文京区 千石について

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【千石】(せんごく)1きごう4丁目              昭和42年1月1日
 同11年「郡区町村編制法」により小石川区に所属。同44年「市制町村制改正」によりそれぞ
れ小石川の冠称外した。昭和22年文京区に所属、同42年新住居表示により林町・西丸町・丸山
町・大原町・宮下町・西原町1~2丁目の各全部に、原町・駕籠町・白山御殿町・氷川下町をあわ
せた町域を現行の「千石」とした。
 参考資料:「東京都住居表示に関する資料」『文京区史』『文京の歴史』など。

 千石の由来
 千川の「千」と小石川の「石」から合成して作り出した。だから千個の石の物語も千石の森も田
圃もない。江東区にも違う成り立ちの千石がある。千川は「千川上水」によるが、玉川上水の分水
だった。千川上水は保谷市新町4丁目で取水して武蔵野市との境を東流、練馬区内を通って豊島区
巣鴨3丁目庚申塚の溜池(現在公園)に流れ込んで終った人工の川。無論現在では暗渠となって下
水のお手伝いだ。幕府の依頼で川村瑞賢がデザインし、調布仙川村の徳兵衛と太兵衛が請け負って、
元禄九年(1696)に完成した。初め二人の出身地の名から〝仙川上水〟と命名したが、徳兵衛
と太兵衛が〝仙〟の字を〝千〟に改めた苗字を賜わったことで、上水の名も「千川上水」に変った。
小石川・本郷・浅草・上野方面に給水したが、湯島聖堂・寛永寺・浅草御成殿・白山御殿など将軍
が御成りになるところへの配水が主たる目的だったのは当然だ。しかし江戸の北部の人々も潤った
ことは間違いない。


■「せんがわ」と「せんかわ」

 仙川を「せんがわ」と濁って読むのは、仙川の水源地、三鷹の勝淵神社の丸池には、かつて無数の
湧水口があり、湧水口はその形から一般に「かま」とも呼ばれ、丸池は「千釜(せんがま)」と呼ば
れ、この辺りに庵を結んだ僧侶でもいたものか、仙人が住むという噂話があって、千釜が「仙川」と
書かれるようになり、「せんがわ」と読むようになったという。しかし三鷹市内の千川の案内表示板
には「SENKAWA」と誤記表記して平気の平左だ。世田谷区ではちゃんと「SENGAWA」と
している。
 千川は「仙川」と「仙川上水」では紛らわしいので、幕府が「仙川上水」を「千川上水」と改めて、
読みも「せんかわ」と濁らないことにした。豊島区要町で千川上水から分水し、粟島神社の弁天池に
養い水した上水を「千川分水」といい、谷端川を流れたが、ために谷端川→小石川→大下水を「千川」
と俗称するようになった。白山植物園の西の大通りを「千川通り」というのはそのためだ。
 


■千石公園
 千石1丁目4番4号にある区立公園。昭和42年9月16日開園。


■林町児童遊園
 千石1丁目6番24号にある区立公園。昭和54年4月1日開園。


■千石緑地
 千石1丁目6番24号にある樹林公園。寄贈により平成6年6月1日区立公園として開園した。
 この場所は元々旧一橋徳川家の屋敷地で、現在、その一部は徳川マンションとなっている。緑地と
なっているところは、全体の極一部だか、旧一橋徳川家より寄付された樹林地で、樹齢100年を超
えると推定される区内でも有数の椋(むく)の巨木がある。
 武蔵野台地の先端に当たる白山台地と、指ヶ谷の低地の境界にある緑地。可能な限り樹林域を残す
ことを条件に寄付されたので、区では樹林を保全すると共に、区民が自然に親しめるように一部を開
放。植物が傷つけられたり林床が踏み固められたりすることを防ぐため、園内には木製園路が設置さ
れている。 


■明化小学校
(明治9月27日開校記念日)
 千石1丁目13番9号にある区立校。明治5年学制が発布され、各地に公立学校が設立された。そ
れに呼応してこの地域の人々も学校の設置許可を求め、文部省の認可を得、同7年8月「私立明化学
校」として開校、児童20名からの出発だった。
学校の位置は小石川原町37番地と記録にあり、浄
土寺に間借りしたものと思われている
校名は当時作られた「文」という言葉から府庁学務
課が選定した。9月区内で3番目の公立校となり「第一大学区第四中学第七番小学明化学校」と改称。
同8年小石川区大塚窪町12番地(小石川5丁目5番)に新校舎を建て移転。児童24名。同12年
学区番号がなくなり、「東京府小石川公立明化小学校」と改称。同15年小石川区巣鴨駕籠町19番
地(本駒込6丁目4番)の前田邸から500坪を借り校舎新築移転。児童74名。同18年小石川区
巣鴨仲町9番地(千石4丁目44番)に駕籠町校舎を移転。児童数164名。同19年高等科を併置
し「東京市小石川区明化尋常高等小学校」と改称。同20年オルガンを使って唱歌授業。同36年小
石川区林町102番地(現在地)に徳川家より1300坪を借り校舎新築移転。児童753名。同4
0年特殊学校(夜学校)併置。同41年「東京府東京市明化尋常小学校」と改称。同42年小石川実
業補習学校併置。同43年林町尋常小学校を分校、児童487名を移籍。同45年御殿町小学校を分
校、児童315名を移籍。大正4年指ヶ谷尋常小学校を分校。児童228名移籍。大正6年児童数1
450名に達し二部授業。同7年10教室増築。二部授業解消。児童数1816名に達し、同11年
駕籠町尋常小学校を分校、児童637名移籍。同13年校地拡張。昭和5年大正7年に建てた校舎を
残し、他を建て替え、鉄筋コンクリート造り校舎竣
工。校歌制定。

 校歌「緑しげれ」 作詞・武島又次郎(羽衣)  作曲・田村虎蔵
  1.緑しげれる樹々の丘
    歴史 久しき我が校の 
    雄姿を日ごと仰ぐにも 
    学ぶ我等の誇らるる 
  2.いざいざ共に励みつつ
     絶えぬ努力に進みなん
    類少なき日の本の 
    明るき文化 築くべく


 同6年母の会設立。同16年国民学校令により「東京府東京市明化国民学校」と改称。東京府女子
師範学校附属第二国民学校と決められる。同18年都制施行により「東京都明化国民学校」と改称。
同19年宮城県玉造郡鳴子町に3年生以上の学童集団疎開。同20年5月愚かなアメリカ軍の非人道
的無差別空爆により大正7年に建てた校舎壊滅。8月日本は、ならず者国家アメリカの軍門に降り敗
戦、以降唯々諾々といいなりとなる属国となり、今日的不幸がある。10月疎開解除ににより学童集
団帰校。同21年駕籠町国民学校廃校となり学童を吸収。林町小学校に1部教室を間貸ししたため二
部授業。同22年2月給食開始。4月アメリカの強制による学制改革により「東京都文京区明化小学
校」と改称。6月アメリカの強制により母の会解散しPTA設立。同23年二部授業解消。同26年
給食調理室完成。同28年木造4教室増築。同29年開校80周年記念式典・校内放送設備完備。同
30年木造6教室増築。同31年木造2教室増築。同33年駕籠町小学校を再分校し、児童368名
移籍。同34年創立85年記念式典。図書室改築。同39年創立90周年記念式典。同43年図書館
新築。同46年鉄筋コンクリート造り4階建て校舎8教室増築。同47年体育館・プール改築。プー
ルは温水化。校庭舗装。同49年創立100周年記念式典。正門脇に百周年記念碑建立。同58年学
校の位置表示碑設置。 同59年バカ ブッシュ大統領夫人来校。
 平成元年創立115周年記念式典。同2年校庭全面改修。体育館電気収納設備設置。同11年創立
125周年記念式典。同13年給食室全面改修。同15年プール改修。同16年創立130周年・エ
アコン完備。

 
静心の鐘

 教育目標を全校朝会の場で唱和する時打ち鳴らす。教育目標は「明化の子どもは、やりとおす。①
やりとおす心と体。②人のために進んで出せる言葉と力。③気づき、考え、創り出す力」

 
「養 高 志」の額

 校庭に一本の欅の木があった。昭和5年ごろには緑陰を作ったが、同38年枯死した。地域の人々、
卒業生、父母、学校関係者はそれを惜しみ、時の文部大臣灘尾弘吉に揮毫を依頼し、欅の心を明化の
ために残したもの。


天暁山一行院
満徳寺
 千石1丁目14番11号にある浄土宗の寺。千石にはこの寺1つしかない。寛永三年(1626)
創立。当初の寺歴は全く判らない。現在地に庵程度のものはあったらしい。またこの地は徳川家に縁
の土地だったようだ。寺観が整備されたのは文化十一年(1814)徳本上人によってだ。11代将
軍家斉の実母の病気を念仏で治療したことで、家斉の厚い帰依を得た伝通院の徳本行者が請われて中
興開山となったと、都の説明板にある。山門入ると整備された境内。鉄筋コンクリート造りの本堂と
庫裏の間を裏に抜けると墓地。
 境内にはシダレザクラ数本のほか、モクレン、レンギョウ(連翹)などの花木があって、ムードの
ある情景が展開するず、何といってもシダレザクラ、それほどの大木ではないが、優雅に花姿は魅力
的だ。

 徳本上人の墓
 墓地にある都の旧跡。
江戸時代後期の浄土宗の僧。俗姓は田伏。号は名蓮社号誉。紀伊国(和歌山
県)日高郡の出身。徳本上人、徳本行者とも呼ばれた。27歳の時に出家し、木食行を行った。各地
を巡り昼夜不断の念仏や苦行を行い、念仏聖として知られていた。大戒を受戒しようと善導に願い梵
網戒経を得、修道の徳により独学で念仏の奥義を悟ったといわれている。文化十一年(1814)江
戸増上寺典海の要請により江戸小石川伝通院の一行院に住した。一行院では庶民に十念を授けるなど
教化につとめたが、特に大奥女中で帰依する者が多かったという。江戸近郊の農村を中心に念仏講を
組織し、その範囲は関東・北陸・近畿まで及んだ。「流行神」と称されるほどに熱狂的に支持され、
諸大名からも崇敬を受けた。徳本の念仏は、木魚と鉦を激しく叩くという独特な念仏で徳本念仏と呼
ばれた。
文政十年(1827)十月61歳の時没した。

   東京都指定旧跡
   
徳本行者の墓            所在地 文京区千石1‐14‐11 一行院
                       指定日 昭  和  一  七  年  九  月
   俗姓を田伏氏といい、畠山政長の末裔と称している。紀州日高郡の人で、宝暦八年(17
   58)六月二十二日に生まれた。たまたま四才の時隣家の子供の死にあい、無常観を持ち
   念仏を称えたという。九才の時に出家を志したが父母の許すところでなく二六才にしては
   じめて母の許しを得て、往生寺の大円和尚に就いて剃髪した。のちもっぱら念仏ををとな
   え、師の教えによらずして浄土の宗要を取得したという。
   彼は諸国を回遊しては念仏をひろめ多くの信者を得たが、やがて紀伊侯の招きに応じて紀
   州有田山に住した。
   文化十一年(1814)増正寺典海大僧正の懇請により東国に行化し、伊豆、相模、関東
   一円に念仏を弘めた。時に十一代将軍家斉の篤い帰依で江戸住民を教化するとともに一行
   院に住し、文政元年(1818)十月六日、六十一歳で歿した。
   平成4年3月31日 建設                    東京都教育委員会 
 


■千石一丁目児童遊園
 千石1丁目24番6号にある区立公園。昭和51年3月31日開園。


■千石駅

 千石1丁目29番にある都営地下鉄三田線の停車場。昭和47年6月30日三田線(当時は都営6
号線)の日比谷~巣鴨間延伸時に設けられた。ホームは島式1面2線構造で地下2階にある。ホーム
と改札階を結ぶエレベーターは設置済み。改札口は2ヶ所で、いずれも地下1階にある。出口はA1
~A5の5ヶ所


■氷川下セツルメント草創の地

 千石2丁目1番6号にある老人保健施設「ひかわした」の前の植え込みの中に石碑がある。〝セツ
ルメント(settlement)は、スラム街などにボランティアが居住し、生活改善を図る活動
で、通常は、保育・学習・授産・医療・法律相談などが行われ、宗教家や学生などによって行われる
ことが多かった。日本では、明治時代に外国人宣教師によって始められたが、片山潜が明治30年に
〝キングズレー・ホール〟を中心に活動したのが最初とされる。その後、社会主義運動とともに広ま
り、関東大震災の後、東京本所に東京大学の学生セツルメントが生まれ、学生による活動の先駆けと
なった。戦後になると、公共団体が貧困・教育・差別・環境問題などの対策を講ずる施設として〝隣
保館〟を設置する動きにも繋がった。しかしセツルメント活動は、昭和25~40年代がピークで、
高度経済成長時代を過ぎると活動する拠点が減り活動の内容が変化してきた。
 「氷川下セツルメント」は学生セツルメントの一つで、零細な印刷関連業者が集まっていたここ氷
川下地区にセツルメント・ハウスを設立し、診療所も併設して活動した組織。診療組織は、平成12
年に「氷川下セツルメント診療所」として大塚に移転し、その跡地には東京保健生協が老人保健施設
「ひかわした」を開設した。

   
氷川下セツルメント草創の地
   1953年この地にセツルメント・ハウスが設立された。戦災で疲弊した地域で健康・生
   活・文化の向上を求める活動は、当施設開設の礎となった。
         1952年発足以来五十年を記念して 2002年春 元セツラー一同建之
 


■氷川神社 → 簸川神社

 千石2丁目10番10号にある。
祭神は、素盞鳴命(すさのおのみこと)、大己貴命(おおなむち
のみこと)、櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)。第五代孝昭天皇御宇三年(473)創建と伝
えられる古社で、八幡太郎義家公が奥州下向の折、参籠した由緒ある神社。氷川神社の社号を永年使
用してきたが、大正時代に学者らに研究を依頼し、簸川の字が適号との結論を得て、現号に改められ
た。

 千川改修記念碑
 急階段の下に立派な石碑が建っている。昭和9年の暗渠化が終了した時に建てられた。千川は上水
道として小石川を利用したが、上水道の役目を終えると、農業用水となった。しかし都市化の波が押
し寄せると、水害事故も多くなり、府は暗渠としたのだ。


■氷川坂

 千石2丁目10番と13番の間の坂道。簸川(氷川)神社の裏手にあるのでその名がある。

   簸川神社・氷川坂(簸川坂)
   簸川神社
   簸川神社社伝によれば、当神社の創建は古く、第五代孝昭天皇のころと伝えられ、祭神は
   素盞鳴命(すさのおのみこと)である。源義家(1039~1106)が奥州平定の祈願
   をした社といわれ、小石川、巣鴨の総社として江戸名所の1つであった。もとは現在の小
   石川植物園の地にあったが白山御殿造営のため、元禄12年(1699)この地に移され
   た。社殿は、先の空襲にあい全焼失したが、昭和33年(1958)に再建された。境内
   の幟建一対は江戸時代、 全仁寺門前町氏子中により奉納された貴重な石造物である。
   なお、1基は平成12年久堅町民会の尽力で修復されたものである。
   氷川坂(簸川坂)
   氷川神社に接した坂ということでこの名が付けられた。氷川神社の現在の呼称は簸川神社
   である坂下一帯は、明治末頃まで「氷川田圃」といわれ、千川(小石川)が流れていた。
   洪水が多く、昭和9年暗渠が完成し、千川通りとなった。神社石段下には千川改修記念碑
   がある。
               文京区教育委員会 平成13年3月
 


■明治天皇行幸記念碑
 千石2丁目15番の常陽銀行千石住宅の南角地にある。詳細不明。


■東京諸聖徒教会

 千石2丁目18番4号にある。

   東京諸聖徒教会は、当初「九段講義所」と称し、その後神田に移り「神田諸聖徒教会」と
   なりました。関東大震災で教会堂倒壊したため、現在の文京区千石に移り、「東京諸聖徒
   教会」となりました。
   当教会では、教会の働きの一つとして諸聖徒幼稚園を併設しています。
  


■日本福音ルーテル小石川教会

 千石2丁目30番13号にある。
 


■林町小学校

 千石2丁目36番3号にある区立校。「はやしちょう」と読む。明治43年東京市は、海外へ移住
していく子弟のために置かれていた私立「東洋殖民学校」の校舎校地(現在地)を購入、市直営校と
して、校名は当時の町名を冠し「東京市立林町尋常小学校」の名で開校した。12月「東京市立林町
夜学校」併設。校歌(旧)制定。大正2年校舎増築。同7年卒業生を対象に「女子補習科(修身・国
語・家事・裁縫)」を附設。同11年東京初の鉄筋コンクリート造り校舎・屋内体操場(体育館)落
成。同15年小石川区に移管。
 昭和6年女子補習科廃止。同16年国民学校令により「東京市林町国民学校」と改称。12月日米
開戦。同18年都制施行により「東京都林町国民学校」と改称。同19年学童疎開令により宮城県鳴
子温泉(源蔵湯・湯泉楼・東河原湯)に集団疎開。同20年日本は、ならず者国家アメリカの軍門に
降り敗戦、以後属国とされ、唯々諾々とアメリカのいいなりになる保守傀儡政権を保持せざるをえな
い今日的不幸を背負い込む。既に国債という名目で100兆円以上を持っていかれた。この先も続く
ぞ。
 同年10月疎開解除により学童帰校。一部児童東洋女学校と共に駕籠町国民学校に同居。11月小
石川工業学校に校舎を貸与し、全児童が明化国民学校に移る。同22年アメリカの強制による学制改
革により「東京都文京区立林町小学校」と改称。校内にて区立第七中学校開校。同23年区立七中を
関口台町小学校に移し、区立十中が開校。アメリカの強制により後援会を解散し、「父母と先生の会」
と変更。同24年小石川工業高等学校(同23年に改称)が牛込の新校舎に転出し全生徒帰校。同2
5年創立40周年記念式典・新校歌制定。

 校歌「
若葉の木陰」 作詞・村野四郎  作曲・平井康三郎
  1.若葉の木蔭 雪の庭
    歌声高く 若い日の
    憧れ乗せて空に響く
    いつも楽しい心の花園
    ああ私たちの林町小学校
  2.照る日の恵み先生の
    教えも優し朝夕に
    学びの道に友と掬(むす)ぶ
    いつも尽きない心の泉よ
    ああ私たちの林町小学校


 同26年第十中学校が旧駕籠町小学校跡に転出。同30年南側隣接地拡張。体育館を移設改修。同
35年「父母と先生の会」を「PTA」と改称。東側隣接地校地拡張。同36年創立50周年記念式
典・児童用制帽制定。同37年北西角地拡張。同38年正面L字型校舎竣工。同41年創立55周年
・体育館新築。北西側に音楽室など特別教室増築。同46年大正11年築の鉄筋コンクリート造り3
階建て校舎解体。同47年鉄筋コンクリート造り4階建て東校舎落成。同48年プール移設。同49
年校庭全天候型舗装。同55年「林町子どもの歌」作成。同58年特別教室増築・プール新築。校門
・周辺通路改修・窓枠取り替え。同61年屋上改修工事完了。同62年中央校舎窓枠改修及び外壁塗
装工事完了。平成2年体育館改築。11月開校80周年記念式典。同7年コンピュータ教室設置。同
8年校庭砂入り人工芝舗装。同10年給食室(ドライシステム化)・放送室改修。同12年地方自治
法改正により東京都の冠称を外し「文京区立林町小学校」と改称。開校90周年記念式典。


 
たいさん木

 学校のシンボル。高木で、厚手の光沢のある葉をつける。初夏にハクモクレン(白木蓮)に似た大
きな白い花をつける。
上野で開かれた大正博覧会々場からヒマラヤ杉とともに譲り受けたものだ。

 たいさん木の広場
 子供たちの父母、地域の人々の手作りの会。土曜日の開いた教室などで、得意技を持ってる人が、
1日先生になって、子供たちと一緒にいろんな体験をして、楽しく遊んだり勉強できたらなぁという
発想の下に始まった土曜教室。NPO法人響きの森net・大原地域活動センター・子ども劇場文京
・林町小PTAの有志・文京区立中学校生徒たちのボランティアで運営している。
 


■第十中学校

 千石2丁目40番17号にある区立校。アメリカの強制による学制改革で6・3制新制中学の発足
と同時に開校した第一~第九中学校に1年遅れ、10番目の中学校として昭和23年林町小学校内に
開校した。発足間もない新制中学校は、元々予定したものではなかったから、日本国中校地不足で、
学校設立も侭ならず、明化・林町両小学校の卒業生は当初、私立京華学園内区委託指名校京華第二中
学に入学していた。しかし京華学園は校風維持もあって、23年度の新入生を受け入れないことにし
たため、10番目の中学校の設立が急がれた。その頃林町小学校には、都立小石川工業高等学校がお
り、そこに第七中学校が併設されていたので、先ず七中を関口台町小学校に移し、その跡に「東京都
文京区立第十中学校」は開校した。同24年3月校章制定。小石川工高が牛込の新校舎に移転、4月
明化小学校に同居中の林町小学校の児童が帰校同居。6月校歌制定。

 校歌「
見遥かすもの」 作詞・熊沢恒雄  作曲・正木正男 編曲・河西保郎
  1.見遥かすもの清らなる
    ここ文京の丘の杜
(もり)
    自主協調の風薫る
    ああ楽しき集い 我が十中
  2.自由の鐘の高らかに
    文の林を踏み分けて
    世代の務め果たさんと
    ああ理想に燃える 我が母校
  3.朝な夕なを師と共に
    知性の瞳輝かし
    永遠の平和 希
(こいねが)
    ああ雄々しき使命 我が十中

 1番の冒頭の「見遥かす」は「見晴るかす」のことだと思うよ。第一「見遥かす」なんて言葉はね
えだろう?
     
 同25年生徒が急増したため、明化小学校内に分校を作り、2年生2学級分を受け入れて貰い、そ
のため明化・林町小の低学年に二部授業を余儀なくした。同26年6月校旗制定。8月旧駕籠町小学
校跡地に建てた新校舎を移転。~同29年増築に次ぐ増築。同29年校訓「自主協調」制定。生徒の
自主性を尊重する教育が推進され、十中の特色ある伝統として現在に引き継がれている。
 駕籠町小学校復興のため、双葉教科書会社所有地(現在地)を買収して新校舎建設。同36年現校
舎完成。狭い土地を有効利用するため、特別教室棟の2ヶ所をピロッティ式に東側へ突き出し、1階
が運動場として利用できるようにし。螺旋階段を設けるなど設計の苦心が見られる。生徒数1350
人ピーク。同37年体育完成。同40年生徒会旗・生徒会歌制定。その後も増築、校地拡張と整備が
進み、昭和43年給食室ができてにほぼ完成を見る。同49年創立25周年記念式典。同55年校庭
舗装(サーファム)完成。同58年体育館改修。
 平成10年体育館改修。同11年創立50周年記念式典。

 
クラブ活動
 昭和58~60年女子バレーボール全国大会3連覇。回数ではライバル文京学院の5回に
負けている。
 


■猫又坂

 千石2丁目と千石3丁目の間の不忍通りを千石3丁目千川通りとの交差点まで下る長い坂道。坂の
説明板には、

   猫又坂(猫貍坂 猫股坂)
   不忍通りが千川谷に下る(氷川下交差点)長く広い坂である。現在の通りは大正11年頃
   開通したが、昔の坂は、東側の崖のふちを通り、千川にかかる猫又橋につながっていた。
   このいまはない猫又橋にちなむ坂名である。また『続江戸砂子』には次のような話がのっ
   ている。むかし、この辺に狸がいて、夜な夜な赤手拭をかぶって踊るという話があった。
   ある時、若い僧が食事に招かれての帰り、夕暮れどき、すすきの茂る中を、白い獣が追っ
   てくるので、すわっ、狸かと、あわてて逃げて千川にはまった。そこから狸橋、猫貍橋、
   猫又橋と呼ばれるようになった。  猫貍とは妖怪の一種である。
               文京区教育委員会 平成11年3月


 と書かれている。 かつての猫又橋の親柱の袖石が記念として置かれており、これについては

   猫股橋親柱
   この坂下に もと千川(小石川とも)が流れていた。 むかし木の根っ子の股で橋をかけた
   ので根子股橋と呼ばれた。 江戸の古い橋で、伝説的に有名であった。 このあたりに狸が
   いて、夜な夜な赤手ぬぐいをかぶって踊るという話があった。ある夕暮れ時、
大塚辺の道
   心者(少年僧)がこの橋の近くに来ると、草の茂みの中を白い獣が追ってくるので、すわ
   狸かとあわてて逃げて千川にはまった。 それからこの橋は、 猫貍橋(猫又橋)といわれ
   るようになった。 猫貍は妖怪の一種である。

   昭和のはじめまでは、この川でどじょうを取り、ホタルを追って稲田(千川田圃)に落ち
   たなど、古老がのどかな田園風景を語っている。大正7年3月この橋は、立派な石を用い
   たコンクリート造となった。ところが千川はたびたび増水して大きな水害をおこした。そ
   れで昭和9年に千川は暗渠になり、道路の下を通るようになった。石造の猫又橋は撤去さ
   れたが、地元の故市川虎之助氏(改修工事相談役)はその親柱と袖石を東京市と交渉して
   自宅に移した。ここにあるのは、袖石の内2基で、千川名残りの猫又橋を伝える記念すべ
   きものである。なお袖石に刻まれた歌は故市川虎之助氏の作で、同氏が刻んだものである。

    騒がしき蛙は土に埋もれぬ 人にしあれば 如何に恨まん

                文京区教育委員会 昭和58年1月


 との説明がある。
 


■氷川下児童遊園

 千石3丁目5番22号にある区立公園。昭和39年4月1日開園。


■砂利場坂

 千石3丁目9番と10番の間の坂道。昔、護国寺建立の際の砂利取り場だったことからその名があ
る。


■東洋女子学園・東洋女子高等学校

 千石3丁目29番8号にある私立校。明治38年仏教学者で文学博士でもあった村上専精が創立し
た。当時の校名は「東洋女学校」。西洋の文化を受け入れることが流行りごとのようにもてはやされ
ていた時代に、専精には「まず何よりも東洋文化を代表する女性としての教養を身に付けてほしい」
との思いがあり、その信念は5つの言葉「天職・中庸・質素・謙譲・節操」となった。

 天職‐女子は天職の男子に異なるものあるを知りて其の実行を怠る勿れ
 中庸‐女子の通弊は極端に走るにあることを知りて百事其の中庸を逸する勿れ
 質素‐衣服髪飾等すべて質素を旨となし虚飾奢侈の流行に走ること勿れ
 謙譲‐男女同権の意味を誤解して傲慢の式に陥り謙譲の美徳を失すること勿れ
 節操‐女子の生命は一に節操にあることを自覚して須臾(しゅゆ)も之を忘れること勿れ


 創立当時の校舎は木造2階建て4教室。別に音楽室、料理室、裁縫室、教員室があった。大正15
制服が和服から洋服に変更。タックの入った長袖ブラウス。上着はかぎホックで止める形。帽子は
フェルト地。洗練されたデザインが評判を集めた。
 
沿革、校歌等、公表していないので詳細不明

 
創立者 村上専精
 
江戸時代の末期、丹波国氷上郡(現在の兵庫県氷上郡)の浄土真宗大谷派教覚寺に生まれた専精は、
幼い頃から漢学の素養に優れ、独学で仏教の再興のための研鑽を重ねた。その真摯な取り組みが高く
評価され、後に日本で初めて仏教の研究者として文学博士号を受けた。門下生からは著名な仏教学者
を多数輩出している。明治38年本校を創立し、大正時代の末まで初代校長に。昭和4年に78歳の
生涯を終えたが、逝去に際し、天皇陛下から特旨叙位が贈られた。

   東洋女子学園沿革碑
   明治38年4月16日東京帝國大学名誉教授帝國学士院会員文学博士村上専精によって創
   立 専精は学界宗教界に偉大な業績を残した佛教学の先覚者で、夙に高僧の蔭に賢母のあ
   ることに着眼し、佛教精神に基づく女子教育の理想を掲げた。その綱領の第一に現時の女子
   教育に往々欧米皮相の習俗に偏倚して本邦固有の美風を毀損せんとするの弊あるを省み、
   博く彼の長を採ると共に益我が特色を発揮せんことを期す 第二に専ら女子の天性に鑑み
   女子の品性を保ち、又その天職を完うすべき資力を養成せんとすとあり。女子は男子に異
   る天職があり天性の資質を伸長させ、有為な女性の育成に努めた 爾来年々校運は隆盛を
   極めたが、昭和20年戦火を蒙り灰燼に帰した 昭和26年この地に復興 その間、昭和
   23年学制改革により東洋女子高等学校と改称。昭和25年学校法人東洋女子学園を設立。
   創立80周年を迎え、建学の精神のを高揚し、光輝ある傳統を継承して、茲にその沿革を
   刻し発展を祈念する
   昭和59年甲子             学校法人東洋女子学園理事長村上健蔵撰併書
                        東洋女子学園創立80周年記念同窓会寄贈
 


■伊勢五
 千石3丁目38番9号にある老舗米穀商。正確な創業年代は不明だが、享保年間(1716~17
36)には商いをしていたといわれている。伊勢五の名称は、初代の今井(伊勢屋)五郎右衛門から
採ったもの。出桁造りの主屋は明治初期の建設、蔵は土蔵造りの2階建てで、大正十二年頃の建築。
昭和34年頃に改造し、正面は硝子戸に店も土間の部分が多くなった。現在の看板はその時に新調し
たものだ。店舗・蔵は国の登録有形文化財に指定されている。


■文京宮下公園
 千石4丁目23番1号、23番全域を占める区立公園。昭和40年7月7日開園。


■巣鴨大鳥神社

 千石4丁目25番15号にある子育稲荷社。貞享五年(1688)巣鴨村の新左衛門という者の勧
請により「巣鴨稲荷社」として創設された。後に日蓮宗霊感院が別当となり、宝暦五年(1755)
は時の鐘が造られ、明治初年まで12辰が報じられた。嘉永二年(1849)当時の霊感院大僧正が
「慈悲の手の内」なる文書を記し、「子育稲荷大明神」と改称し本殿を建立した。参詣者が相次ぎ、
社前の通りは繁盛し「稲荷横丁」と呼ばれもした。元治元年(1864)に初めて「酉の市」が立っ
たとか。

 子育稲荷神社
 境内にある。
 


■西原町児童遊園
 千石4丁目34番22号にある区立公園。昭和24年4月1日開園。


■千石四丁目児童遊園
 千石4丁目40番16号にある区立公園。昭和45年4月1日開園。
 

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