文京区 根津について

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【根津】(ねづ)1~2丁目                     昭和40年4月1日
 江戸時代は根津権現社地と門前、旗本士宅・根津宮永町。明治2年根津権現社地を根津須賀町と
し元は徳川綱重の屋敷地の内で根津権現の門前町を根津八重垣町とした。同5年権現南の士宅を俗
称から根津清水町、大恩寺とその北の同心士宅を根津西須賀町、権現東の旗本士宅を根津藍染町・
根津片町とし、根津宮永町東の武家地は同町に組み込んだ。同11年「郡区町村編制法」により本
郷区に所属。昭和22年文京区に所属、同40年新住居表示により根津須賀町・根津西須賀町・根
津清水町・根津藍染町・根津片町・根津八重垣町・根津宮永町の全部に向ヶ丘弥生町の一部をあわ
せた町域を現行の「根津」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『文京区史』『文京の歴史』など。

 根津の由来
 本郷台と上野山の間の峡谷を「根津谷」「藍染川渓谷」というが「根」は山や岡、崖などの付け
根、「津」は船着場をいう。駒込の染井から流れ出た谷田川(谷戸川・藍染川)が流れており、か
つてはその流路を石神井川が流れていた。さらに昔は江戸湾の入海だったというから船着場があっ
ても不思議はない。しかしその根の津がどこかは特定できない。根津が町名として用いられたのは
根津権現の境内に町屋が許されてからで、最初の町は「根津社地門前」といった。明治になって士
宅地が開放されて根津を冠する町地は増えていったが、根津門前を賑わしていた根津遊郭は、本郷
に東京大学が移転してくることになって、芳しからざる旨を以て、明治20年12月を限りに閉鎖、
江東区州崎新地へ完全移転した。根津が寂れたのはいうまでもない。しかし下町の風情を色濃く残
すのは、怪我の功名で、乱開発が遅れたためだ。足立区や江戸川区のように未来的になる必要もな
い。

   このあたり坂道ばかりなり秋まつり(久保田万太郎)
 


■根津駅

 根津1丁目3番にある東京メトロ千代田線の停車場。昭和44年12月20日千代田線の北千住~
大手町間開業時に設けられた。ホームは地下1階が1番線、地下2階が2番線の二層構造。1番線ホ
ームと2番線ホームを結ぶエレベーターは平成19年5月に設置された。改札口は2ヶ所で、いずれ
も地下1階にある。出口も2ヶ所のみのシンプル構造。地上へ上がるエレベーターは、同年9月に2
番出口に設置された。
 根津駅にはちょっと変なモノがいくつかある。「靴磨きコーナー」と「根津メトロ文庫」のほか、
1番線ホームの綾瀬寄りには金魚を飼っている水槽がある。かつての大阪港トランスポートシステム
・コスモスクエア駅のように水族館のような水槽がある訳じゃぁねえよ、普通の水槽で普通の金魚を
飼っているんだ。高級観賞魚じゃあ盗まれるからよ。そこんところをよろしく。


■根津小学校
 根津1丁目14番3号にある区立校。明治30年3月に校舎建設を開始し、5月末完成。6月「東
京市根津尋常小学校」開校。根津八重垣町に分教場設置。同41年12月16日学校近辺より出火、
瞬時にして校舎全部が類焼した。翌年根津八重垣町の元製粉会社の建物を仮校舎として授業再開。同
所での授業は2年間続いたが、清水町17番地(現在地)に新校舎を建て同44年に落成したので移
転。大正12年の関東大震災では被害は無かった。その後年々児童は増加し、大正末年には1800
名を超えるに至った。そこで昭和2年汐見尋常小学校が新設され児童500名を移籍。同10年昼間
働かにゃあならねえ子供んために夜学校設置。同16年勅令148号「国民学校令」により「東京市
根津国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都制施行により「東京都根津国民学校」と改称。
同19年8月栃木県塩原町に学童集団疎開するも、食糧不足により小川町に移る。8月日本は、なら
ず者国家アメリカの軍門に降り敗戦。以後その属国とされ、唯々諾々といいなりになる保守傀儡政権
を保持せざるを得ない今日的不幸を背負い込む。もう100兆円以上アメリカに吸い取られたよ。1
0月疎開解除により学童帰校。
 同22年アメリカの強制による学制改革により「東京都文京区立根津小学校」と改称。同24年新
校歌制定。


 校歌
微風に」 作詞:古関吉雄  作曲:岡本敏明
  1.微風
(そよかぜ)に窓を開いて
    澄み渡る空に歌おう
    胸躍る希望の歌を
    巡る丘 青い丘越え
    歌は飛ぶ 高く遥かに
    讃えよ根津 心の故郷
  2.木々の葉に 光は躍り
    鳥歌う弥生の丘辺
    集い寄る明るい頬よ
    手を繋ぎ理想の空へ
    伸びて行け若木のように
    讃えよ根津 心の故郷
  3.清らかにわくま清水に
    匂う花 文化の花と
    憧れは胸に溢れる
    みの花を高く捧げて
    新しい夜を開く子ら
    讃えよ根津 心の故郷


 同29年・30年・35年木造校舎、鉄筋コンクリート造り校舎増改築。同36年給食室完成。同
38年体育館完成。同39年プール完成。同42年創立70周年記念式典。同55年校庭を全天候型
舗装。同61年「やよいの庭」完成。同62年校舎改築(体育館、家庭科室、給食室)。開校90周
年記念式典・希望の泉「ひびきの象」除幕式。校庭弾性軟式舗装に改修。平成8年パソコンルーム新
設。同9年開校100周年記念式典。同19年開校110周年記念式典。

 
一日東大生

 平成12年(第1回)農学部長林良博教授講義「21世紀の地球」
  同13年(第2回)農学部松本聴教授講義「21世紀の環境」
  同14年(第3回)農学部北原武教授講義「〝もの〟つくりと生命・食料・環境」
  同15年(第4回)農学部上野川修一教授講義「食べ物とからだ」
  同16年(第5回)農学部副学部長鈴木和夫教授講義「地球に生きる―木のちから―」
  同17年(第6回)農学部長会田勝美教授講義「ウナギのなぞ」
  同18年(第7回)飯塚尭介教授講義「私たちの生活と紙」
 


■根津一丁目児童遊園
 根津1丁目15番13号にある区立公園。平成15年6月30日開園。


■八重垣第一児童遊園
 根津1丁目17番2号にある区立公園。第二はない。昭和24年4月1日開園。


■根津教会

 根津1丁目19番6号にある日本基督教団の伝道所。礼拝堂は、元来米国の福音派系の教団によっ
て、大正8年に「本郷福音教会」として建てられました。しかし残念ながら、それ以上の詳しいこと
は、記録が散逸しているためよく判らない。この小さな礼拝堂は、関東大震災でも、昭和20年の愚
かなアメリカ軍の非人道的無差別東京大空襲でも、周囲の町並みと共に生き残った。大正初期の、し
かも木造の西洋館が完全な形で東京に残っているのはとても珍しく、景観としてこの建物を愛する人
たちの協力を得て、近年になって文化庁への文化財登録も行った。
 


■お化け階段(幽霊坂)

 根津1丁目20番と2丁目18番の間にある雁木坂。お化けの謂れは、上りと下りで1段段数が違
うことだ。それは下の1段目が道路面と同じ高さであるために、その齟齬が生ずるためだ。アスファ
ルトで舗装する時に、1段目まで道路面をしたことから起きる錯覚で、別におどろおどろしい因縁話
がある訳ではない。また幽霊坂は、樹木鬱蒼と繁って昼尚暗い坂道をいう普通名詞で、この名前の坂
は各所にある。別には、「暗闇坂」ともいい、同義語の類。「幽霊が出るほど薄暗い坂道だぞ。気を
つけろ!」と告知している訳だ。三年坂、蟋蟀坂、赤坂が「滑って転んで怪我をしやすい坂道だぞ」
というに等しい。雁木坂は人工的に段々にしてある坂道のこと。


■小石川金太郎飴
 根津1丁目22番12号、根津神社入口にある。屋号の小石川は、小石川から移転してきたことに
より、名字ではない。現在は「根津金太郎飴」っていう店名なんだとか、金太郎飴1本150円だ!
 根津のお土産っていうか、いつ行っても大将&女将はずーっと奥で飴製作中。「欲しい人は買って
ネ」的な、営業意欲ゼロの風情もここでは逆に好感度upか。このご時世、逆に喜ばれてるのかもっ
て、雑誌か何かに書いてあった。


■鯛焼き・柳屋

 根津1丁目23番9号にある日本橋人形町柳屋の支店。開店前から行列ができるこの店、羽田元首
相やモンデール元駐日米大使らもファンで、何度も訪れているらしい。行列にも男性の姿が多い。男
をも虜にする、その味の神髄は、銭をとるんだから、本当に美味しいものを出したい。だから下手に
小細工をしないで、いい材料を使うことだ。なるほどパリッと焼けた皮の中には、十勝産の小豆のみ
を用いたという、しつこくない甘さの餡が頭の先から尻尾の先まで、ギッシリと詰まってる。これで
1つ120円。午後4時頃には、売りきれてしまうという人気の高さ。何だか「根津のたいやき」と
商号変更をしたとかしないとか。人形町とは微妙に違うからね。


■新坂(権現坂 S坂)
 
根津1丁目の根津神社の南の坂道。明治になって新設の坂道なので新坂、根津権現の前へ下りるの
で権現坂と呼んだ。区の説明板が根津神社前に建ててある。

   新坂(権現坂・S坂)
   本郷通りから、根津谷への便を考えてつくられた新しい坂のため、新坂と呼んだ。また、
   根津権現(根津神社の旧称)の表門に下る坂なので権現坂ともいわれる。
   森鴎外の小説「青年」(明治43年作)に、
   「純一は権現前の坂の方に向いて歩き出した。・・・右は高等学校(旧制第一高等学校)
   の外囲、左は出来たばかりの会堂(教会堂は今もある)で、・・・坂の上に出た。地図で
   は知れないが、割合に幅の広い此坂はSの字をぞんざいに書いたように屈曲してついてい
   る」
   とある。旧制第一高等学校の生徒たちが、この小説「青年」を読み、好んでこの坂をS坂
   と呼んだ。したがってS坂の名は近く観測楼に住んだ森鴎外の命名である。
   根津神社現社殿の造営は宝永三年(1706)である。五代将軍徳川綱吉が、綱豊(六代
   将軍家宣)を世継ぎとした時、その産土神として、団子坂北の元根津から、遷座したもの
   である。
               文京区教育委員会 平成14年3月

 ※現在のものは「平成20年3月」に建て替えたもの。 


根津神社
 根津1丁目28番9号にある。
江戸の初め、現在の根津神社の一帯に甲府宰相徳川綱重の屋敷があ
り、この屋敷で綱豊(7代将軍家宣)が生まれると、今から千九百年余の昔、日本武尊が創建したと
伝わる千駄木の根津権現(社殿は太田道灌の造建)を産土神としたので、綱豊が将軍継嗣になった宝
永三年(1706)千駄木3丁目2番の旧地から屋敷跡地(現在地)に遷座した。社殿は綱吉が造営
したもので、一部戦災で焼失したが、戦後修復され、本殿、拝殿、唐門は国の重要文化財だ。社殿は
建築様式の中で最も複雑な形式が権現造りで、別名を八棟造りという。本殿と拝殿が石の間と呼ばれ
る繋ぎの建物により完全に連結された建築で、日光東照宮に代表されるところから東照大権現の名を
採りそう呼ばれる。八棟は、二つの建物を併せることにより八棟となることによる。江戸時代上野寛
永寺、芝増上寺、仙台の瑞鳳殿などが知られていたが、アメリカ軍の無差別空爆によってみんな燃や
されてしまった。だからこの神社に残されているということは大変に奇跡に近いことなのだ。
 祭神は素戔雄尊、誉田別命、大山咋命、大国主命、菅原道真。

 現在の本殿・幣殿・拝殿・唐門・西門・塀・楼門は、宝永三年(1706)移転当時のままの権現
造りの建造物で、いずれも国の重要文化財だ。本殿と拝殿の間に石の間または相の間と呼ぶ別棟を建
て、平面〝工〟の字型に連ねる様式で江戸時代初期に流行した。

 
社号塔
 入口にある。

   内務大臣正三位勲一等男爵平田東助謹書
   元准
   勅祭 
根津神社
   明治四十四年四月建之 前根津神社社司 宮西邦維
               根津神社社司 宮西惟助

 
銅柱燈籠一対
 入口赤鳥居前左右にある。平成8年の建立。

 
赤鳥居
 燈籠の後ろにある入口の鳥居。


 つつじ苑の記碑
 参道左の斜面にある。つつじの名庭だった綱重の屋敷に因み、昭和40年代よりつつじが献木され
整備されたという内容で、宮司の内海元の撰文。昭和54年に建てられた。

   つつじ苑の記
   当根津神社の社地は江戸時代もと甲府宰相徳川綱重の下屋敷であり当時よりつつじの名庭
   であった 没後五代将軍徳川綱吉は兄綱重の子綱豊を嗣子と定めた時その氏神たる当神社
   の御神恩に感謝しこの邸地に当時の名工をすぐって世に天下普請と称せられる壮大な造営
   を行い、今に残る華麗な社殿、神門などを奉建 宝永三年駒込の旧鎮座地より一品公辨親
   王司祭の下に遷座祭を斎行 神苑には更につつじを増植し 以来この地は「つつじが岡」
   と称せられ実に名勝であった 併し年処を経るに従い漸くその姿も衰え右の佛の亡び行く
   事を思い慨き十数年前より氏子一同献木の挙を興し昭和45年「文京つつじ会」を結んで花
   季には「つつじ祭」を催行 その充実と発展とに努め 今や樹数 数千 本 その種類 
   頗る多く 往時の「つつじが岡」に勝る盛観を見るに至った本年第十回つつじ祭開催に当
   り有志一同相謀り 記念に本碑を建立 その由来を後昆に伝える所以である
   昭和54年4月吉日                    根津神社宮司 内海元撰

  つつじ苑
 
境内地となる以前、徳川綱重が屋敷の庭に植えたことに始まり、7000坪の神苑は、世に「つつ
じヶ岡」と呼ばれる府内の名勝だった。今も花季(4月中旬から下旬ごろ)には約50種3000株
が咲き乱れる。この時期には文京つつじまつりが境内で開催され、様々な行事、甘酒茶屋、露店など
を楽しむ参拝者で賑わう。

 
文豪憩いの石
 夏目漱石、森鴎外らが腰掛けて想を練ったといわれている。これは「恐らく」という想像だから、
座ったかどうかは判らない。


 
森鴎外奉納の石
 日露戦争戦利砲弾を飾るための台座だったが、現在は水飲み場に改造してとして利用されている。
表に「我武維揚」裏側に、「陸軍医監 森林太郎(鴎外の本名) 陸軍少将愛三」の銘がある。

 「凝來」石
 左手の植込みにある。

 藍染川暗渠化・不忍通り市電開通記念碑
 と題打ってる訳ではないが、その旨を記した碑文が刻まれている碑石を石垣風の塔に組み込んだも
のだ。「大雨漲濁水氾濫藍染川・・・大正十年(1921)」と漢詩文と紀年が刻まれている。藍染
川の川筋に開けた街、根津は水捌けが悪く、大雨が降ると直ぐに川が氾濫し水に浸かった。このため
大正時代後半には川筋の暗渠化が進み、不忍通りを拡張延伸して市電が大塚方向に通じた。それを記
念したもの。藍染川の川筋は現在のくらやみ通り。この川筋は元は石神井川で、豊島氏の時代に自然
か人工的かは判らないが河道が付け変わった。不忍池、谷中、下谷、須田、お玉ヶ池、堀留はその名
残り。


   大雨漲濁水氾濫藍染川  速成同盟人希■神社■
   下流被害多路上浮■舩  式事等鯀禹焦思八関年
   水没■洗床衆■■安眠  同心請當固市尹賓四■
   電輪未開通根津方面阡  盟■空衍通電車大塚聯
   車行苦境路住民受惠鮮  會盟果任務連此塔永傳
   
大正十年歳■■■■噩季香中院 本郷北部刷新同盟會建之 

 6代将軍家宣の胞衣塚と胞衣塚碑
 区指定文化財 当時の慣習により、六代将軍家宣公の胎盤が納められている。
 碑は明治14年の建立。

   胞衣塚碑

   徳川将軍文昭公胞衣塚碑              正二位勲二等松平慶永篆額
   城之東北沿不忍池隆然高以長者爲躑躅岡其下爲千駄木村有神祠曰根津社往昔茲地爲德川將
   軍文昭公之邸第公以寛文二年壬寅夏四月廿五日生瘞其胞衣于此岡聚石作塚也傳曰胞衣塚以
   根津神社即爲公之土地神寳永二年命有司修治之堂宇宏壯偉麗至今弗隳而胞衣塚幽艸荒蕪人
   少知之者祝宮西邦維中川眞節有慨於此乃將欲建碑於塚上以紀公之德諸而傳不朽請文於重章
   重章謹按公諱家宣
幼名虎松甲府公綱重之子五代将軍常憲公養爲子及常憲公薨嗣爲將軍寛裕
   慈仁鋭意謀治親决前代滯獄
赦罪囚一歳於八千八百餘人德川氏創業以來恩典之大所未有也甞
   憫麾下士貧困其長子齢及十七歳者悉許蔭仕間有增齡中選者老臣白曰詐冒欺君其罪不輕公曰
   親之情以子年齢不滿而不與恩例遺憾可知矣笑而不問其居潜邸聘新井君美受學博渉經史尤好
   通鑒綱目循環聽講者三如大學衍義手自加朱批君美侍講公朝衣辣聽几千二百有九日如一日其
   好學盖如此是以政治清明制度文物之美雖唐宋明主蓋不之過也惜乎治世纔四年享齡五十有一
   薨不能盡如其志其善政美行史乘紀之今掲其一二而己矣嗚乎甘棠遺愛猶不忍加之剪伐況胞衣
   之所瘞寧忍荒蕪不鋤使狐狸虺蛇窟宅哉宜矣二子之有此擧也逐書其事於石繋之以辭曰有岡蜿
   蜑虯龍蟠躑躅被之碧苔四月清和公誕辰躑躅初開吐奇芬紅紫爛漫花繽紛天鐘嘉瑞生仁人紫河
   之車載公臻政治寛裕活斯民太宗縦囚奚足論仁宗知軾非比倫我公好文重儒臣四海煕々温於春
   紫河車花木根公魂來假値花晨勿剪勿敗加斤樹即甘棠花慶雲
   明治十四季辛巳十月                      
東京 蒲生重章撰
                                     服部和喜書


 区の説明板は以下の通り。

   徳川家宣胞衣塚
   六代将軍家宣の胞衣を埋めたところと伝えられ、十数箇の割り石が雑然と積み重ねてある.
   この根津神社の境内は、もと五代将軍綱吉の兄綱重(家光の第二子)の山手屋敷(別邸)
   で、綱重の長子家宣は寛文二年(1662)四月五日ここで生まれた。
   胞衣とは、胎児(母体の中の子)を包んだ膜と胎盤をいう。われわれの祖先が、胞衣を大
   切に扱ったことは、各地の民間伝承にある。例えば、熊野では大石の下に納めたと伝えら
   れる。関東では、家の床下や入口の敷居の下に埋めたといわれ、また屋敷の方角をみて埋
   めるという所もあった。
   一方上流の階層では、胞衣塚を築くことが早くから行われた。愛知県の岡崎には、徳川家
   康の胞衣塚がある。
   この胞衣は誕生の敷地内に納められた。徳川家の他のものとくらべ、形式が素朴であるな
   ど、将軍の胞衣塚ながら庶民の民俗の理解の上で貴重なものである。
   塚正面には、明治14年に建てられた『胞衣塚碑』がある。また、家宣の産湯の井戸と伝え
   られるものが、社務所の庭にある。
   家宣が綱吉将軍の跡継ぎとなり江戸城に入ると、屋敷跡に家宣の産土神(氏神)である根
   津神社を移し、華麗な社殿が綱吉によって建てられた。
                 ─郷土愛をはぐくむ文化財─
                文京区教育委員会 昭和58年3月


 神橋
 平成18年に境内整備事業の一環として架橋した。

 楼門
 3間1戸楼門 入母屋造り、桟瓦葺き。正面右側の随身は水戸光圀公がモデルと伝えられている。
鬼瓦が凄くいい。

 
卍の水盤
 手水舎の水盤。

   この水盤は三百年ほど前、真鶴産本小松石の一枚岩から切り出して造られたものです。
   澄んだ水が青く見えるほど深く掘られた水壺は石質ともに今では貴重な手水鉢です。


 
国宝建造物
 根津神社そのもの。

   根津神社                             国指定建造物
                                文京区根津1‐28‐9
   日本武尊が千駄木の地に創建したと伝わる。現在地は江戸時代、甲府宰相・松平綱重の山
   手屋敷跡であり、のちに六代将軍となる德川家宣の誕生の地であった。五代将軍・徳川綱
   吉は家宣の産土神として宝永三年(1706
)千駄木にあった社をこの地に移して、社領
   500石を附し、権現造りの社殿を造営した。
   社殿は拝殿・本殿と両社を接続する幣殿(相の間)からなり、しかも、一つの屋根でまと
   め、権現造りの完成された姿を見せている。拝殿前に唐門を配し、その左右から透垣で社
   殿を囲んでいる。唐門前方の楼門を含め、権現造り神社建築様式の旧観を示すものとして
   すべて国指定重要文化財である。
   祭神は須佐之男命・大山祇命・誉田別命・大国主命・菅原道真公である。
   境内には「家宣の胞衣塚」(区指定民俗文化財)、「塞ノ大神碑」などがある。
                 ‐郷土愛をはぐくむ文化財‐

                文京区教育委員会 平成10年3月

 
・献燈一対
 唐門前にある。
 ・唐門
 1間1戸平唐門。神社の正門。両妻に唐破風を備え、天井には今は剥損したが、藤原立信の墨絵の
龍が画かれてあった 

 
・燈籠一対
 社殿前にある。青銅灯篭(国指定重文)。藤堂和泉守高敏奉納。
 
・唐獅子一対
 社殿前にある。
 
本殿
 桁行3間×梁間3間 一重入母屋造り、銅瓦葺き。
 
幣殿
 桁行4間×梁間1間 一重両下造り、銅瓦葺き。
 ・拝殿
 桁行(正面7間・背面9間×梁間3間)、一重入母屋造り、正面千鳥破風付、向背3間、軒唐破風
付、銅瓦葺き。
 
・透
 
唐門東方折れ曲がり、延長34間、銅瓦葺き 潜門(ひそみもん)1ヶ所含む。唐門と西門の間折
れ曲がり延長21間、銅瓦葺き。西門の北折れ曲がり、延長53間、銅瓦葺き潜門1ヶ所含む社殿周
囲を囲む塀。名称の由来は格子部より向こう側が見えることによる。総延長200m
300年を経
てなお寸分の狂いを生じさせぬ昔の徹底した基礎工事の内容が近年の調査で判明した。
 
・井戸
 6代将軍家宣公の産湯井戸(非公開)。境内地となる以前は、徳川綱重公の下屋敷跡であった。
 
・西門
 銅瓦葺き棟門。


 乙女稲荷社
 御祭神は倉稲魂命。社殿両側には奉納された鳥居が立ち並ぶ。例大祭は5月3日。昭和31年に建
てた竣工記念碑がある。鳥居は昭和55年11月吉日、乙女稲荷神社講中並崇敬者一同による建立。

   乙女神社本宮並拝殿竣工記念碑  昭和三十一年八月二十一日
                   乙女稲荷講
                   乙女稲荷共■講
                   乙女稲荷白山東講
                   乙女稲荷二代講
                   乙女稲荷宮本講
                   乙女稲荷宮永講
                   乙女稲荷西須賀講
                   根津神社宮司 内海元


 庚申塔・力石
 境内の乙女稲荷神社と駒込稲荷神社の間にある。寛永九年(1632)の紀年があるものをはじめ
全部で6基ある。それが1ヶ所に集められ、背中合わせで建てられている。まるで、寺で見る三界萬
霊塔の塚のようだ。これまで目にした庚申塚は、庚申塔が並んで建てられ、庚申塚となっているのが
普通だが、このように、背中合わせに建てられ、1つの塔のようになっているのは初めてだ。

   庚申塔(六基 根津神社境内)
   ここに六基の庚申塔がある。道の辻などに建てられたものが、明治以後、道路拡幅などの
   ため、根津神社に納められたものである。
   正面から左回りに刻まれた像・銘文を見ると、
    ①青面金剛・猿・鶏・寛文八戊申(1668)駒込村 施主十五名
    ②観音像・庚申供養・施主十二名
    ③日月瑞雲・青面金剛・鬼・鶏・元禄五壬申(1692)施主二十六名
    ④日月・青面金剛・猿・延宝八庚申(1680)願主一名
    ⑤梵字・庚申供養・寛永九年壬申(1632)・都島□馬木村・施主七名
    ⑥日月・青面金剛・鬼・猿・駒込千駄木町施主十名・宝永六己丑(1709)
   この中で、⑤の庚申塔は、寛永九年(1632)の建立で、区内の現存のものでは最も古
   い。都内で最も古いのは、足立区花畑にある元和九年のもので、これより九年前の建立で
   ある。青面金剛は、病魔・悪鬼を払う庚申信仰の本尊として祭られる。猿は庚申の神の使
   いとされ、見ざる、言わざる、聞かざるの三猿は、そのような慎み深い生活をすれば、神
   の恵みを受けられるとされた。
   庚申信仰は、中国の道教から生まれ、六十日毎に巡る庚申(かのえさる 十干十二支の組
   み合わせ)の夜は、人が眠ると、三尸の虫がその人の体から抜けて天に昇り、天帝にその
   人の罪を告げて、命を縮めると説かれた。これが仏教と融合して我国に渡来し、古来の天
   つ神を祀るお籠りの習慣と結びついた。
   江戸時代に、特に盛んになった民間信仰で、庚申の夜は講の当番の家に集まり、般若心経
   を唱え、和やかな話し合いで一夜を過ごした。また祭神も猿田彦神、塞の大神=道祖神で
   あるとの説もある。
                 郷土をはぐくむ文化財   
                             
文京区教育委員会
                                 昭和56年9月

 力石
 庚申塚の周りに集められた丸い石は力石だ。左の力石には「五拾貫目余」、右の力石には「三十五
メ目」と彫られている。一貫3.75kgとすると、50貫は187kg、35貫は131.25kg
になる。しかし元々はどこにあったものかは不明だ。塚の傍らに説明板を設置していながら、力石の
由来や重さを記載していないのは、文京区教育委員会の怠慢だ。力石の由来が分かるうちに説明板を
設置すべきではなかろうか。力石が無視されているのは大変に珍しい。

 塞大神碑
 元々は本郷追分(東大農学部前の中山道・日光御成街道分岐路)に祀られていた道祖神だ。この追
分は、日本橋から一里で、江戸時代に一里塚のあったところである。文政七年(1824)の火災で
欠損し、その跡地に明治6年この賽の大神碑が建てられた。その後、同43年に道路拡張のため、根
津神社に移されたという経緯がある。

   塞の大神碑   根津神社 根津1‐28‐9
   この塞の大神碑は、もと通称駒込の追分(向丘1‐1)にあった。ここは現在の東京大学
   農学部前で、旧中山道と旧岩槻街道(旧日光将軍御成道)との分岐点で追分といわれた。
   この追分は、日本橋から一里(約四粁)で、江戸時代一里塚のあった所である。今も角店
   は江戸時代から続く老舗の高崎屋である。この高崎屋寄りに一里塚があり、榎が植えられ
   ていたが、明和三年(1866)に焼け、この跡に庚申塔が置かれたが、これも文政七年
   (1824)の火災で欠損した。
   その跡地に、この塞の大神碑が、明治6年に建てられた。同43年道路の拡幅のため、碑
   は、根津神社に移され、現在に至っている。礎石に移転の事情が刻まれている。
   塞の神は邪霊の侵入を防ぐ神であり、道行く人を災難から守る神で、道の神とも道祖神と
   もいわれる。

                 郷土をはぐくむ文化財   
                             
文京区教育委員会
                                 
昭和56年3月

 
句碑

 よく判らないが、献句集碑なのか? 題字は「雅頌」とある。

 
石燈籠一対・鳥居・狐像2対
 駒込稲荷の前にある。

 
駒込稲荷神社
 御祭神は、伊弉諾命・伊弉冊命・倉稲魂命・級長津彦命・級長戸辺命。元は綱重公の邸内社。手水
舎の屋根に、三葉葵の紋が残っている。例大祭は5月3日。


 
記念樹の碑

 イチョウの木の根元に建ててある。
  [表] 紀念樹 通義書
  [裏] 大正十二年大震紀念 昭和四年九月一日建之 千駄木町下軍人會 同町石林刻

 裏鳥居
 北側、根津裏門坂に面してある。

   
駒籠肴町 龜泉 酒井八右衛門建

   奉獻 明治十九年丙戌秋八月 中根半領書 平成十八年
                       一月■■



■根津裏門坂

 根津1丁目28番9号根津神社の裏門のある北側にある坂道。根津谷から本郷通りに上る。坂途中
の根津神社裏門の鳥居前に、文京区が設置した説明板がある。


   根津裏門坂 ねづうらもんざか
   根津神社の裏門前を、根津の谷から本郷通りに上る坂道である。
   根津神社(根津権現)の現在の社殿は,宝永三年(1706)5代将軍綱吉によって、世
   継ぎの綱豊(6代家宣)の産土神として創建された。形式は権現造、規模も大きく華麗で、
   国の重要文化財である。
   坂上の日本医科大学の西横を曲がった同大学同窓会館の地に、夏目漱石の住んだ家(〝猫
   の家〟)があった。『吾輩は猫である』を書き、一躍文壇にでた記念すべき所である。
          (家は現在「明治村」に移築)
             文京区教育委員会   昭和57年2月

 ※現在の説明板は、平成20年3月に建て替えたもの。 


■つつじまつり
 文京5大花まつりの一つ。明治中期、「躑躅ヶ岡」と呼ばれ、東京名所の一つだった。一時荒廃し
たが、昭和45年前後から整備を始め、現在では3000株以上のツツジが植え込まれ、つつじヶ丘
は復活した。境内にある約2000坪のつつじ苑には、約50種のツツジが咲き競い、甘酒茶屋、植
木市、露天が並び、土・日・祭日には野点、箏曲、和太鼓、奉納演芸など、各種行事が執り行われる。
見頃は4月下旬前後(その年の気候により、かなり異なるが)、種類が多く、開花時期が違うため、
早咲きから遅咲きへと移り変わり、長い期間様々なツツジを楽しむことができる。中には豆つぶほど
の小さい花のフジツツジ、風車のような花弁のハナグルマ、黒ツツジと呼ばれるカラフネ等珍しいも
のも見ることができる。なおサツキはツツジを改良したもので同種。
   

   つゝじ野やあらぬ所に麦畑(与謝野蕪村)
   花びらのうすしと思ふ白つつじ(高野素十)
   山つつじ照る只中に田を墾(ひら)く(飯田龍太)
   つつじ山蝶あらわれて去りにけり(高柳重信)
   山躑躅そこを明るく道ありぬ(稲畑汀子)
 


■B級着物の店 Ponia‐Pon

 
根津2丁目8番2号にあるアンティークといっても大正時代の柄の着物を売る店。平成15年から
営業中。店主は大野らふで、「大正ロマン着物女子服装帖」の著作がある。またネットでも販売して
るし、講座やイベントをやってるから、女の子は要チェックだよ!

   20世紀末、ブームのように登場した「アンティーク着物」も、今では多くの人に知られ
   るようになりました。アンティーク着物に興味をもつ女性も増えています。若い女性の着
   物姿もよく見かけます。
   実を言うと、そんな着物姿を新鮮に感じるのは、私たち日本人が無意識にもっている「着
   物とはこういうもの」という固定観念が影響しています。約束事が多く、保守的な印象に
   なりがちな現代の着物のイメージがあるからこそ、アンティーク着物の色鮮やかさにひか
   れているわけです。そのせいか、アンティーク着物を好きな女性は現代の着物を好まず、
   現代の着物が好きな女性は自由に着ることはとても大事だと思うし、決まりごとに縛られ
   るのもつまらない。だからこそ、アンティーク着物が再登場したのは、ただ、着物の持つ
   決まりごとは不要なものも多いけれど、様式として確立されている一面もあります。自由
   に着ることはとても大事だと思うし、決まりごとに縛られるのもつまらない。でも、自由
   に着るために決まりごとを無視する、もしくは決まりごとに目を向けないとすれば、もっ
   たいないな、と思います。季節感、色の世界、小物使い・・・着物の決まりごとを知った
   うえで手に入れることができる広がりもあります。季語を用いて短歌をつくるように、決
   まりごとを使って遊んでみる、というのもひとつの楽しさです。
   着るのに時間がかかる、脱げばいろいろな小物が散らかる・・・たしたちが着物を好きな
   のはその非効率性にもあるはずです。一過性の流行として着物を取り入れるだけではなく、
   長く着物を楽しんでほしいと思うから、着物の様式美に目を向けながらも、自由に遊ぶ、
   そんな着物生活を提案していきたいと思っています。
                                       店主敬白
 


■はん亭

 
根津2丁目12番15号にある串揚げ屋。正面2階奥3階の木造建築。不忍通りの拡張のため通り
に面した2階の建物が半面撤去となり、無様な格好となったため、前面を鉄の格子矢来で覆うことと
なった。文化庁の登録文化財だが、道路屋はお構い無しだ。でもさ、3階部分は残っているから安心
しな。


■根津二丁目第二児童遊園

 根津2丁目13番1号にある区立公園。昭和49年12月2日開園。


■釜竹
(かまちく)
 根津2丁目14番18号にある、明治43年築の石蔵を利用した釜揚げうどん出店した。本店は大
阪羽曳野市にある。メニューは釜揚げうどんとざるうどんの2種のみ。


■不忍通りふれあい館

 根津2丁目20番7号にある。平成9年根津・千駄木地域のコミュニティ活動と文京区内の伝統工
芸の拠点として建設された区立の施設。区内在住の伝統工芸会会員の作品を展示している。
 開館時間 9:00~21:30 入館無料。休館第3火曜日。


■根津二丁目児童遊園

 根津2丁目22番1号にある区立公園。昭和48年2月15日開園。


■三宿稲荷神社

 根津2丁目23番10号にある小祠


■根津遊郭 
焼失

 根津権現社創建以来、明治21年まで182年間、主に岡場所としての歴史があったが、本郷加賀
藩邸跡の帝国大学(東京大学)設置に伴い深川区洲崎に移転した。当時の風情、実態に関しては昭和
32年まで続いた他の遊郭ですら「売春禁止法」の実施により廃止、もう50年も経ち知る人も限ら
れるようになった。根津にはもうお女郎町のかけらもない。

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