとして隔離し、根を絶ち葉を枯らすことだったよう だ。その頃伝馬町の牢で斬罪になった岡本三衛門という男の姓名と、その後家と子供、さらに10人 扶持と下男下女を貰ったキアラこと岡本三衛門は、その屋敷の中で88歳で死ぬまで暮らしたという。 墓は雑司ヶ谷墓地にあったが、昭和になって二人のイタリア人が来日して警察官立ち会いで持ち去っ たと。 |
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●指塚・物故指聖供養塔 指塚は、平成14年9月22日、指圧師の名を高からしめた浪越徳治郎が会長だった日本指圧協会 が建てた。 指もてもろもろの病を癒し、人々に救いと慶びを与え、先に逝かれし指聖の御名をとどめ、 その御霊に、後継ぎし者等の誠を捧げ、その功徳を永えに讃えんとしてこの塚を建つ。 昭和45年9月23日 日本指圧協会 浪越学園は中門を出て、参堂東側にある。 ●如是我聞の碑 にょぜがもん(そう私は聞いた) 書家中村素堂の書。平成7年建立。 ●伝通院(於大の方)の墓) 三河刈谷城主水野忠政の娘で、名を大といった。天文十年(1541)岡崎城主松平広忠に嫁ぎ、 翌年に竹千代(家康)を生む。忠政死後水野家を継いだ兄・信元は織田家に付き、今川家の保護を受 けていた広忠は、今川家を慮ってお大を離縁し苅谷へ帰した。人質として織田方や今川方を転々とす る家康を慰め、常に衣服や菓子を贈って見舞い、音信を絶やすことがなかった。家康も生母の至情を 忘れる事なく天下統一後には阿古屋城主久松俊勝と再婚しいていたお大の方を、全く実家の者として 迎え入れ た。慶長七年(1602)伏見城で逝去。行年75歳。 墓石は巨大だ。 法名は、傳通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼。 ●於奈津の方の墓 長谷川藤直の娘で、家康の晩年に側室になり駿府城に入る。家康の死後に江戸城三の丸屋敷に入り その後は家光を補佐。万治三年(1660)80歳で逝去。 |
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●天樹院(千姫)の墓 2代将軍徳川秀忠と織田信長の妹お市の方の次女逵子との娘。家康の孫、政略上7歳で従兄弟の豊 臣秀頼と結婚させられて大坂城に入った。秀頼の母淀君は伯母だ。それほどつらい事ではない。大坂 落城の時、家康は「助けた者には姫をやる」と公言して、それを信じた坂崎出羽守直盛が火傷を負い ながらも無事救出した。しかし家康は約束を反故、桑名城主本多忠政の子の忠刻と再婚するが、この 嫁入り道中に直盛は単身で斬り込んだが捕らえられ自害して果てた。津和野5万石を棒に振ってまで 男の意地を貫いた。法名は、天樹院殿栄誉源法松山大禅定尼。 ●孝子の方の墓 鷹司孝子。徳川家光の正室。関白左大臣鷹司信房卿の姫君で、慶長七年京都に生まれる。摂関家出 身の姫が江戸に下って将軍夫人となった最初の女性、寛永二年(1625)24歳の時、将軍家光と 婚礼、御台所(正室)となる。家光との仲は必ずしも和合せず、子供にも恵まれなかった。武家の生 活に馴染めぬまま延宝二年73歳で逝去した。法名は本理院殿照誉円光徹心大姉。 |
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●沢宣嘉の墓 幕末の公家。姉小路公遂の5男として生まれる。後、公卿沢為量の継養子となる。安政五年(18 58)の日米修好通商条約締結の際は養父為量と共に勅許に反対して「廷臣八十八卿列参事件」に関 わった。以後朝廷内において尊皇攘夷派として活動した。文久三年(1863)八月に会津藩と薩摩 藩が結託して長州藩が京都から追放された「八月十八日の政変」により朝廷から追放されて三条実美 ら6人の公卿と共に長州へ都落ちする。世にいう「七卿落ち」の1人だ。長州へ逃れた後は各地へ潜 伏し、10月平野国臣に担がれてその気になり但馬国生野で挙兵、「生野の変」を起こすも、3日で 恐れをなして再び長州に逃げ、讃岐に潜伏する。 慶応三年(1867)王政復古の後は、新政府の参与、九州鎮撫総督、長崎府知事などの要職を務 め、明治2年に外国官知事から外務卿になり、外交に携わるが、同6年38歳の若さで病死した。 墓は都の旧跡に指定されている。 ●清川八郎・妻阿連の墓 幕末の勤皇の志士。出羽国清川村の郷士斎藤治兵衛の子で、のち郷土の地名を採って清川正明と名 乗り、通り名を八郎と称した。真木和泉・平野国臣らの尊皇攘夷運動に参画したが寺田屋事件に失望 し、文久三年(1863)幕府浪士隊に参画した。しかし攘夷派だったことが禍を呼び、同年麻布赤 羽橋で、幕府見廻組に暗殺された。行年34歳。 |
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●杉浦重剛の墓 教育家・評論家。明治21年三宅雪嶺と雑誌『日本人』を発刊し、欧化主義に反対して国粋主義を 唱えた。衆議院議員・国学院学監・東亜同文書院々長を歴任し、大正13年70歳で没した。 杉浦重剛の墓 安政二年~大正13年(1852~1924) 滋賀県の生まれ、幼名を謙次郎。号は梅窓または天台道士。 明治3年東京大学南校に入学。明治9年英国に留学する。明治18年東京英語学校を創立 した。後年、国学院学監。皇典講究所幹事長。東亜同文書院長などをつとめ、大正3年東宮 御学問所御用掛となった。明治・大正時代の教育者、評論家としての活躍は著名である。 平成元年3月 文京区教育委員会 ●高畠達四郎の墓 画家。独立美術教会会員、「暮色」で毎日芸術賞を受賞。林武、野口弥太郎と並ぶ3大巨匠の一人 ●佐藤春夫の墓 佐藤は詩人・小説家。生田長江・与謝野鉄幹・永井荷風に師事し、浪漫主義詩人として出発する。 のち耽美的作風で文壇に重きを置いた。昭和35年文化勲章を受賞し、同39年72歳で没した。 |
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●柴田錬三郎の墓 細いピラミットのように段の高さは同じで8段積みだ。逓減率も同じ。3段目から下に中央に一字 づつ「斎・藤・家・之・墓」と刻字してある。横に「眠狂四郎」の円月殺法に因んで石の球体が据え てある。本斎藤錬三郎。岡山県邑久郡鶴山村(現備前市)の地主・柴田知太の3男として生まれる。 遠藤周作や吉行淳之介とは遠縁にあたる。慶應義塾大学予科3年の時、『十円紙幣』を『三田文學』 に発表。昭和15年斎藤エイ子(仏文学者斎藤磯雄の妹)と結婚。斎藤家の婿養子となり斎藤錬三郎 となる。同年慶應義塾大学文学部支那文学科卒業、日本出版協会に勤める。また同年長女美夏江が誕 生。同17年召集され、同20年南方へ派遣される途中、バシー海峡で敵襲に会い乗艦が撃沈、7時 間漂流する。同24年文筆活動に入り、同26年6月に『三田文學』に発表した『デス・マスク』が 第25回芥川賞・第25回直木賞候補に入る。翌年『イエスの裔』で第26回直木賞受賞。同年『真 説河内山宗俊』発表以後は、時代小説を次々と発表。またこれ以降の現代小説では『チャンスは三度 ある』などがある。同44年『三国志英雄ここにあり』で第4回吉川英治文学賞を受賞。随筆・エッ セイも多数発表している。肺性心の為、慶應義塾大学病院で死去。享年61歳。遺作は『復讐四十七 士(未完)』。 ●橋本明治の墓 画家。日本芸術院会員。島根県那賀郡浜田町(浜田市)生まれ。昭和4年より帝展に出品、同6年 東京美術学校日本画科卒、松岡映丘に師事。同12年新文展で特選。同15~25年法隆寺金堂壁画 模写に従事。戦後、日展に出品。同23年創造美術結成に参加するが、後に脱退して官展に戻る。同 26年芸術選奨文部大臣賞受賞。同27年日展審査員。同30年日本芸術院賞受賞。同33年日展評 議員。同44年日展理事。同46年日本芸術院会員。同47年日展常務理事。同49年文化勲章受章 受賞、文化功労賞受賞。平成3年没。 * 他に小栗虫太郎(探偵小説家)、簡野道明(漢学者)、西尾良伯(蘭学者)、久野久子(音楽家) 古泉千樫(歌人)などの墓碑がある。 |
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■処静院跡 小石川3丁目14番8号の関東財務局小石川住宅のところにあった。伝通院の入口(中門跡)の左 側に「不許酒葷入門内」の石柱が立っている。これは処静院の門前に立っていたもので、処静院は伝 通院の塔頭の1つだった。家裁に遭い、淑徳学園前に移り、のち廃寺となった。 ●浪士組(後の新撰組)結成 文久三年(1863)二月四日、新撰組の元になる浪士組の結成がここ処静院で行われた。中心人 物は清河八郎で、目付は鵜殿鳩翁・取締山岡鉄舟、処静院住職とは鉄舟が懇意だった。清河は鉄舟宅 (現竹早公園辺り)に止宿。試衛館道場の近藤勇・土方歳三・沖田総司などが隊員として参加し、総 勢250名は、同月八日中山道を京都に上っていった。 |
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■浄台院 小石川3丁目15番9号にある浄土宗の小寺。 |
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■小石川善光寺 月参堂 3丁目17番8号にある浄土宗の長野善光寺の分院。伝慶長七年(1602)於大の方(徳川家康 の母、伝通院)の守り本尊を安置し、初め善光寺如来堂と称し、古くは「縁受院」と号していたが、 明治17年信州善光寺の分院となり「小石川善光寺」と改称した。赤い山門が二つあり、境内に信州 善光寺月参講の大きな石碑が建っている。寺の前の坂は、そのとおり善光寺坂と呼ばれて、坂上に伝 通院がある。寺の前と月参堂裏に墓地がある。 ●鶴峯戊申の墓 善光寺墓地の鶴峯家墓所内にある。戊申(しげのぶ)は国学者で、通称を彦一郎といった。平田篤胤 に学んで博学で知られ蘭学にも通じていた。神職の出で、諸国を遊歴していたが、江戸に出た際に、 水戸藩主徳川斉昭に拝謁し、藩士に加えられた。明治以来今日も「邪馬台国論争」に関する出版物は 多い。戊申は九州説を唱え、明治以後の研究の基礎を作った人でその説は科学性の面で高く評価され た。安政六年(1859)没。 |
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■老椋 善光寺坂に立ち姿の見事な椋の大樹があるが、これには沢蔵司が宿っているといわれ道路拡張の時、 道を二股にして避けて通した。現在もそのままだ。 |
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■慈眼院(山号寺号無し) 小石川3丁目17番12号にある浄土宗の寺。元和六年(1620)伝通院中興1世正誉廓山の創 建。伝太田道灌念持仏の沢蔵司十一面観世音菩薩像を祀ったのに始まる。また境内には松尾芭蕉の句 碑、滝澤公雄の句碑、杉崎月香の句碑がある。石垣の修復は平成17~18年にかけて行われた。 ●禊観音 境内にある水掛け観音。 ●芭蕉句碑 松尾芭蕉が延宝五年(1677)俳諧宗匠として立机した(プロの俳諧師になった)34歳の時の 作。この頃から4年間ほどは神田上水の工事に従事したとされ、この地には馴染みの深い俳人の一人 だ。この句は本郷壱岐坂(東京ドーム東側の坂)の中程に有った芭蕉と同郷(伊賀上野)の戸田権太 夫邸から小石川澤蔵司稲荷方面を詠んだ句だ。澤蔵司稲荷では江戸時代から句会が開催されており、 その「芭蕉堂」同人 滝澤公雄が発起人となり、大正7年10月12日の芭蕉翁の命日に澤蔵司稲荷 境内に建立された。現在もこの地に残る「小石川」「礫川」を詠み込んだ句として地元の人々から親 しまれている。 一しぐれ 礫や降りて小石川 ●滝澤公雄句碑 明治時代の芭蕉堂主宰滝澤公雄が伝通院の七不思議の一つ、伝通院山内の蛙は学寮の修行僧の勉学 の邪魔にならないように声を出して啼かないとの故事に因み詠んだ句とされる。大きな根府川産の石 に刻まれた句は、明治45年1月芭蕉堂俳諧「山吹叢誌二百号」記念に芭蕉堂門友中が発起人となり 境内に建立された。句碑背面には発起人等の名前が刻まれている。当時の芭蕉堂の隆盛が偲ばれる。 両句碑共に戦災の火も被らず往事の面影を留めている。 月かげにしのぶや聲のなき蛙 ●杉崎月香傘寿記念句碑 平成元年秋大祭 月曜会同人の建立。石垣解体修復工事中に澤蔵司稲荷での句会「月曜会」に参加 していた信者の一人から指摘された。この句は、ソメイヨシノではなく、八重桜「普賢象」の満開の 時に詠んだ句であると。それでその後、信者から寄進のあった普賢象の八重桜の傍に句碑を移動。 しばらくは落花の中に立ち尽くす |
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■3稲荷小祠 善光寺月参堂と沢蔵司稲荷の間の敷地に、稲荷の小祠三社が縦に並んでいる。面積の割にあわない 空間で、入口に狛犬も据えてある。平成5年の住宅地図には山内という宅地を示しているが、住宅が あったような様子はない。 |
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■沢蔵司稲荷(たくぞうすいなり) 小石川3丁目17番12号、慈眼院の奥にある。縁起によると元和四年(1618)四月学寮主極 山和尚の門を澤蔵司と名乗る一僧が浄土教の修学したいと訪ね栴談林に入門した。だが極めて才識絶 倫優秀にして僅か3年余りで浄土教の奥義を修得した。そして同六年五月七日の夜、方丈廓山和尚と 学寮長極山和尚の夢枕に立ち そもそも余は太田道潅公が千代田城内に勧請せる稲荷大明神なるが浄土の法味を受け多年 の大望ここに達せり。今より元の神に帰りて長く当山を守護して法澤の荷恩に報い長く有 縁の衆生を救い、諸願必ず満足せしめん。速く一社を建立して稲荷大明神を祀るべし と告げて、暁の雲にかくれたという。(「江戸名所図会」「江戸志」)。そこで廓山上人は沢蔵司 稲荷を境内に祭り慈眼院を別当寺とした。江戸時代から参詣する人が多く繁栄した。 「東京名所図会」には、「東裏の崖下に狐棲(狐の棲む)の洞穴あり」とある。今も霊窟と称する窪 地があり、奥に洞穴があって、稲荷が祭られている。 また沢蔵司は伝通院門前のそば屋「萬盛」によくそばを食べに行った。沢蔵司が帰ると売上金に必 ず木の葉が混じっていて、店の主人は稲荷大明神だと驚き、毎朝最初のそばを稲荷に供え、稲荷蕎麦 と称えたという。これは現在も続いている。その稲荷蕎麦「萬盛」は、春日2丁目24番、伝通院前 交差点の西南の角、コンビニの隣にある。 また、すぐ前の善光寺坂に椋の老樹があるが、これには沢蔵司が宿っているといわれる。道路拡幅 の時、道を二股にして避けて通るようにした。その木の前に幸田露伴旧宅がある。 沢蔵司 てんぷらそばがお気に入り(古川柳) 慈眼院・沢蔵司稲荷 小石川3‐17‐12 伝通院の学寮(栴檀林といって修行するところ)に、沢蔵司という修行僧がいた。僅か3 年で浄土宗の奥義を極めた。元和六年(1620)五月七日の夜、学寮長の極山和尚の夢 枕に立った。 そもそも余は千代田城の内の稲荷大明神である。かねて浄土宗の勉学をしたいと思っ ていたが、多年の希望をここに達した。今より元の神にかえるが永く当山(伝通院) を守護して恩に報いよう」 と告げて、暁の雲に隠れたという(「江戸名所図会」「江戸志」)。 そこで伝通院の住職廓山上人は、沢蔵司稲荷を境内に祭り、慈眼院を別当寺とした。江戸 時代から参拝する人が多く繁栄した。 『東京名所図会』には、「東裏の崖下に狐棲(狐のすむ)の洞穴あり」とある。今も霊窟 と称する窪地があり、奥に洞穴があって稲荷が祀られている。 伝通院の門前のそぱ屋に沢蔵司はよくそばを食べに行った。沢蔵司が来た時は、売上の中 に必ず木の葉が入っていた。主人は沢蔵司が稲荷大明神であったかと驚き、毎朝「お初」 そばを供え、いなりそぱと称したという。 またすぐ側の善光寺坂に椋の老樹があるが、これには沢蔵司が宿っているといわれる。道 路拡幅の時、道をふたまたにしてよけて通るようにした。 ━郷土愛をはぐくむ文化財━ 文京区教育委員会 昭和56年9月 |
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■幸田露伴宅 小石川3丁目17番16号の西南角地にあり、現在孫が住んでいる。露伴は小説家。名は成行。露 伴は号で、別に蝸牛庵と号した。東洋思想に基づく独自の作風で、尾崎紅葉と並び称された。明治4 1年露伴は向島寺島村(墨田区東向島1‐7)に新居を構えた。昭和2年5月小石川区表町79番地 に移転し、同12年文化勲章を受賞した。文化勲章は、同年2月11日建国記念日に制定され、露伴 は佐佐木信綱・横山大観ら9名とともに、第一回の受賞者だった。同20年3月に長野県埴科郡坂城 町に疎開、戦後上京し、同22年7月市川市菅野の仮住居で80年の生涯を閉じた。表町の自宅はア メリカ軍の空爆で焼かれ、昭和22年11月焼け跡に新築した。この家には娘の文が住んだが、その 文も死んだ。墓は本門寺にある。 |
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■井上児童遊園 → 井上公園 小石川3丁目20番11号にある区立公園。昭和42年3月28日井上家より敷地の寄贈を受け、 都立公園として整備。平成26年4月1日区に移管され区立公園となった。平成26年4月1日改修 により児童遊園から一般の公園にチェンジした。 ●井上哲次郎宅跡 公園内にある。井上は、明治・大正時代の哲学者。巽軒と号す。安政二 年(1855)筑前太宰府の医家に生まれた。東京帝国大学卒業後ドイツに留学し、帰国して母校の 教授となり、ドイツ観念論哲学の導入に努めた。明治24に教育勅語の注釈書『勅語衍義』を著して 忠君愛国の精神を鼓吹し、同26年には『教育ト宗教ノ衝突』を発表して、キリスト教を、教育勅語 に反する反国家なものであると攻撃するなど国家主義の論陣を張った。このおっさんが戦前悪の根源 やったんや。この地は同25~昭和19年に没するまで住んだところで、母屋はアメリカ軍の空爆で 焼失した。正方形に近い敷地の西南隅に、御影石の門柱、南隅の道路沿いに大正8年コンクリート造 りの二階建ての旧書庫と明治36年建造の木骨煉瓦造りの二階建ての土蔵とが並んでいる。敷地の大 部分は区立児童公園となっている。 井上哲次郎宅跡 都指定史跡 小石川3-20‐11 井上哲次郎(1855~1944)は、筑前大宰府に生まれ、巽軒と号した。東大教授と なり、従来の英仏系の哲学に対して、新たにドイツ系哲学を移し、日本の観念論哲学の樹 立に寄与した。著書には「巽軒論文初集」「日本古学派之哲学」「新体詩抄」、漢詩「孝 女白菊詩」、漢詩集「巽軒詩抄」などがある。この地は、明治25年から亡くなる昭和1 9年まで住居のあった所である。旧宅は戦災で焼失したが、書庫であった土蔵二棟が残っ た。跡地は、現在文京区立井上児童遊園となっている。土蔵のうち、手前の一棟は、明治 36年の建造で木骨レンガ作り二階建てである。奥の一棟は、鉄筋コンクリート造り二階 建てで、大正8年の建築である。関東大震災や戦災で、隣接家屋は焼失したが、土蔵内に 収納された物品は安全であった。土蔵は防災建築史上からも貴重なものである。土蔵二棟 は、昭和56年3月、文京区教育委員会が補修整備を行なった。 ━郷土愛をはぐくむ文京区━ 文京区教育委員会 平成10年3月 |
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■小石川三丁目緑地 小石川3丁目22番にある細長い区立公園。平成17年4月1日開園。 小石川3丁目24番にあるほんの僅かの区立公園。平成17年4月1日開園。 この2ヶ所は随分離れている。別名称にしてもいいほど離れている。A・Bとか、北・南とかの区 分けもしていない。 |
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■外山正一旧居跡 小石川3丁目27番15号フォルム小石川のところだ。明治前半期の社会学者、教育行政家。家禄 220俵の旗本、幕府講武所歩兵指南役の外山忠兵衛正義・廉子の長男として江戸小石川柳町(文京 区)に生まれる。幼名捨八、号はゝ山(ちゅざん)。親は武芸で身を立たせようとしたが、学問で頭 角を表す。蕃書調所に入り、2年後開成所教授方となる。6年間の英・米留学を終えて直ちに東京開 成学校教授となる。明治10年東京大学創設第一陣の邦人教授となり、以降文学部長、文科大学長、 東京帝国大学総長(4代目)などを歴任、一時期文相にも就任。帝大社会学講座の初代担当教授。明 治20年代から積極的に大学論を展開し『藩閥の将来』『教育制度論』を刊行。漢字廃止を主張し羅 馬字会を創設、井上哲次郎らと『新体詩抄』を、上田万年らと『新体詩歌集』を刊行、東京女学館、 正則中学校の創設など活動は多方面に亘り、赤門の暴君、赤門天狗などの異名を持つ行動的知識人と いわれた。著作は『ゝ山存稿』(前・後編) |
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■八千代町児童遊園 小石川3丁目30番7号にある区立公園。昭和24年4月1日開園。 |
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■小石川一家殺傷事件 小石川3丁目36番9号のチラシ製作業「三成社紙工」江成三男宅で起きた事件。平成19年3月 28日午前0時17分ごろ「民家で家族が血だらけになっている」と110番があり、警視庁富坂署 員が駆けつけたところ、胸や腹などを刺された男女6人が見つかり、三男(74)・敏子(70)と 息子征男の嫁伸子(37)の3人が心肺停止状態だった。3人は病院に運ばれたが間もなく死亡。征 男(42)が「自分がやった」と話し、征男が無理心中を図ったこと認めた。 調べでは、この家は三男・敏子・征男・伸子と3人の孫の7人家族。死亡した3人の他、8歳の長 男が左胸を刺されて重傷、3歳の次男も怪我。征男も胸と腹に刺し傷があった。もう1人の12歳の 長女は父親の異常行動に戦慄し、隣家に駆け込んだことで事件が発覚し、本人は無事だった。三男は 2階の介護ベッドの上、敏子は隣りの部屋の布団の上に倒れていた。また伸子は3階のリビングで襲 われたとみられる。 小石川は明治以来製本業者の町だったが、時代の趨勢で本を読む人が減少し、製本業・印刷業その ものが衰退し始めており、この業種が立ち行かなくなりつつある。それで廃業する業者が増え、その 跡地にマンションが建って住宅地化し、騒音を出す製本業はいよいよ窮地に立たされる羽目に。そん な中取引2割を閉める業者が廃業、さらに取引の3割を占める別の業者が埼玉県戸田市に移転するこ とになり、収入は半減。征男は戸田への移転も考えたものの、創業者である父三男は寝たきりで、移 転に反対したらしい。そんなこんなで切羽詰った征男は考えあぐねて一家心中を決行したものらしい。 長女は「お父さんは仕事のことで悩んでいて、ストレスが溜まっていた」と語る。 |
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■竹早高等学校 小石川4丁目2番1号にある都立校。明治32年「高等女学校令」公布。修業年限4年を原則とし 3年5年も認める。7月東京府は高等女学校規則を改正し、修業年限を5ヶ年とする。 同33年2東京府女子師範学校に併設して「東京府第二高等女学校」設立(師範学校及ビ高等女学 校設置ノ件告示)。同34年7月「東京府立第二高等女学校」と改称して開校。それまでに全国で3 7校開校、東京は「東京府高等女学校」1校のみ。この年18校が増設され、内15校が東京だ。堀 田要三郎『同窓会報の発刊を祝す』の4ページに、 之(東京府高等女学校)を浅草に移し、其の規模を拡張して之を第一とし、小石川に第二 を設け、又新に麻布に第三を建つるの議を決し、三校鼎立し以て府下女学校の中堅を形成 せんとせり とある。4月本科第一、第二、第三の3学年の生徒を募集。補習科併置。補習科は府立第一高等女 学校生徒と小学校教員志望者に特別の教育をするのが目的。従来府立第一高等女学校にあったものを 便宜上本校に移管したもの。第一学年40名・第二学年44名・第三学年50名・補習科43名の計 177名でスタート(7月までに7名が退学)。5月1日より授業開始 教室不足のため、小石川区 久堅町49番地光圓寺別堂に仮教場3教室を設置。9月小石川区竹早町にあった東京府師範学校(男 子校)が赤坂区青山に転出した跡地(現在地)に移転。普通教室及び生徒控所完成。仮教場を撤し、 全生徒校内において授業開始。11月7日開校式挙行。この日を開校記念日と定める。 同34年第一回生卒業式。同窓会創設。補習科廃止。文部省「高等女学校令」施行規則公布。4月 第四学年2学級、その他各1学級、合計6学級編成。運動奨励。 毎日放課後、1時間以内は運動すべし 土曜日には一時間居残って運動することが許される。女子師範とともに全校で江ノ島に遠足。11 月7日開校記念日行事として午後運動会を実施(但し雨天)。明治35年府立第三高等女学校新設に 伴い、府立高等女学校学則発布。第五学年2学級、その他各1学級の6学級編成。女子師範とともに 全校逗子に遠足。女子師範と合同で学芸会(校友会)開催。食堂・調理室・浴室・洗濯所・理髪室な ど完成。11月作法教室及び裁縫教室に充つべき2階建て教場1棟新築落成。いずれも、女子師範学 校の方にも記載があり。どのように使用されたのか不明。『会報」では作法教室と裁縫教室は第二高 等女学校独自に持てるようになったとある。 同37年日露開戦に際し宣戦の詔勅を奉読し、これに関する文部大臣の訓令を朗読。また戦時にお ける生徒の心得を訓諭する。義金箱を校内に設け、生徒有志から募金して在校生徒全員の名を以て軍 に寄付。北米聖路易萬國博覧会に生徒の作品出品、金牌を受ける。11月府立第一高等女学校で第1 回運動会開催。第4回秋季大運動会。 同38千葉県稲毛海岸に遠足。11月7日創立記念式と第五回秋季大運動会(午前9時半~午後4 時)。14日女子師範学校寄宿舎湯呑所から出火、食堂および炊事場を除き全焼。 同40年補習科学則制定。補習科の復活。校歌制定(東京女子師範学校と共通)。作詞は畠山健。 作曲は岡野貞一。文部省、師範学校規程を公布。高等女学校卒業者を入学させる本科第二部を設置。 6月上野の「内國大博覧会」見学。義務教育年限延長に伴い、高等女学校への入学資格を「尋常小学 校卒業程度」とする。 同42年「服装の制限・校外教授・大清潔法・薙刀の教授・校友会・同窓会・運動会」などを改正 もしくは創始。校外授業;1年に5回、見学会。学年により計画。数名の教員が引率。大清潔法;毎 週月曜日に全校挙げて大掃除を施行。校友会;全校生徒の団体。学芸部(国語・英語・図書・習字の 諸科)・運動部(弓術・薙刀・遊戯・庭球の諸科)・娯楽部(園芸・工芸・音楽の諸科)。各自随意 の科を選択。自由に練習。今日の部活。 同43年創立10周年記念式典。服装規程制定。綿服で袴の腰被に白の縒り糸を通し、これを床上 五寸の高さに穿き、リボンは巾2吋(インチ)以下の物のみ許され、上靴下靴を履き替えることに定 められる。同44年第11回同窓会で規則改正。毎年2回の会報を発行決定。同窓会『会報』第1号 を発刊。補習科廃止。 大正3年従来の「校長事務取扱制」を廃し、独立した校長を置く。同4年全校で逗子に遠足。同6 年校舎一部改築竣工。暴風雨の風水害救済のために秋季運動会を中止とし、校友会から金100円を 支出し、東京市に寄付することを決定。校友会学芸大会は開催。創立記念式実施。恒例の大運動会中 止。同10年生徒募集倍加。甲乙2学級編成となる。日光宿泊旅行実施。宿泊旅行の初めとなる。同 窓会を「篁会」と改称。これまでの校長会長制を改め、独立して理事制とする。11年学制頒布50 周年記念式典。記念事業として運動場完備、ブルマ-を用いる運動服が定められ、運動盛んとなり、 「竹早チ-ム」の黄金時代始まる。第五学年最初の関西旅行実施。生徒自治会成立。購買部設置。同 12年関東大震災の被害を受ける。しかし焼失は免れる。東京女子高等師範学校に校舎の一部を貸与 し、帝都教育会、教員保姆傳習所、同寄宿舎を本校に収容する。女子師範と共に全校で飯能に遠足。 同13年修学旅行実施。千葉県姉ヶ崎へ遠足。校友会主催の音楽会開催。千葉県佐貫に水泳部設置。 校友会遠足部で富士登山。高等女学校生徒60名参加。五年生、女子師範生徒と一緒に日光へ修学旅 行。11月大日本体育同志会主催全日本籠球競技会に優勝。極東オリンピック大会に籠球(バスケッ トボール)選手を送る。同14年創立25周年記念式典。世界籠球自由選手権大会に優勝。 昭和2年極東オリンピック大会に東京代表として籠球選手を送る。明治神宮体育大会籠球に優勝。 服装自由型洋服となり、色、生地等に制限なくなる。同4年女学校体育聯盟競技会排球(バレーボー ル)優勝。夏季臨海学校はこの年より千葉で開かれる。同本校校章制定。セーラー服を制服として採 用。同5年朝礼を実施。創立30周年記念奉祝運動会を上井草運動場に開催。記念式典を講堂にて挙 行。同6年高松宮妃殿下御来臨。校旗制定。同8年賀陽宮恒憲王殿下御来臨。校舎改築工事開始。同 9年明治神宮奉祝体育大会籠球に優勝。10年初めて新年歌会を催し、以後年中行事となる。同11 年新校舎落成移転。補習科設置。女学校教育の補習として家庭的教養を与えることを目的とする。同 14年第五学年の関西旅行を朝鮮まで延長。創立40周年記念祝賀大運動会開催。同15年改築落成 と合わせ、創立40周年記念式典。同16年従来の補習科を「専攻科」と改める。北多摩小平に農園 を設ける。杉浦重剛記念碑(本校校地の一部は杉浦の称好塾の在った所)除幕式。「報國團」結成式 を挙行。同17年小平農園農舎新築落成。修業年限短縮に関する学制改革案決定により、中等学校4 年制となる。同18年賀陽宮妃殿下・同女王殿下御来臨、授業演技を巡覧される。東京第一師範学校 設置され、東京府女子師範学校はその女子部に移管され、額田登女子部長が校長職務を兼務。職員は 各々師範高女のいずれかにその所属となるも、実際上は従来と変更なし。5月国民勤労報國隊出動令 により一日から第五学年生東京陸軍兵器補給廠及び鶴岡計器製作所に出勤。都制施行により「東京都 立第二高等女学校」と改称。第三、第四学年生共同印刷会社に出勤。同19年決戦非常措置要綱公布 により生徒動員体制整えられる。同20決戦教育措置要綱決定。学校における授業は向こう一年間停 止。職員は兼務を解かれる。5月愚かなアメリカ軍の非人道的無差別空爆により女子寮舎半焼。被災 者を校舎に収容。8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗戦、以後属国となり唯々諾々と いいなりになる傀儡政権を保持する今日的不幸を背負い込む。8月28日教育を開戦前の状態に復元 する旨通達。新教育方針発表。戦時教育令廃止。 同21年高女5年制復活。但し希望により本学年に限り希望者には4年卒業を認める。父兄後援会 設立。同22年次年度新制高等学校として発足するため新入生は募集停止。プ-ル開き挙行(戦時中 使用中止)。生徒自治会結成。師範学校との附属関係解消し独立。第五学年生箱根一泊旅行実施。宿 泊旅行復活。同23年校名に関して生徒の意見調査。新校名を「東京都立第二女子新制高等学校」と 定める。4月新制高等学校として発足。学級編成は附設中学3年2学級、高校1年3学級、同2年2 学級、同3年1学級の合計9学級(?)とする。定時制(夜間授業)開設。臨海学校(房州)復活。 11月新制高等学校発足設備資金獲得のため後援会、篁会、職員、生徒協同して本校始めてのバザ- を開き、音楽会、映画会、演劇会を催す。同24年高等学校設置基準に従い、名実共に新制高等学校 として発足。男女共学制実施。男子生徒5名照れながら第一学年に入学。生徒総数528名。従来の 自治会、校友会の合同組織として「生徒会」結成。アメリカの強制により、従来の父兄後援会を解消 してPTA竹早会創立。第3学年生関西旅行実施。11月創立50周年記念式典。 同24年男女共学。同25年「東京都立竹早高等学校」と改称。同27年学区合同選抜制度参加。 同42年学校群制度導入、小石川高校と41群を組む。同57年グループ合同選抜制度導入。41グ ループに編成される。合同選抜の弊害のため公立高校の凋落が酷くなったので、平成6年度から単独 選抜に戻し、昔日の夢を追うこととなる。 偏差値63、20位前後。トップは国立の69。 校歌「ヒマラヤ杉に」 作詞作曲不明 1.ヒマラヤ杉に新芽(にひめ)萌えて 窓は明り 声は弾む 竹早よ 我がこの高校 眞実一路 ここに学びて 幸を呼ばむ 携へて友と 盡くるなし 篤き微笑 ああ 青春に光りあれ 2.朝(あした)の空に風は通ひ 時計台は夢を誘ふ 竹早よ 我がこの高校 清心溌剌 ここに汗して 理想に生きむ おのかじし高く 築きゆけ 永久(とは)の平和(やはらぎ) ああ 新人に力あれ 3.茜の雲の果に清く 富士が峰は影と浮ぶ 竹早よ 我がこの高校 協同親和 道を踏まへば いよよ映えむ 輝ける伝統 潔し三つの春秋(はるあき) ああ 若人に栄あれ ※「おのがじし」は「己が為し」で、「銘々に、それぞれに、各自」の意。 |
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■東京学芸大学附属竹早幼稚園竹早園舎・竹早小学校 小石川4丁目2番1号にある私立校。明治33年創立したため、現在の竹早小学校の創立もこの年 ということになっている。隣接する附属竹早幼稚園との幼小一貫教育を行っており、公式ホームペー ジも共同使用。また平成16年には国立法人化により、校名を「東京学芸大学教育学部附属竹早小学 校」から変更。東京学芸大学の附属学校として教員の育成を行うため、教育実地研究(教育実習)の 指導に当たる使命を持っている。校前にバス停があることから、バス通学する児童も少なくない。本 校の領域に附属竹早中学校、附属竹早幼稚園あるが、隣にある竹早高校は附属ではなく都立なので関 係はな。兄弟校として、附属世田谷・附属大泉・附属小金井の3校がある。 ●杉原重剛の称好塾跡 幼稚園の中にある。元々この地に杉浦重剛の私塾があった。江戸川の同人社(中村正直)、三田の 慶応義塾(福沢諭吉)と並び三大家塾といわれた。 杉浦重剛先生穪好塾舊趾 |
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■東京学芸大学教育学部附属竹早中学校 小石川4丁目2番1号にある公立校。昭和35年東京学芸大学附属新設中学校から改称したものに 当たり、その前身は東京学芸大学附属竹早学校(東京第一師範学校女子部附属中学校→東京学芸大学 東京第一師範学校竹早附属中学校)と、東京学芸大学附属追分中学校(東京第二師範学校女子部附属 中学校→東京学芸大学東京第二師範学校追分附属中学校)だ。この2つの学校は同22年の同じ年に 創立したため、現在の竹早中学校の創立もこの年ということになっている。 昭和22年アメリカの強制による63制実施により、「東京第一師範学校女子部附属中学校」を文 京区久堅町8番地の附属小学校校内に創設。また「東京第二師範学校女子部附属中学校」を文京区東 片町2番地の女子部内に創設。同24年国立学校設立法施行令により、校名をそれぞれ「東京学芸大 学東京第一師範学校竹早附属中学校」「東京学芸大学東京第二師範学校追分附属中学校」と改称。同 26年それぞれ「東京学芸大学附属竹早中学校」と「東京学芸大学附属追分中学校」と改称。同29 年「東京学芸大学附属竹早中学校」「東京学芸大学附属追分中学校」を廃し、東京学芸大学附属「新 設」中学校を、文京区竹早町8番地竹早分校校舎あとに設置し、前記両校の生徒を収容する。特殊学 級を開設し「若竹学級」と称す。同31年校歌制定(作詞・大木惇夫 作曲・長谷川良夫)。同32 年第二運動場の一隅に武道場竣工。同35年「東京学芸大学教育学部附属竹早中学校」と改称。「若 竹学級」は附属養護学校として独立。校舎建替え、都立竹早高校と分離のため、練馬区東大泉の東京 学芸大学教育学部附属大泉中学校敷地内仮校舎として移転。同45年新校舎落成し大泉の仮校舎より 復帰。都立竹早高校との校舎の分離が実現。体育館兼講堂および屋上プールが新築完工。同51年海 外帰国子女15名を一般学級に受け入れ。同61年武道館落成。平成9年全面建替え新校舎竣工。体 育館兼講堂・屋上プール完成。創立50周年記念式典。 平成16年に国立大学法人化により、校名を東京学芸大学教育学部附属竹早中学校から変更した。 東京学芸大学の附属学校として教員の育成を行うため、教育実地研究(教育実習)の指導に当たる使 命を持っている。校前にバス停があることから、バス通学の生徒も少なくない。本校の領域には、附 属竹早小学校、附属竹早幼稚園もあるが、隣にある竹早高校は学芸大学附属ではなく都立高校であり 無関係である(但し以前は校地や校舎を共有しており、現在も本校からの進学者がある。東京学芸大 学附属高校には半数以上の生徒が進学できるがレベルは高い。兄弟校として、附属世田谷・附属大泉 ・附属小金井の3校がある。 |
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■小石川郵便局 小石川4丁目4番2号にある。 |
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■吹上坂 小石川4丁目6番と19番の間を北に上がる坂道。別名「かむろさか(禿坂)」昔、この辺りを吹 上村といった。この土地から名づけられたと思われる。『改選江戸志』に、 吹上坂は松平播磨守の屋敷の坂をいへり とある。なお、別名「禿坂」の禿は河童に通じ、都内六ヶ所にあるが、いずれもかっては近くに古 池や川などがあって寂しい所とされている地域の坂名である。この坂も善仁寺前から宗慶寺極楽水の 傍へ下り、坂下は「播磨田圃」といわれた水田であり、しかも小石川が流れていた。この水田や川は 鷺の群がるよき場所であり、大正時代でもその面影を止めていた。 雑然と鷺は群れつつおのがじし あなやるせなき姿なりけり 古泉千樫 |
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■手塚良仙屋敷跡 小石川4丁目10番10号アカデミーハイツのところにあった。『鉄腕アトム』で知られる国民的 漫画家手塚治の曽祖父。彼は蘭方医として小石川種痘所の創設に貢献した人。治の漫画『陽だまりの 樹』にその生き様が描かれている。治が医者の家の子でなかったら、鉄腕アトムは発想していなかっ たろう。空想科学マンガだが、極めて医学的だもの。 手塚良仙(光照)の子。本名は光享。良庵を名乗り緒方洪庵の適塾入門。福沢諭吉らと交友。江戸 に帰って大槻俊斎、伊東玄朴らとお玉ヶ池種痘所を設立。父の跡を継ぎ良仙と改名し、幕府歩兵屯所 付医師となり、維新後、第二本帝国陸軍軍医となる(大尉相当官)。西南戦争に従軍、現地九州で赤 痢に罹り、長崎陸軍病院にて没す。 |
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■印刷工芸高等学校 廃校 → 日本プリンティングアカデミー 小石川4丁目10番10号アカデミーハイツのところにあった私立校。大正11年共同印刷株式会 社元社長大橋光吉によって、印刷技術者養成を目的として「精美堂印刷学校」の名で開校した。昭和 10年「印刷青年学校」と改称。同12年共同印刷実務青年学校開校。同23年財団法人「私立印刷 工芸学校」と改称。同26年学校法人「印刷工芸高等学校」と改称。同55年までは存在したが、そ れ以後についてはインターネットで検索しても0件だ。恐らく廃校になったのだろう。移転、改称な ど一切判らない。 より高い教養と人格の練成に力を注ぐと共に、技術教育を通じて勤労に対する正しい信念を確立し、 国家並びに社会の要望する品位高く責任を重んずる教養の深い印刷工業人の育成に努めることを建学 の精神としていた。印刷技術の教育は特に実習を重視し、そのために設備の充実に力を注いでいた。 募集人員僅かに40名1学級で経営を度外視し、少数精鋭主義で高度の印刷教育を実施し成果を上げ た。入学と同時に製版関係、印刷関係、製本、一般の優良会社に勤務することが出来、給与を受けな がら修学できる特典があった。 と書いたら、ある方からメールを頂戴しました。 初めまして。いつも興味深くページを拝見させて頂いております。 先程、文京区は小石川の項を眺めていました所、「印刷工芸高等学校」のその後について 杳として知れずとの事でしたが、1978年(昭和53年)4月1日に「日本プリンティ ングアカデミー」と名称変更がなされております。その事は http://www.kyodoprinting.co.jp/company-profile/100ani/kp100.html 上記URLにある「共同印刷100年の歩み」と言うページにある年表でご確認頂けます。また 「日本プリンティングアカデミー」にはWEBサイトがあり http://www.jpa.ac.jp/ このURLで御覧頂けます。御節介ながら御注進と言う事にて 失礼いたします。 で、その後 →日本プリンティングアカデミー 小石川4丁目13番2号に記載。 |
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■梵音山慈照院 小石川4丁目12番6号にある曹洞宗の寺。寛永八年(1631)伝通院の姉慈照院の孫の中山五 平次が開基となり、白雲慈眼を開山とし、慈照院の菩提寺として建立。赤い山門を入ると境内の正面 に本堂、庫裏は右、墓地は左だ。緑の多い寺で都会では珍しくなったお寺らしい寺。静寂な和の庭園 は素晴らしい。 ●辰巳屋惣兵衛の墓 惣兵衛は本名を平井辰五郎といい、伝通院前茶漬飯屋の主。壮年のころは任侠を以て知られ、後狂 言神楽を工夫し、江戸の祭礼には必ずといってよいほど顔を出したといわれ、文政四年(1821) に89歳の長寿を全うした。戒名は、快楽遊仙居士。墓は台石に「辰巳屋」と刻み、その上に3基の 墓石が並ぶ。左右の石には代々の戒名が彫ってある。ところが中央の墓石は面白いんだ。昭和5年刊 の『大東京の史蹟と名所』の表現を借りるなら「老人の振袖姿にて娘風に扮し、舞踊せる姿を刻して いる」というものだ。同書の表題は『「舞踊姿浮彫墓」一風変わった墓石だ』。一風変わった墓だか ら紹介されたのだろう。 |
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■神社 小石川4丁目12番6号、慈照院の南角にある小祠。 |
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■仲台山医王院光円寺 小石川4丁目12番8号にある。創建年代は不詳だが、天平十三年(741)行基菩薩が創建した と伝えられる。その後伝通院開山了誉上人が浄土宗に改め中興開山したという。 芝増上寺末、小石川久保町 中臺山医王院光円寺、境内三千坪内二反二畝廿九歩伝通院領年貢地 起立之儀相知不申候得共元禄六酉年二月書上よると天平十三年行基菩薩起立し候其後・・ ・・(中略)伝通院開山了誉上人中興当寺開山而浄土宗と相成申候。 開山行基菩薩天平二十に年二月二日寂。 中興開山了誉上人応永廿七年九月廿七日寂。 本堂六間半七間半。本尊薬師如来木立像丈七寸五分行基作六阿弥陀元本元ハ堂ニ有之候。 ・・・(中略)十二神木立像丈一尺五寸行基作。善導大師、円光大師。熊野権現、丈五寸 二分坐像行基作。大黒天、丈七寸二分行基作。地蔵六対、今ハ三体有之元別堂有之候、当 時本堂ニ安置。韋駄天。焔魔王、坐像丈一尺三寸二分行基作。阿弥陀如来、信本尊ト唱丈 二尺五寸恵心僧都作。本堂薬師如来有候安永年中伝通院ヨリ寄附。開山行基自作像丈一尺 五寸。中興了誉上人座像、丈同。 観音堂 間口四間三尺奥行三間。子安観世音、立像行基作丈二尺五寸。 地蔵堂、間口四尺奥行六尺。地蔵尊、石立像丈一尺二寸(御府内寺社備考) 墓地に跡見花渓(跡見学園の創立者、南画家)、吹田順助(ドイツ文学者)鹿都部真顔(狂歌師) の墓がある。 ●鹿都部真顔の墓(しかつべまがお) 江戸時代の狂歌作者。通称は北川嘉兵衛。鹿津部真顔とも。紀真顔、狂歌堂、万葉亭、四方歌垣、 四方真顔など、多くの別号があり、恋川好町の戯号では洒落本、黄表紙を書いた。江戸数寄屋橋門外 で汁粉屋を営む。早くは天明二年(1782)の「三囲社頭狂歌」に狂詠がみえる。翌三年の『万載 狂歌集』『狂歌若葉集』にも入集、はじめ、元木網門下で「落栗連」に属していたが、同四年ごろ、 四方赤良(大田南畝)の「四方側」に入り、らに同年中に算木有政らと「スキヤ連」を結び、主宰者 となった。狂歌評判記『俳優風』(天明五年か?)では、後年確執を生じた宿屋飯盛(石川雅望)が立 役巻頭、真顔は巻軸におかれて称揚されている。同七年頃には、馬場金埒、頭光、飯盛と共に「狂歌 四天王」と称されるにいたった。寛政三年(1791)に冤罪により江戸払いとなった飯盛に対し、 真顔は寛政六年に赤良から四方姓を譲られ、四方真顔と号し、以後没するまで狂歌壇の雄たる存在と なった。文化五年(1808)頃より、狂歌は天明振りをよしとする飯盛に対して、真顔は鎌倉・室 町期の狂歌こそが本来の姿であるとして、和歌に接近した狂歌=俳諧歌を提唱し、飯盛との間に論争 を生じる。また真顔は狂歌の点料で生計をたてた最初の人でもあり、化政期には門人は3000人と いわれ、その勢力範囲は北は陸奥から南は九州にまで及んでいた。しかし性格には尊大なところがあ り、文政十一年(1823)京都の縉紳家より宗匠号を贈られてからは水干烏帽子をつけ、堂上的な 態度で人に接したと伝えられるが、その俳諧歌は面白味に欠け、一般からは親しまれなかった。晩年 は家庭的にも恵まれず、貧窮のうちに没し、万巻の蔵書は散逸した。 ●跡見花渓の墓 幕末明治期に活躍した女性画家、教育者。跡見女学校(跡見学園)の創始者。摂津国西成郡木津村 (大阪市西成区)生まれ。名は竜野。父重敬は寺子屋を営む。母は幾野。12歳の時石垣東山に書を 学び、その後禎野楚山について画を学ぶ。安政三年(1856)年京都に遊学し、詩文、書法を頼山 陽門下の宮原節庵に、画を円山応立、中島来章、日根対山に学ぶ。同五年には大坂中之島の父の私塾 を助け。慶応二年(1866)京都に私塾を開く。明治3年東京に移住。宮中の女官教育に当たる。 同5年には宮中に召され昭憲皇太后の御前で揮毫した。同8年東京神田猿楽町に跡見女学校を開く。 同23年上野美術会にて御前揮毫する。代表作に「四季花卉図」(跡見学園蔵)がある。 ●吹田順助の墓 明治~昭和時代のドイツ文学者。明治16年12月24日生まれ。東北帝大農科大学(東北大) 予科、東京商大(一橋大)、中央大などの教授を歴任。札幌で有島武郎と交遊。文芸思想史を研究し ヘッベル、ヘルダーリンなどの作品を翻訳。昭和38年7月20日死去。79歳。東京出身。東京帝 大卒。号は蘆風(ろふう)。著作に「近代独逸(ドイツ)思潮史」など。 |
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■小石川四丁目児童遊園 小石川4丁目13番1号にある区立公園。昭和54年9月19日開園。 |
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■日本プリンティングアカデミー 小石川4丁目13番2号にある。昭和53年印刷工芸高等学校を廃し「日本プリンティングアカデ ミー」開校。同55年法人名も日本プリンティングアカデミーに改称。印刷及び関連業界の支援によ りグラフィックメディアに関する本邦唯一の学校となった。平成20年開校40年目(創立から86 年目)を迎え、1000名以上の卒生が全国各地で企業のトップ(経営者)・中堅幹部・第一線の 営業マン・エンジニアとして活躍している。 |
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■石川山善仁寺 小石川4丁目13番19号にある浄土真宗大谷派の寺。 |
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■共同印刷争議事件 小石川4丁目14番17号にある共同印刷の大正期における労働争議。大正13年5月不況下の中 で我が国最大の印刷工場は博文館印刷所第二工場から出火、工場・倉庫・日本書籍会社等が燃えて、 20数台の印刷機と活字を焼失した。職場を失った工員たちは職場集会を開いて団結、それが始まり だった。この印刷所は明治30年博文館主大橋佐平、自社の書籍・雑誌を印刷するため、共同印刷の 前身である博文館印刷工場を京橋区竹川町(銀座6丁目)に創設、翌年小石川区久堅町(現本社所在 地)に移転し、合資会社博進社工場と改称した。同38年博文館印刷所と改名し、これを機に博文館 の印刷工場から脱皮して独立した印刷会社となった。大正7年には株式会社に改組している。同14 年社長大橋光吉は欧米に渡って、焼失工場に据える最新式印刷機及び製本機械・自動針金背綴機を買 い付けて帰国、量産態勢を作り上げた。この年の暮、光吉が創設した美術印刷中心の精美堂と合併し て「共同印刷株式会社」を設立、工員995名+一般社員1143名を擁する規模となり、関連子会 社を含め一大印刷村の中核が小石川に出現した。 同15年1月会社側は自動化に伴う操業と不況を理由に隔日出勤と時間短縮を発表した。19日職 工側は2000人に膨れ上がった従業員が集まり、評議会系の出版労働組合の指導の下に翌日から罷 業(ストライキ)決行に打って出た。これに対し会社側は全員の解雇を通告、21日には全員に書留 郵便で解雇通知を発送して工場を閉鎖した。昔の経営者は程度の低い守銭奴が多かったので、子供じ みた意地ばった態度に出たものだ。こうした険悪な状況の下、2月1日職工たちは生活基盤確保のた め工場への押しかけを図り、警察隊と衝突、大乱闘となり、140名の検挙者を出し、警官200名 負傷という事態となった。富坂署は逮捕者で溢れ、演武場までも留置場に当てる始末。続く4日にも 職工300名と警察隊の激突があり、まさに泥沼の様相を呈した。 この騒動で、博文館以来共同印刷に印刷製本を依頼していた出版社が支障を懐になり、小石川での 大手版元大日本雄弁会講談社の雑誌『現代』『婦人倶楽部』などに影響が出て、ダイヤモンド社の社 長石山賢吉が調停役となった。しかし会社側は3日付で新規社員の募集を始めていたことなどから職 工側は態度を硬化し、若手アナキスト系組合員は次々と検挙され専務宅放火事件に至った。石山の調 停は2月19日労使ともに、日給の半額支給、工場規約の改正、職長会解散など10ヶ条で折り合い がついた。翌20日にその手打式を行うことになっていたが、会社側は突如中止した。新規採用組と 切り崩しで裏切らせた職工らに「われわれを見捨てる」のか吊るし上げられたからだ。会社側は第二 の争議、新労組誕生を恐れて妥協しなかったのだ。長期化に伴い、職工側は生活資金と争議資金に苦 しみ、厳しい警察の監視の下で発狂者や自殺者を出し、脱落する者も少なくなかったが、3月18日 石山が再び調停し、会社側が12万円を職工側に渡し、200名を復帰させることにより、妥結を見 るに至った。この争議が、戦前における我が国労使双方にもたらした教訓は、誠に大きく労働運動姿 史の中で大正期の総括でもあった。 共同印刷は、その後アメリカ製オフセット印刷機械・輪転機などの設備投資を行い、人員整理に成 功し、昭和3年以降の出版不況を乗り切って今日がある。 |
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■大日本印刷の誕生 一方この労働争議により、その後講談社などが共同印刷への発注を取りやめた関係上、その受注先 となった秀英社と日清印刷らが、この大型大量印刷に対応すべく合併し、大日本印刷が誕生した。以 後共同印刷は大日本印刷に後塵を拝して大きく水をあけられることとなり、天変地異でも起こらない 限り追い越すことは未来永劫ありえないといわれている。漁父の利とはまさにいいえて妙だわい! |
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■吉水山朝覚院宗慶寺 小石川4丁目15番17号にある浄土宗の寺。応永二十二年(1415)浄土宗の中興の祖了誉聖 冏(りょうよしょうげい)上人が極楽水といわれる湧き水の辺りに庵を開き伝法院寿経寺としたこと を起源とする。伝通院の元となった寺だ。慶長七年(1602)に家康の生母於大の方が没し、伝通 院寿経寺を菩提所とする下命があったが、境内地が狭く、新たに一寺を建立して移し菩提所とした。 それが伝通院寿経寺だ。 その後家康の側室だった茶阿局(ちゃあのつぼね)が宗慶尼と称し、ここで元和七年(1621) に没するまでを隠栖していたことから、彼女の法名「朝覚院殿貞誉宗慶大禅定尼」に因んで朝覚院宗 慶寺と称するようになった。徳川家の家紋三葉葵が金色に輝いてるよ。山号の吉水は極楽水のこと。 ●茶阿局の墓碑 本堂階段左脇にある宝篋印塔。遠江国金谷の生まれで、百姓の出身であるという。鍛冶屋の八蔵に 嫁いで一女をもうけたが夫が口論の末殺されたことから、鷹狩に来た家康に犯人を直訴したという逸 話がある。その後、家康の側室となり、辰千代(忠輝)・松千代の双子を産んだ。聡明な女性で、晩 年の家康に仕え、家康が没するまでの間、終始看護を担い死に水をとったといわれる。家康死後に落 飾し「朝覚院」と号し、その後、駿府城から江戸に移って、宗慶寺に隠棲、死去した。 ●野口勝一の碑(珂北野口先生之碑) 明治時代の政治家。嘉永元年十月生まれ。自由民権論に共感し、茨城県会議員を経て、明治25年 衆議院議員(当選3回、自由党)。茨城日日新聞社長。書画をよくし、蝦蟇(がま)の絵が得意だっ た。明治38年11月23日死去。58歳。茨城県出身。茨城師範卒。号は珂北また北厳。 |
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■極楽水 小石川4丁目16番の小石川パークタワーマンションの敷地ところに、整備された湧水があり、区 の説明板が貼り付けてある。『文京区の歴史』の宗慶寺、共同印刷松栄グラウンド(マンション)の 2ヶ所と書いてあるが、寺の方は石碑だけで、極楽水はマンションのところだけだと、寺の方でいっ てらぁね。 極楽水(ごくらくすい) 文京区小石川4-16 小石川パークタワー敷地内 ここは、了誉聖冏上人(りょうよしょうけいしょうにん)が、応永二十二年(1415) 伝通院の元ともなった庵を結んだ所で、後に吉水山宗慶寺の境内となった。現在の宗慶寺 は、すぐ下にある。『江戸名所記』に、 小石川吉水の極楽の井は、そのかみ 伝通院の開山了誉上人よし水の寺に おわせし 時に、竜女形をあらわして上人にまみえ奉り、仏法の深き旨を求めしかば、上人はす なわち 弥陀の本願、他力の実義を ねんごろにしめし賜うに その報恩としてこの 名水を出して奉りけり とある。現在の極楽水は、小石川パークタワーの手によって近代風に整備されたものであ る。 文京区教育委員会 平成5年10月 |
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■播磨坂・都道環状3号線 松平播磨守頼隆の屋敷地だったところを南北に分断するかのように、広々とした道路が東西に45 0mばかり走っており、4丁目と5丁目の境界をなす。この道が坂道になっているので松平頼隆の官 名播磨守に因んで播磨坂と命名した。この道路は、戦後新設の計画道路で未完の環状3号線(外苑東 通り)の一部なのだ。今、新宿区の柳町辺りだから全部が通じるまでとなると後50年はかかるだろ う。果たしてその時東京はあるのか? 播磨坂 この道路は、終戦後の区画整理によって造られたもので、一般にいわれる環三道路(環状 3号線)である。 かつて、このあたりは松平播磨守の広大な屋敷のあった所である。坂下の底地一帯を「播 磨たんぼ」といい伝えており、この坂道もこの土地の人は播磨坂とよんでいる。 昭和35年頃、「全区を花でうずめる運動」が進められ、この道路も道の両側と中央に樹 令15年位の桜の木約130本が植えられた。そして地元の婦人会の努力によって、「環 三のグリーンベルト」は立派に育てられている。昭和43年から桜まつりが行われ、文京 区の新名所となった。 文京区教育委員会 昭和53年3月 環三通り桜並木の由来 かつて、この辺りは常陸府中藩主松平播磨守の上屋敷で、坂下には千川(小石川)が流れ、 「播磨田圃」といわれた田圃があった。戦後にできたこの坂は、播磨屋敷の跡地を通り、 「播磨田圃」へ下る坂ということで、「播磨坂」とよぶようになった。 坂の桜並木は、戦後間もない昭和22年地元の人たちが植えたのが始まりである。同28年 には小針平三氏他、有志からの苗木寄贈により桜並木が生まれた。その後、並木植樹帯の整 備が進み、平成7年には装いを新たにした桜並木が完成した。 昭和43年には「さくらまつり」が地元町会・婦人会の協力で開始され、今日まで桜の名所 として区民に親しまれている。 文京区教育委員会 平成8年3月 |
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■さくらまつり 文京区5大花まつりというのがある。播磨坂は道の両側に桜樹が植えられており、区では「文京の 桜並木」とか「環3の桜並木」と呼んでまつりのメイン会場としている。なるほどシーズンには見事 に咲き誇ってるよ。 |
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■高橋泥舟養家跡 小石川5丁目1番にあった。幕末の地図に「高橋連之助」とある。泥舟の養父の包承(かねつぐ) だ。泥舟は江戸で旗本山岡正業の次男として生まれる。幼名を謙三郎。後に精一郎。通称精一。諱は 政晃。号を忍歳といい、泥舟は後年の雅号だ。生家の山岡家は槍の自得院流(忍心流)の名家で、精 妙を謳われた長兄高橋静山に就いて槍を修行、海内無双、神業に達したとの評を得るまでになる。生 家の男子がみな他家へ出た後で、静山が27歳の若さで死亡し、跡継ぎが無かったため、山岡家に残 る妹英子の婿養子に迎えた門人の小野鉄太郎が後の山岡鉄舟で、泥舟の義弟にあたる。そしてこの2 人に加えて勝海舟が幕末に活躍したので三人を合わせて「幕末三舟」という。 |
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■常願寺 小石川5丁目7番5号にある浄土真宗大谷派の寺。 |
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■第一中学校 小石川5丁目8番9号にある区立校。昭和22年「東京都文京区立第一中学校」として開校。都立 第五、第二女子高等学校の借数室で授業開始。生徒目黒鉱三の原図案による校章・バッジを制定。都 立小石川・竹早高等学校、窪町小学校の借数室で授業。同24年第1期工事北校舎11教室完工。同 第2期工事東校舎6教室及び地階2室完工。校歌制定。 校歌「都の最中文京の」 作詞・教頭久保次助 作曲・井上武士 1.都の最中(もなか)文京の 古き所縁(ゆかり)の園の森 燃ゆる若葉に輝けば 此処竹早のよき丘に 集いて学ぶ若き子の 望みは胸に満るかな 2.芙蓉の峯の色映えて 秋空高く澄み行けば 菊香(かぐ)しく咲き匂う 此処竹早のよき丘に 睦みて励む若き子の 想いは空に通うかな 3.波風よしや荒(すさ)ぶとも 永久に守らん人の幸 努めは重し嗚呼吾等 心を磨き身を鍛え 誠の道の一筋に 学びの業(わざ)に勤しまん 同29年第3期工事東校舎増築4教室及び地階3室完工。同30年文部省産業教育校指定。同31 年第4期増築工事完工。同32年創立10周年記念委員会より校旗とグランドピアノ寄贈。同34年 体育館完工。同37年第5期増築工事完工。同38年第6期増改築工事完工。同39年ミルク給食実 施。同41年完全給食作業室完工。同42年完全給食実施。浄化措置付きプール(25m×13m) 完工。同50年第7期校舎改築工事完工。校庭を荒木田舗装。同51年グリーンフェンス工事完了。 同52年屋上防水工事。創立30周年記念式典。同53年教室・廊下のタイル張替工事完了。同57 年体育館舞台増改築。旧校舎外装、窓改装工事完了。同58年給食室工事落成。同62年開校40周 年記念式典。同63年旗掲揚ポール完成。平成5年新体育館完成。開校50周年記念式典。同8年外 壁サッシ改修・屋上防水工事完了。同9年創立50周年記念式典・同窓会より校旗一式の寄贈。同1 1年給食調理室ドライシステム化改修。同12年地方自治法改正により、東京都の冠称が外れ「文京 区立第一中学校」と改修。放送室改修。同13年給食調理業務民間委託開始。新校舎屋上防水工事、 外壁塗装工事完了。 ●クラブ活動 昭和42年都総合体育大会バスケットボール女子優勝。区総合体育大会総合優勝(男子2位・女子 1位)。同43年区総合体育大会総合優勝(男子2位・女子1位)。同44年都総合体育大会バスケッ トボール女子優勝。区総合体育大会総合優勝(男子2位・女子1位)。同45年都総合体育大会バス ケットボール女子優勝。同47年都総合体育大会バスケットボール女子優勝・全国大会出場。同63 年都中学校ソフトテニス選手権大会男子団体優勝、関東大会出場。平成2年都中学校ソフトテニス新 人大会男子ダブルス準優勝(原田・田中組)。 |
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■団平坂 小石川5丁目9番と10番の間にある、竹早公園の前を北東に下っている坂道。坂の途中にある区 の標識には、次の通り記載されている。 団平坂(丹平坂・袖引坂) 「町内より東の方 松平播磨守御屋敷之下候坂にて、里俗団平坂と唱候 右は先年門前地 之内に団平と申者舂米商売致住居仕罷候節より唱始候由申伝 年代等相知不申候」と『御 府内備考』にある。団平という米つきを商売とする人が住んでいたので、その名がついた。 何かで名の知られた人だったのであろう。庶民の名の付いた坂は珍しい。 この坂の一つ東側の道の途中(小石川5‐11‐7)に、薄幸の詩人石川啄木の終焉の地 がある。北海道の放浪生活の後上京して、文京区内を移り変わって4ヶ所目である。明治 45年4月13日朝、26歳の若さで短い一生を終わった。 椽先に枕出させて久し振りに夕べの空に認めるかな(石川啄木) 直筆ノート最後から2首目 ━郷土愛をはぐくむ文化財━ 文京区教育委員会 平成5年3月 |
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■竹早小学校跡 → 竹早公園 小石川5丁目9番1号、団平坂上にある。ここにはかつて竹早尋常小学校(竹早国民学校)があっ た。昭和28年9月1日区立公園に整備された。公園の入口にある説明板によると、 竹早小学校(竹早国民学校)跡 昭和3年4月1日竹早小学校がこの地で開校。旧竹早町と久堅町の一部を学区として、近 隣4校からの5年生以下の児童472名と教員14名12学級をもってスタートした。 現在の小石川図書館とテニスコートがある場所で、校舎は木造2階建てで、校名は、所在 地の竹早町から採った。 校訓〝剛健、協同、勤勉〟の下に、充実した新しい学校創りを目指して、児童も教職員も 保護者も努力を傾けた。 残念なことに、昭和20年5月25日の空襲により校舎が焼失し、同21年3月31日、 在校生、卒業生の愛惜の想いを残し、18年間の歴史の幕を閉じた。 校歌(一部) 理想も高く伸び出づる 竹の剛さを健げさを 永劫(とわ)に矜(ほこ)りの竹早校 ━郷土愛をはぐくむ文化財━ 文京区教育委員会 平成8年3月 とある。 |
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■小石川図書館 小石川5丁目9番20号にある。 |
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■神社 小石川5丁目11番1号にある小祠。 |
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■石川啄木終焉の地の碑 一時撤去 → 隣接地に設置 小石川5丁目11番7号宇津木家の敷地の角地に石碑が建っていた。明治45年4月13日啄木は 小石川区久堅町74番地の宇津木家の借家で27歳の短い生命を閉じた。胸を病んでの早世だった。 碑の高さは3mの角柱。昭和42年3月1日都教育委員会が建立した。碑の正面には「都旧跡石川啄 木終焉の地」と刻まれていた。碑の建つ位置は宇津木家敷地内で道路際だ。 啄木は詩人・歌人・評論家。本名は一という。盛岡中学校を中退した後、貧困のため郷里の渋民村 の小学校で代用教員をし、地方新聞の記者となって北海道を点々とする。明治41年4月に上京し、 5月本郷菊坂町82番地の赤心館に下宿した。9月には本郷区森川町1丁目の蓋平館別荘に移る。こ の移転は下宿代が払えなくなり、友人金田一京助の援助を受け、金田一の下宿に転げ込んだのだ。つ いで同42年6月家族を函館から迎え、本郷2丁目18番の理髪店「喜の床」新井こう方2階に間借 りした。そして同44年8月に喜の床から久堅町へ転居し、翌年4月病没した。喜の床は新井理髪店 と改称したが、往時の建物は本郷2丁目38番9号に残っていたが、改築することになって、明治村 に移築された。久堅町の家は借家で碑の建つ宇津木家は、啄木が借りた家の家持だ。 碑は、平成20年に、小石川宇津木マンションがサンフロンティア不動産株式会社に買い取られ、 改修工事等のため一時撤去ということで撤去したが、サンフロンティアが韓国人かなんかで、いろい ろ難癖つけてきたとかで、再設置の予定はない。ただマンションの壁に貼られた説明板だけはそのま まだ。ただ壁は白い塗装のコンクリートだったが、茶色いタイル張りに替わっている。 東京都指定旧跡 石川啄木終焉の地 所在地 文京区小石川5丁目11番7号 指 定 昭和27年11月3日 石川啄木は、明治19年2月20日(または18年10月27日)岩手県南岩手郡日戸村 (盛岡市玉山区日戸)の常光寺で生まれた。本名を一(はじめ)という。 盛岡中学校入学後、『明星』を愛読し、文学を志した。生活のため、故郷で小学校代用教 員となり、のち北海道に渡り地方新聞社の記者となったが、作家を志望して上京、朝日新 聞社に勤務しながら創作活動を行った。歌集『一握の砂』『悲しき玩具』、詩集『あこが れ』『呼子と口笛』、評論『時代閉塞の現状』などを著した。 啄木は、明治44年8月7日本郷弓町の喜之床(文京区本郷2丁目38番)の2階からこ の地の借家(小石川区久堅町74番地46号)に移り、翌年病没するまで居住した。 この地に移った啄木は、既に病魔に侵されていた。明治45年4月13日午前9時30分 父一禎、妻節子、友人の若山牧水に看取られながら、結核により26歳の若さで亡くなっ た。法名は啄木居士。 平成20年12月 設置 東京都教育委員会 |
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●再設置の可能性 隣接の空地は国有地で、平成14年度目処に区が購入を予定している。そこに急務だった高齢者の ショートステイ(短期入所生活介護)施設を建設すると同時に、敷地内に啄木の歌碑を建て、1階に も啄木に関するパネル展示コーナーを設け、一般の人も見学できるようにする。事業者は歌碑の設置 などへの協力を条件に募る。ここに都が管理している石碑を建てるかどうかは未定。 ●新たな方向に 区は平成24年10月、歌人石川啄木の終焉の地に隣接する国有地590㎡を取得。同26年度を 目途にショートステイ(短期入所生活介護)の施設を整備し、室内に啄木に関するパネル展示などの コーナーを設ける。施設の外には隣接地が啄木の終焉の地と示す石碑を建てる。9月補正予算案に取 得費を計上する。石碑にはこの地で詠んだ2つの歌「呼吸すれば、胸の中にて鳴る音あり。凩(こが らし)よりもさびしきその音!」と「眼閉づれど、心にうかぶ何もなし。さびしくも、また、眼をあ けるかな」を刻む予定だ。 |
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■石川啄木顕彰室・石川啄木終焉の地の歌碑 小石川5丁目11番8号小石川五丁目短期入所生活介護施設内に平成27年3月22日開室。直筆 原稿レプリカ・年表・写真などを展示。入場無料。 碑材は、啄木のふるさと盛岡にある「姫神山」の姫神小桜という石。直筆原稿を陶板に再現。歌碑 に刻まれているのは、没後に出版された『悲しき玩具』冒頭の2首だ。これが啄木最後の歌とされて いる。 呼吸すれば 胸の中にて鳴る音あり 凩(こがらし)よりもさびしきその音! 音眼閉づれど 心にうかぶ何もなし。さびしくもまた眼をあけるかな |
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■国の重要文化財 旧磯野家住宅(銅御殿) 小石川5丁目19番4号、放送大学の下、湯立坂(ゆたてざか)の東側にある。現在は大谷美術館 所有。明治末から大正初め、7年の歳月をかけて建てられた和風建築物。屋根と壁を銅で葺いている ため、建築当初はあかがね色に輝いており、地元の人々はこれを「銅御殿(あかがねごてん)」と呼 んできた。壁部分を銅板貼りすることは珍しくなく、かつての筑紫・小倉城や備後・福山城に見られ たんだよ。 施主の山林王磯野敬は予算と工期に制限を設けないという破格の条件で腕を見込んだ北見米造(当 時21歳)に設計・施工を担当させ、木曽檜や屋久島杉、御蔵島の桑、ベルギーから輸入品とされる 微妙に凸凹のあるガラスなどぜいを尽くした材料と名工の力作により7年の歳月をかけて大正元年に 竣工した。設計にあたって施主の意向は「寺院風であること、地震に絶対倒れず、火事で燃えてしま わないものを」ということから、構造は寺院式、組み方は耐震式、外回りは耐火式として、伝統的な 構造形式に囚われず、徹底した処置が取られている。即ち屋根を銅板葺とし、重量を軽減し耐震的と するとともに防火的とし、その形を簡単な入母屋造り一枚屋根に作ることによって雨仕舞を充分考慮 している。また外壁の壁は同じく防火的に銅板張とする。さらに床下の構造は防湿の立場から科学的 な独特の工夫が講ぜられている。これだけ徹底した構造上計画上の科学的な設計は、近代和風住宅の 名に相応しいものだ。 |
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●棟梁 北見米造 彼は只の大工じゃあない、基本計画から設計、仕様、見積、工事、施工の全般に亙って遂行する能 力を持っていた。特に木工に関しては、木材の買付、製材、加工、必要な道具の製造までの実力者だっ た。彼の許に集まった職人の数は100人を超えたといわれている。然し考えても見ろ、それがたっ た21歳の若造だぞ。信じられるか? 木曽の檜を一山幾らで買い付け、鍛冶屋を現場に常駐させて 材木に合わせた刃物を造り、木取りでは、曲がりを直し、時間を措いてまた直し、それを繰り返しな がら、大変な手間暇をかけて絶対に狂わない部材を拵えた。 それ故に材料、仕上、施工の全てに最高の水準を示し、室内装飾として絵画、彫刻、工芸を配して 木造建築の造形を身上として総ての大工技術に徹底している。その上で建具とその組子の意匠には執 念を燃やし、自ら設計し、名人と呼ばれる職人を13人も集めて作成させたと伝わる。室内の壁は2 人の名左官が11枚塗りの土蔵壁を仕上げ、関東大震災の際にも皹(ひび)一つ入らなかったという。 ●硝子障子 当時の住宅建築では珍しく、近代化の走りで、ベルギーから輸入したといわれる微妙な凸凹のある手作りの 重いガラスを上下2枚はめて丈夫に拵えてあるが、今でも滑りがよく、狂いがないそうだ。 ●庭 元は平らな地面だったものを、家を奈良東大寺の二月堂のように見せたいとの考えから、前をずっ と掘り下げて、向こうの細い山に檜の植え、東山のような雰囲気を目論んだとか。植木職人は吉野竹 次郎という宮内庁御用の名人だった。庭石の多くは伊豆石で、伊豆から船で運び陸揚げした。最も大 きいものは、四国から取り寄せた大岩で、夜中に牛4頭で引いて運んだと伝えられている。新幹線の 車両を運ぶのと同じ発想だよ。 ●門 さらに趣向を凝らしている。米造は「金をかけずに、誰にもできない立派な門を残そう」と考えて 木場に出向き、重しにしていた薪にするような材木を買ってきて、鉋屑で何日も燻し、植木屋に磨か せて自分一人で組見上げた。絶対に狂いが生じないように工夫したせりを釣らせた屋根には、人の目 を引くために受け木を1本も通さず、扉は楠の一枚板を使っている。そして門柱は、四谷丸太という 曲がったものばかりを使い、石の中にほぞを1尺ぐらい入れるなど、地震に対して万全の構造を持た せている。 ●隣接地野村不動産マンション建設問題 貴重な戦前の建物が失われていく東京で、この「銅御殿」は関東大震災にも耐え、空襲からも免れ、 歴代所有者の維持管理により、極めて良好な状態で保存され続けて今日に至り、国の重要文化財に指 定されて、消滅の危機を乗り越えて保存されることになった。しかるにそのすぐ北隣で野村不動産が 地上14階・地下2階建の高層マンションの建設計画を臆面もなく打ち立てたから、さあ大変。この 文化財にどのような悪影響を与えるのか? 工事に伴う振動や騒音、地下掘削などによる、文化財へ の悪影響はないのか? 高層建物によるビル風の影響は文化財に損傷を与えないのか?――いろいろ と危惧されている。 天下の野村不動産は、森ビルに劣らぬ私利私欲のデベロッパー。隣接地に銅御殿があることに目を 付けての建設計画だ。文化財や日本の美などは糞食らえ、頓着などはない。とにもかくにも金が儲か りさえすれば、それで吉。見かけはともかく精神的なる悪徳業者だ。 これが江戸時代なら、礼儀としてこんな計画は発想もしない。元々計画地も磯野邸の内なのだ。野 村不動産の社長始め野村の人間は、人間として真人間に戻るべきだ。 ●大岩 牛4頭で引いて運んだ巨大な庭石で、これがマンション建設敷地との境目に据えてある。国の重要 文化財なので野村の方でも文化財保護法に抵触する恐れがあって勝手には動かせない。これが動かせ ないとマンション計画は一頓挫する。 日本では古代から、尊いものがある場所に「クラ」という言葉を使ってきた。「磐座(イワクラ)」 とは、「尊いものが降りてくる岩」の意だ。尊いものとは、先祖の霊であったり或いは土地に関わる 神霊だ。大岩は神霊や祖霊が現れ出てくるところに目印として置くものだ。一定の時に、一定の方向 から、一定の場所に、必ず降りてくる神霊や祖霊がいる。その霊に会うために、磐座という岩を置い て信仰の対象としたのだ。六本木ヒルズが龍神池を潰して祟られているように、神霊を蔑ろにすると 祟られるぞ。 |
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■久堅公園 小石川5丁目27番1号にある区立公園。昭和26年11月1日都立公園として開園。同28年4 月1日区立公園となった。 |
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